渡邊大門編『家康伝説の嘘』
これは11月28日分の記事として掲載しておきます。柏書房より2015年11月に刊行されました。さすがに徳川家康のことともなると、大まかな事績を知っているのですが、この十数年間、戦国時代~江戸時代初期についての勉強が停滞しており知識が古くなっていそうなので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。家康について一般層も関心を持ちそうな問題を広範に取り上げているのが本書の特徴で、内容は充実していると思います。家康について近年の研究成果を踏まえた知識を得たいと思う一般層にとって格好の入門書になっている、と言えそうです。価格も手ごろで、私のような一般層もわりと気軽に購入できそうなのはありがたいことです。以下、各論考について簡潔に備忘録的に述べていきます。
第1部 権力確立期の家康
●小川雄「「徳川四天王」の実像」P12~29(第1章)
徳川四天王とは、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政という家康の家臣四人のことであり、恥ずかしながら知らなかったのですが、酒井忠次以外の三人を徳川三傑と称することもあるそうです。忠次を除外した呼称もあるように、忠次は他の三人とは異なり、家康が幼少の頃から徳川(松平)家の重臣として活動していました。一方、他の三人は忠次ほど恵まれた出自ではなく、家康の側近から取り立てられていきました。忠勝は誕生前後に父親が討ち死にし、家の存続も危うい状況でした。康政は諸子で、直政は三河出身の他の三人とは異なり遠江出身でした。
四人のなかで最年長の忠次が当然のようにまず重用されたわけですが、1580年代後半には隠居し、1580年代に忠勝・康政・直政の三人が台頭していきました。家康の関東入部後、直政が12万石、忠勝・康政が10万石の知行高だったのにたいして、忠次の後継者である家次の知行高は3万石でした。ただ、家次が冷遇されたというわけでもなく、忠勝・康政・直政の三人の知行高が豊臣政権下の大名家臣としては破格の高禄だった、と指摘されています。
●柴裕之「松平信康事件は、なぜ起きたのか?」P30~46(第2章)
家康の嫡男の信康が自害に追い込まれ、その母の築山殿が殺害された事件については、娘婿である信康の器量を怖れた織田信長が、信康の妻である娘からの手紙を口実として信康を切腹させるよう家康に命じた、との俗説が根強くあるように思います。本論考は、浜松の家康周辺が織田家に従って対武田家強硬派だったのにたいして、岡崎の信康周辺は対武田家融和派だったことが、信康事件の真相だったのではないか、との見解を提示しています。当時、数年後の武田家滅亡が確実視されていたわけではなく、武田家との戦いで負担を強いられることを嫌う人々が、武田家との融和を志向したのではないか、というわけです。武田家との戦いの前線となりやすい浜松周辺の家臣団とは異なり、岡崎周辺の家臣団には、負担を強いられるものの功績をあげる機会が少ない、との不満があったのかもしれません。
●鈴木将典「家康の領国支配は、どのように行われたか?」P47~64(第3章)
今川家から離反してより関東入部までの家康の領国支配について解説されています。家康の領国支配は、基本的には他の戦国大名と大きく変わってはいなかったようです。家康は枡の統一など大名への求心力を高めるような政策を施行していきますが、従属国衆のなかには、じゅうらいからの地域的な枡を使い続ける者もいました。この点は、太閤検地で「日本全国」での統一的な支配体制を築いたとされる豊臣政権において、じっさいには各大名で度量衡や年貢賦課基準などが異なっていたことと相通ずる、と指摘されています。なお、主題とは直接的には関係ないのですが、本論考によると、家康は機嫌の良し悪しの差が激しく、家臣は気を遣っていたかったそうです。
●中脇聖「本能寺の変前後における家康の動きとは?」P65~82(第4章)
表題とは異なり、桶狭間の戦いから武田家滅亡までの家康の動向もある程度解説されています。本能寺の変後、家康は伊賀から北伊勢を通って三河へと帰国した、とされています。本論考で指摘されているように、当時、落ち武者狩りは珍しくなかったため、家康も落命する可能性があったわけで、じっさい、家康と途中まで同行していた穴山梅雪は落ち武者狩りにより落命しています。三河に帰国後の家康の行動は迅速とは言えなかったようで、これは上洛して光秀を討伐する意図がなかったからだろう、というのが本書の見解です。本能寺の変後、家康にとって直接の脅威となった大勢力は後北条家でした。家康は後北条家と和睦を締結するものの、真田家の扱いなど、火種の残るものだったことが指摘されています。
第2部 豊臣政権下の家康
●長屋隆幸「小牧・長久手の戦いで家康は負けたのか?」P84~103(第5章)
本論考は、小牧・長久手の戦いを天正12年4月9日の合戦としてだけではなく、広く秀吉側対信雄・家康側との戦役として把握しています。小牧・長久手の戦いは、通俗的には家康が秀吉に勝ったとされており、秀吉は家康を軍事的に制圧できなかったため、征夷大将軍に就任できなかった、あるいは就任を諦め、伝統的な朝廷の官位に支配の正当性を求めた、との見解も提示されています。しかし本論考は、近年の研究成果を踏まえて、戦役としての小牧・長久手の戦いの勝者は明らかに秀吉である、との見解を提示しています。
●竹井英文「なぜ家康は江戸に入ったのか?」P104~118(第6章)
家康が関東入部にさいして江戸を拠点にした理由が検証されています。これに関しては、主導したのが家康なのか秀吉なのか、秀吉だとしたらどのような理由なのか、といったことが論じられてきました。たとえば、優遇策・謀略・敬遠などといった理由が提示されました。本論考は、当時すでに江戸が水上・陸上交通の重要拠点となっていたこと、後北条家の末期にあって江戸が関東支配の拠点になりつつあったことなどを指摘し、家康の関東入部は秀吉の東国支配構想の一環であり、家康が江戸を拠点としたこともそうした文脈で解されるとして、家康が江戸を拠点としたことは秀吉の意向によるもの、との見解を提示しています。
●堀越祐一「豊臣五大老としての家康」P119~135(第7章)
五大老としての家康は、当初から巨大な権限を有していたのではなく、同じく五大老の一人だった前田利家の死と、五奉行の一人だった石田三成の死を契機として、大きな権力を有する道を切り拓いていった、との見通しが提示されています。その後の家康は、五大老の前田家を屈服させ、同じく五大老の上杉家を屈服させようとしたところで、関ヶ原の戦いを招来してしまいます。本論考は、家康には安全な政権掌握の道がすでに拓かれていたのであり、関ヶ原の戦いのような大規模な合戦は家康の構想にはなかっただろう、との見解を提示しています。
●光成準治「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」P136~158(第8章)
家康と三成は、秀吉存命中は基本的に没交渉だったようです。ただ、豊臣政権で三成は後北条家と敵対する勢力の取次を務めることが多く、後北条家と姻戚関係にあり、後北条家との宥和を志向した家康とは対立的な立場にあったようです。後北条家の滅亡後も三成と家康との間に交渉がなかったのは、秀吉の意向だったのではないか、というのが本論考の見解です。秀吉は潜在的な脅威である家康を牽制する役割を三成に担わせたかったのではないか、というわけです。その意味で、秀吉没後に三成が家康と激しく対立し、その打倒を企図したのも必然だろう、というのが本論考の見解です。
第3部 関ヶ原の戦い・大坂の陣における家康
●白峰旬「小山評定は本当にあったのか?」P160~178(第9章)
関ヶ原の戦いを描いた小説・映像作品のほとんどで描かれているだろう小山評定が本当にあったのか、という問題を検証しています。本論考はこの問題に関して、史料解釈をめぐる議論を簡潔に紹介しています。本論考は、史料解釈の問題とともに、そもそも小山評定に言及した一次史料が存在しないことと、軍事指揮権の掌握の問題から、小山評定は存在しなかった、との見解を提示しています。今後も議論の続きそうな問題で、注目されます。
●水野伍貴「「直江状」は本物なのか?」P179~199(第10章)
有名な「直江状」が本物なのか、検証されています。「直江状」は以前から有名だったでしょうが、2009年放送の大河ドラマ『天地人』により、さらに有名になったと思われます。本論考は、「直江状」が当時の上杉家の意向を反映したものとは考え難いことや、当時としてはあまりにも非礼な内容であることから、「直江状」は本物ではない、との結論を提示しています。「直江状」は、徳川政権にとっては家康を美化することに、上杉家には家康と敵対して敗北した責任を直江兼続に負わせることに都合がよかったため、偽作・流布されたのではないか、と本論考は推測しています。
●渡邊大門「家康と秀頼との関係─「二重公儀体制」を巡って」P200~218(第11章)
二重公儀体制とは、関ヶ原の戦い後も、将軍職を基軸として天下を掌握しようとする徳川公儀と、将来的な関白任官を視野に入れて将軍と対等な立場で政治的支配を行なう潜在的可能性をもった豊臣抗議とが併存した、との見解です。通俗的見解では、関ヶ原の戦いで徳川家と豊臣氏(羽柴家)との力関係は逆転し、豊臣氏は一大名に転落した、とされます。しかし、関ヶ原の戦いの後の大規模な所領没収と領地配分とは家康主導で行なわれたものの、家康は領地宛行状を発給できなかったように、家康はなおも豊臣秀頼を支える代行者でしかありませんでした。
家康の将軍就任、さらにはその2年後の秀忠の将軍就任後も、徳川政権は秀頼にかなりの配慮を示しており、明確に秀頼を臣従させることができていたわけではありませんでした。こうした点も二重公儀体制の根拠とされていますが、本論考は、徳川政権の優位は諸大名や朝廷との関係でも明らかになりつつあった、と指摘しています。本論考は、家康が秀頼にかなり配慮し、秀頼を最初から攻め滅ぼそうと考えていたわけではないことも確かではあるものの、家康の息子である秀忠が将軍職を継承した時点で徳川公儀は完全に確立され、秀頼にたいして優位に立ったことは間違いないのであり、二重公儀体制を認めるにしても、せいぜい秀忠の将軍就任までだろう、との見解を提示しています。私もこれが妥当な見解なのだと思います。
●渡邊大門「方広寺鐘銘事件の真相とは?」P219~236(第12章)
方広寺鐘銘事件は有名ですが、後世の記録に基づくものも多く、林羅山などの有名人物の関与の度合いも含めて、俗説には誤りが多いと指摘されています。本論考は、方広寺鐘銘事件の背景として、徳川政権が豊臣方を明確に従属化させるために、豊臣方を攻撃する材料を探していたことを挙げています。豊臣方には家康を呪詛する意図はなかったようですが、家康という諱を分断して使用したことなど、当時の社会通念からして落ち度があったことも否定できず、じっさい複数の五山僧のように一級の知識人が鐘銘を批判しています。徳川政権はそれを利用した、というのが本論考の見解です。
第4部 家康の戦略
●千葉篤志「家康は戦さ巧者だったのか?」P238~257(第13章)
ゲームから戦国時代に興味を持った一般層は、人物の能力評価に高い関心を抱いていることでしょう。歴史学ではそうした評価を正面から扱うことはまずないでしょうから、本論考の問題設定はかなり一般層を意識していると言えそうです。本論考は、武田家滅亡までの家康の戦歴を概観し、家康の方針は、小勢力として周囲の大勢力に対峙せざるを得なかったことと、父親の若くしての急死や一族の勢力争いなどにより、自身の裁量で判断する必要性が他の大名より高かったことに規定されているのではないか、との見解を提示しています。
●藤尾隆志「家康はどのように大名統制を進めたか?」P258~276(第14章)
家康の大名統制が、関ヶ原の戦いの後にただちに確立したのではなく、じょじょに強化されていき、江戸時代における将軍と大名との関係を規定していったことが解説されています。関ヶ原の戦いの後に家康が主導した領地配分では、家康は秀頼の重臣という立場を完全に脱却することはできず、領地宛行状を発給できませんでした。大坂の陣の3年前ですら、諸大名に幕府への中世を誓わせたものの、誓紙という形式だったことに、家康が諸大名にたいする絶対的な優位性を確立していなかったことが窺える、と指摘されています。
●神田裕理「家康と天皇・公家衆」P277~295(第15章)
家康と朝廷との関係が検証されています。家康と朝廷との関係を規定した要因として、当時まだ豊臣方が健在で朝廷と秀頼との関係も良好であったことが挙げられています。朝廷は徳川方だけではなく豊臣方も「武家」と認識して関係を構築していた、というわけです。家康の朝廷対策は、豊臣方滅亡後の禁中並公家諸法度において、統制を目的としていた、と考えられてきました。しかし本論考は、朝廷の天皇にたいする認識・要望も取り入れられていたものであり、家康の朝廷対策は、統制というよりは秩序の再整備にあったのではないか、と指摘しています。
●中脇聖「徳川氏は清和源氏の流れを汲むのか?」P296~307(第16章)
家康は生涯にたびたび改姓(氏)したことが知られています。それはどのような意図でなされたのか、ということが検証されています。家康の祖先は元々賀茂氏と称しており、家康の祖父である清康の代に源氏を自称しています。家康は名字(苗字)を徳川に変更するさいに藤原氏となったものの、関東入部の2年前には再度源氏と称しています。その後、秀吉の晩年に家康は豊臣氏になったようですが、関ヶ原の戦いの後に再度源氏と称して征夷大将軍に就任します。本論考は、家康には清和源氏への強いこだわりがあったのではないか、と指摘しています。
第1部 権力確立期の家康
●小川雄「「徳川四天王」の実像」P12~29(第1章)
徳川四天王とは、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政という家康の家臣四人のことであり、恥ずかしながら知らなかったのですが、酒井忠次以外の三人を徳川三傑と称することもあるそうです。忠次を除外した呼称もあるように、忠次は他の三人とは異なり、家康が幼少の頃から徳川(松平)家の重臣として活動していました。一方、他の三人は忠次ほど恵まれた出自ではなく、家康の側近から取り立てられていきました。忠勝は誕生前後に父親が討ち死にし、家の存続も危うい状況でした。康政は諸子で、直政は三河出身の他の三人とは異なり遠江出身でした。
四人のなかで最年長の忠次が当然のようにまず重用されたわけですが、1580年代後半には隠居し、1580年代に忠勝・康政・直政の三人が台頭していきました。家康の関東入部後、直政が12万石、忠勝・康政が10万石の知行高だったのにたいして、忠次の後継者である家次の知行高は3万石でした。ただ、家次が冷遇されたというわけでもなく、忠勝・康政・直政の三人の知行高が豊臣政権下の大名家臣としては破格の高禄だった、と指摘されています。
●柴裕之「松平信康事件は、なぜ起きたのか?」P30~46(第2章)
家康の嫡男の信康が自害に追い込まれ、その母の築山殿が殺害された事件については、娘婿である信康の器量を怖れた織田信長が、信康の妻である娘からの手紙を口実として信康を切腹させるよう家康に命じた、との俗説が根強くあるように思います。本論考は、浜松の家康周辺が織田家に従って対武田家強硬派だったのにたいして、岡崎の信康周辺は対武田家融和派だったことが、信康事件の真相だったのではないか、との見解を提示しています。当時、数年後の武田家滅亡が確実視されていたわけではなく、武田家との戦いで負担を強いられることを嫌う人々が、武田家との融和を志向したのではないか、というわけです。武田家との戦いの前線となりやすい浜松周辺の家臣団とは異なり、岡崎周辺の家臣団には、負担を強いられるものの功績をあげる機会が少ない、との不満があったのかもしれません。
●鈴木将典「家康の領国支配は、どのように行われたか?」P47~64(第3章)
今川家から離反してより関東入部までの家康の領国支配について解説されています。家康の領国支配は、基本的には他の戦国大名と大きく変わってはいなかったようです。家康は枡の統一など大名への求心力を高めるような政策を施行していきますが、従属国衆のなかには、じゅうらいからの地域的な枡を使い続ける者もいました。この点は、太閤検地で「日本全国」での統一的な支配体制を築いたとされる豊臣政権において、じっさいには各大名で度量衡や年貢賦課基準などが異なっていたことと相通ずる、と指摘されています。なお、主題とは直接的には関係ないのですが、本論考によると、家康は機嫌の良し悪しの差が激しく、家臣は気を遣っていたかったそうです。
●中脇聖「本能寺の変前後における家康の動きとは?」P65~82(第4章)
表題とは異なり、桶狭間の戦いから武田家滅亡までの家康の動向もある程度解説されています。本能寺の変後、家康は伊賀から北伊勢を通って三河へと帰国した、とされています。本論考で指摘されているように、当時、落ち武者狩りは珍しくなかったため、家康も落命する可能性があったわけで、じっさい、家康と途中まで同行していた穴山梅雪は落ち武者狩りにより落命しています。三河に帰国後の家康の行動は迅速とは言えなかったようで、これは上洛して光秀を討伐する意図がなかったからだろう、というのが本書の見解です。本能寺の変後、家康にとって直接の脅威となった大勢力は後北条家でした。家康は後北条家と和睦を締結するものの、真田家の扱いなど、火種の残るものだったことが指摘されています。
第2部 豊臣政権下の家康
●長屋隆幸「小牧・長久手の戦いで家康は負けたのか?」P84~103(第5章)
本論考は、小牧・長久手の戦いを天正12年4月9日の合戦としてだけではなく、広く秀吉側対信雄・家康側との戦役として把握しています。小牧・長久手の戦いは、通俗的には家康が秀吉に勝ったとされており、秀吉は家康を軍事的に制圧できなかったため、征夷大将軍に就任できなかった、あるいは就任を諦め、伝統的な朝廷の官位に支配の正当性を求めた、との見解も提示されています。しかし本論考は、近年の研究成果を踏まえて、戦役としての小牧・長久手の戦いの勝者は明らかに秀吉である、との見解を提示しています。
●竹井英文「なぜ家康は江戸に入ったのか?」P104~118(第6章)
家康が関東入部にさいして江戸を拠点にした理由が検証されています。これに関しては、主導したのが家康なのか秀吉なのか、秀吉だとしたらどのような理由なのか、といったことが論じられてきました。たとえば、優遇策・謀略・敬遠などといった理由が提示されました。本論考は、当時すでに江戸が水上・陸上交通の重要拠点となっていたこと、後北条家の末期にあって江戸が関東支配の拠点になりつつあったことなどを指摘し、家康の関東入部は秀吉の東国支配構想の一環であり、家康が江戸を拠点としたこともそうした文脈で解されるとして、家康が江戸を拠点としたことは秀吉の意向によるもの、との見解を提示しています。
●堀越祐一「豊臣五大老としての家康」P119~135(第7章)
五大老としての家康は、当初から巨大な権限を有していたのではなく、同じく五大老の一人だった前田利家の死と、五奉行の一人だった石田三成の死を契機として、大きな権力を有する道を切り拓いていった、との見通しが提示されています。その後の家康は、五大老の前田家を屈服させ、同じく五大老の上杉家を屈服させようとしたところで、関ヶ原の戦いを招来してしまいます。本論考は、家康には安全な政権掌握の道がすでに拓かれていたのであり、関ヶ原の戦いのような大規模な合戦は家康の構想にはなかっただろう、との見解を提示しています。
●光成準治「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」P136~158(第8章)
家康と三成は、秀吉存命中は基本的に没交渉だったようです。ただ、豊臣政権で三成は後北条家と敵対する勢力の取次を務めることが多く、後北条家と姻戚関係にあり、後北条家との宥和を志向した家康とは対立的な立場にあったようです。後北条家の滅亡後も三成と家康との間に交渉がなかったのは、秀吉の意向だったのではないか、というのが本論考の見解です。秀吉は潜在的な脅威である家康を牽制する役割を三成に担わせたかったのではないか、というわけです。その意味で、秀吉没後に三成が家康と激しく対立し、その打倒を企図したのも必然だろう、というのが本論考の見解です。
第3部 関ヶ原の戦い・大坂の陣における家康
●白峰旬「小山評定は本当にあったのか?」P160~178(第9章)
関ヶ原の戦いを描いた小説・映像作品のほとんどで描かれているだろう小山評定が本当にあったのか、という問題を検証しています。本論考はこの問題に関して、史料解釈をめぐる議論を簡潔に紹介しています。本論考は、史料解釈の問題とともに、そもそも小山評定に言及した一次史料が存在しないことと、軍事指揮権の掌握の問題から、小山評定は存在しなかった、との見解を提示しています。今後も議論の続きそうな問題で、注目されます。
●水野伍貴「「直江状」は本物なのか?」P179~199(第10章)
有名な「直江状」が本物なのか、検証されています。「直江状」は以前から有名だったでしょうが、2009年放送の大河ドラマ『天地人』により、さらに有名になったと思われます。本論考は、「直江状」が当時の上杉家の意向を反映したものとは考え難いことや、当時としてはあまりにも非礼な内容であることから、「直江状」は本物ではない、との結論を提示しています。「直江状」は、徳川政権にとっては家康を美化することに、上杉家には家康と敵対して敗北した責任を直江兼続に負わせることに都合がよかったため、偽作・流布されたのではないか、と本論考は推測しています。
●渡邊大門「家康と秀頼との関係─「二重公儀体制」を巡って」P200~218(第11章)
二重公儀体制とは、関ヶ原の戦い後も、将軍職を基軸として天下を掌握しようとする徳川公儀と、将来的な関白任官を視野に入れて将軍と対等な立場で政治的支配を行なう潜在的可能性をもった豊臣抗議とが併存した、との見解です。通俗的見解では、関ヶ原の戦いで徳川家と豊臣氏(羽柴家)との力関係は逆転し、豊臣氏は一大名に転落した、とされます。しかし、関ヶ原の戦いの後の大規模な所領没収と領地配分とは家康主導で行なわれたものの、家康は領地宛行状を発給できなかったように、家康はなおも豊臣秀頼を支える代行者でしかありませんでした。
家康の将軍就任、さらにはその2年後の秀忠の将軍就任後も、徳川政権は秀頼にかなりの配慮を示しており、明確に秀頼を臣従させることができていたわけではありませんでした。こうした点も二重公儀体制の根拠とされていますが、本論考は、徳川政権の優位は諸大名や朝廷との関係でも明らかになりつつあった、と指摘しています。本論考は、家康が秀頼にかなり配慮し、秀頼を最初から攻め滅ぼそうと考えていたわけではないことも確かではあるものの、家康の息子である秀忠が将軍職を継承した時点で徳川公儀は完全に確立され、秀頼にたいして優位に立ったことは間違いないのであり、二重公儀体制を認めるにしても、せいぜい秀忠の将軍就任までだろう、との見解を提示しています。私もこれが妥当な見解なのだと思います。
●渡邊大門「方広寺鐘銘事件の真相とは?」P219~236(第12章)
方広寺鐘銘事件は有名ですが、後世の記録に基づくものも多く、林羅山などの有名人物の関与の度合いも含めて、俗説には誤りが多いと指摘されています。本論考は、方広寺鐘銘事件の背景として、徳川政権が豊臣方を明確に従属化させるために、豊臣方を攻撃する材料を探していたことを挙げています。豊臣方には家康を呪詛する意図はなかったようですが、家康という諱を分断して使用したことなど、当時の社会通念からして落ち度があったことも否定できず、じっさい複数の五山僧のように一級の知識人が鐘銘を批判しています。徳川政権はそれを利用した、というのが本論考の見解です。
第4部 家康の戦略
●千葉篤志「家康は戦さ巧者だったのか?」P238~257(第13章)
ゲームから戦国時代に興味を持った一般層は、人物の能力評価に高い関心を抱いていることでしょう。歴史学ではそうした評価を正面から扱うことはまずないでしょうから、本論考の問題設定はかなり一般層を意識していると言えそうです。本論考は、武田家滅亡までの家康の戦歴を概観し、家康の方針は、小勢力として周囲の大勢力に対峙せざるを得なかったことと、父親の若くしての急死や一族の勢力争いなどにより、自身の裁量で判断する必要性が他の大名より高かったことに規定されているのではないか、との見解を提示しています。
●藤尾隆志「家康はどのように大名統制を進めたか?」P258~276(第14章)
家康の大名統制が、関ヶ原の戦いの後にただちに確立したのではなく、じょじょに強化されていき、江戸時代における将軍と大名との関係を規定していったことが解説されています。関ヶ原の戦いの後に家康が主導した領地配分では、家康は秀頼の重臣という立場を完全に脱却することはできず、領地宛行状を発給できませんでした。大坂の陣の3年前ですら、諸大名に幕府への中世を誓わせたものの、誓紙という形式だったことに、家康が諸大名にたいする絶対的な優位性を確立していなかったことが窺える、と指摘されています。
●神田裕理「家康と天皇・公家衆」P277~295(第15章)
家康と朝廷との関係が検証されています。家康と朝廷との関係を規定した要因として、当時まだ豊臣方が健在で朝廷と秀頼との関係も良好であったことが挙げられています。朝廷は徳川方だけではなく豊臣方も「武家」と認識して関係を構築していた、というわけです。家康の朝廷対策は、豊臣方滅亡後の禁中並公家諸法度において、統制を目的としていた、と考えられてきました。しかし本論考は、朝廷の天皇にたいする認識・要望も取り入れられていたものであり、家康の朝廷対策は、統制というよりは秩序の再整備にあったのではないか、と指摘しています。
●中脇聖「徳川氏は清和源氏の流れを汲むのか?」P296~307(第16章)
家康は生涯にたびたび改姓(氏)したことが知られています。それはどのような意図でなされたのか、ということが検証されています。家康の祖先は元々賀茂氏と称しており、家康の祖父である清康の代に源氏を自称しています。家康は名字(苗字)を徳川に変更するさいに藤原氏となったものの、関東入部の2年前には再度源氏と称しています。その後、秀吉の晩年に家康は豊臣氏になったようですが、関ヶ原の戦いの後に再度源氏と称して征夷大将軍に就任します。本論考は、家康には清和源氏への強いこだわりがあったのではないか、と指摘しています。
この記事へのコメント