平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』
これは11月25日分の記事として掲載しておきます。角川選書の一冊として、角川学芸出版より2015年10月に刊行されました。著者は来年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』の時代考証担当者の一人です。真田信繁については基本的な知識もあやふやなので、来年の大河ドラマの予習の意味にもなると思い、読んでみました。本書は、史料的制約のあるなか、信繁の生涯を詳しく検証しており、信繁の伝記として長く参照されることになるでしょう。私も得るところが多々ありました。史料的制約のため、信繁の事績・評価については確定できないことが多いのですが、記して後考をまちたい、として現時点では推測にすぎないことがたびたび述べられており、この点でも良心的だと思います。
信繁の生涯を検証するさいに、父の昌幸の事績も検証することは必須と言えるでしょうが、本書も昌幸の事績の検証にかなりの分量を割いています。正直なところ、武田家滅亡後の昌幸の動向についてはあやふやな知識しかなかったのですが、本書を読んで改めて、昌幸がめまぐるしく従属先を替えていることを知り、真田家のような中小勢力が動乱の時代に生き抜いていくことの難しさを改めて思い知らされます。本書を読むと、武田家の滅亡から豊臣政権による統一までの間の昌幸と徳川家康との因縁が、昌幸と信繁の選択に大きな影響を及ぼしたように思われます。本書でこの間の経緯を読むと、昌幸も信繁も家康に不信感を抱くのも仕方のないところかな、とも思うのですが、だからといって家康が戦国大名として特別に不誠実な人物だった、というわけでもないのでしょう。
本書の見解で興味深いものは少なくないのですが、関ヶ原の戦いの直前となる第二次上田合戦での秀忠率いる徳川軍にたいする真田家の「勝利」については、俗説を訂正するものとなっています。秀忠は家康の方針変更により当初の予定にあった昌幸討伐から西進することになったのであり、真田家の勝利とはいっても、当初の予定通り秀忠が上田城を攻め続けていたら、やがて昌幸も信繁も敗亡していたかもしれない、と本書では指摘されています。第二次上田合戦での真田家の「勝利」を過大評価することはできないのでしょう。
大坂の陣についての本書の見解は、俗説を大きく訂正するものになっていると思います。まず注目すべきなのは、大坂の陣に関する本書の見解の前提として、牢人問題を重視する認識があることです。家康は大坂冬の陣の後でさえしばらく豊臣氏を滅ぼす意図はなく、豊臣秀頼にしても、冬の陣の後は徳川方との和睦を構想していたものの、強硬派の牢人衆やそれに同調する一部譜代衆の意向に引きずられて、夏の陣に至った、というのが本書の見通しです。
これと関連して興味深いのは、冬の陣が徳川方の敗北として当時の人々に認識されていたのではないか、との本書の見解です。大坂城の堀が埋められているわけですから、冬の陣は豊臣方の敗北と考えるのが妥当だと思いますが、本書は、当時の人々の認識を示す史料を引用するとともに、夏の陣では冬の陣以上に豊臣方に牢人が集まったことを指摘し、当時の人々には冬の陣は豊臣方の優勢と考えられたのではないか、との見解を提示しています。
では、豊臣方はなぜ徳川方の体面を保たせるような形で和睦を締結したのかというと、豊臣方も物資面で苦しかったことが前提としてあり、大坂城を無力化することで、強硬派の牢人衆に豊臣方の今後の勝機がないことを悟らせ、大坂城から退去させる目的があったのではないか、と本書は推測しています。本書のこの見解は、かならずしもじゅうぶんな説得力があるとは思わないのですが、本書が述べているように、今後検証されるに値するだけの問題提起だと思います。
大坂の陣に関しては、この他に、徳川方に実戦経験が不足していたことが、徳川方の苦戦を招いたのではないか、との見解も興味深いものです。また、大坂の陣の規模はたいへん大きなものであり、実戦経験豊富な武士にしても、戸惑いが見られたことが窺えます。また、徳川方が諸大名の寄せ集めであり、統制が上手くいっていなかったことも窺えます。もっとも、これは豊臣方も抱えていた問題であり、情報通信技術や社会構造の問題などから、前近代のある程度以上の規模の軍隊に広く見られることなのでしょう。
信繁の生涯を検証するさいに、父の昌幸の事績も検証することは必須と言えるでしょうが、本書も昌幸の事績の検証にかなりの分量を割いています。正直なところ、武田家滅亡後の昌幸の動向についてはあやふやな知識しかなかったのですが、本書を読んで改めて、昌幸がめまぐるしく従属先を替えていることを知り、真田家のような中小勢力が動乱の時代に生き抜いていくことの難しさを改めて思い知らされます。本書を読むと、武田家の滅亡から豊臣政権による統一までの間の昌幸と徳川家康との因縁が、昌幸と信繁の選択に大きな影響を及ぼしたように思われます。本書でこの間の経緯を読むと、昌幸も信繁も家康に不信感を抱くのも仕方のないところかな、とも思うのですが、だからといって家康が戦国大名として特別に不誠実な人物だった、というわけでもないのでしょう。
本書の見解で興味深いものは少なくないのですが、関ヶ原の戦いの直前となる第二次上田合戦での秀忠率いる徳川軍にたいする真田家の「勝利」については、俗説を訂正するものとなっています。秀忠は家康の方針変更により当初の予定にあった昌幸討伐から西進することになったのであり、真田家の勝利とはいっても、当初の予定通り秀忠が上田城を攻め続けていたら、やがて昌幸も信繁も敗亡していたかもしれない、と本書では指摘されています。第二次上田合戦での真田家の「勝利」を過大評価することはできないのでしょう。
大坂の陣についての本書の見解は、俗説を大きく訂正するものになっていると思います。まず注目すべきなのは、大坂の陣に関する本書の見解の前提として、牢人問題を重視する認識があることです。家康は大坂冬の陣の後でさえしばらく豊臣氏を滅ぼす意図はなく、豊臣秀頼にしても、冬の陣の後は徳川方との和睦を構想していたものの、強硬派の牢人衆やそれに同調する一部譜代衆の意向に引きずられて、夏の陣に至った、というのが本書の見通しです。
これと関連して興味深いのは、冬の陣が徳川方の敗北として当時の人々に認識されていたのではないか、との本書の見解です。大坂城の堀が埋められているわけですから、冬の陣は豊臣方の敗北と考えるのが妥当だと思いますが、本書は、当時の人々の認識を示す史料を引用するとともに、夏の陣では冬の陣以上に豊臣方に牢人が集まったことを指摘し、当時の人々には冬の陣は豊臣方の優勢と考えられたのではないか、との見解を提示しています。
では、豊臣方はなぜ徳川方の体面を保たせるような形で和睦を締結したのかというと、豊臣方も物資面で苦しかったことが前提としてあり、大坂城を無力化することで、強硬派の牢人衆に豊臣方の今後の勝機がないことを悟らせ、大坂城から退去させる目的があったのではないか、と本書は推測しています。本書のこの見解は、かならずしもじゅうぶんな説得力があるとは思わないのですが、本書が述べているように、今後検証されるに値するだけの問題提起だと思います。
大坂の陣に関しては、この他に、徳川方に実戦経験が不足していたことが、徳川方の苦戦を招いたのではないか、との見解も興味深いものです。また、大坂の陣の規模はたいへん大きなものであり、実戦経験豊富な武士にしても、戸惑いが見られたことが窺えます。また、徳川方が諸大名の寄せ集めであり、統制が上手くいっていなかったことも窺えます。もっとも、これは豊臣方も抱えていた問題であり、情報通信技術や社会構造の問題などから、前近代のある程度以上の規模の軍隊に広く見られることなのでしょう。
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