ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷

 これは11月13日分の記事として掲載しておきます。ブライアン・ウォード=パーキンズ(Bryan Ward-Perkins)著、南雲泰輔訳で、白水社より2014年9月に刊行されました。第1刷の刊行は2014年6月です。原書の刊行は2005年です。ローマ帝国が衰退・崩壊し、古代は終焉して暗黒の中世が始まった、との見解は今でも一般では根強いようです。これまで、ローマ帝国の衰退・崩壊には大きな関心が寄せられており、本書でも取り上げられているように、ある研究者によると、ローマ帝国の衰退の要因は210通りにも分類されるそうです。

 しかし近年では、ローマ帝国の衰退・崩壊を強調するのではなく、古代から中世への長い移行期として「古代末期」との時代区分を設定し、文化・心性の連続性を強調する見解が支持を集めており、現代日本社会において私のような門外漢にも浸透しつつあるのではないか、と思います(関連記事)。ローマ帝国およびローマ「文明」は西ローマ帝国とともに滅亡したのではなく、緩やかに変容していったのではないか、というわけです。そうした古代末期論では、宗教(キリスト教)の役割が重視されています。

 本書は諸文献も引用していますが、おもに考古学的な研究成果に依拠して、古代末期論の提示する見解には大きな偏りがあり、ローマ帝国の滅亡とともにローマ「文明」も崩壊したのだ、との見解を提示しています。もっとも、この場合の「ローマ帝国の滅亡」とは西ローマ帝国のことであり、本書がローマ「文明」の崩壊と把握するのも、西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)が対象です。ローマ帝国東方では、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が西ローマ帝国の滅亡後1000年近く存続しました。

 本書がローマ「文明」崩壊の根拠としているものとして、識字率の低下もありますが、これは推定が難しいことを本書も認めており、決定的な根拠とはされていません。本書がローマ「文明」崩壊の重要な根拠としているのは、陶器や瓦といった身近な日常生活用品や貨幣です。このうち、瓦については、ローマ帝国期には社会の上層ではない人々の住宅でも瓦葺だったのに、西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパ社会では、瓦葺は一部の建築物に限定される、と本書では指摘されています。もっとも、これについては、瓦葺から茅葺への変化は、気候に対応した文化的な変容であり、「文明」衰退の根拠にはならないかもしれない、との懸念も取り上げられています。

 本書がローマ「文明」衰退の重要な根拠としているのは陶器です。4世紀以前には社会の中層・下層にまで、質の高い統一的な規格の陶器が用いられていたのにたいして、西ローマ帝国滅亡後には、そうした質の高い陶器が社会の中層・下層では見られなくなる、と本書は指摘します。ローマ帝国時代には、社会の中層・下層でも用いられていたそうした質の高い陶器はしばしば遠隔地で生産されており、大規模で複雑で広範な流通・経済の仕組みが存在していた、というのが本書の見解です。

 そうした「洗練」され複雑な経済の仕組みが、西ローマ帝国とともに崩壊していった、というわけです。西ローマ帝国の滅亡にともない、西ヨーロッパにおいて貨幣の使用が減少したと推定されるのも、そうした複雑な経済の仕組みが崩壊していったことと関連している、と本書では指摘されています。また、古環境の大気汚染に関する研究から、ローマ帝国時代と比較して、ローマ帝国崩壊後の数世紀の大気汚染の水準が先史時代に近い水準にまで落ち込み、汚染の水準がローマ帝国時代にまで上昇したのは16~17世紀になってからである、とも指摘されており、「洗練」され複雑な経済の仕組みが崩壊した根拠とされています。

 ただ、上述した西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の長期の存続の問題とも関わってきますが、本書は、ローマ帝国の経済の様相は地域により大きく異なっていた、と強調します。西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)においては、ローマ帝国(西ローマ帝国)の崩壊にともない、「洗練」され複雑な経済は崩壊します。しかし、その西ヨーロッパにおいても、地域により様相がかなり異なることを本書は指摘しています。たとえばイタリアでは、4世紀の間に衰退が始まり、5世紀になるとやや加速しつつも、600年頃まで緩やかに経済的指標が低下していきます。

 もっとも、緩やかな低下とはいっても、長期的にはその間ほぼずっと低下し続けているわけで、300年頃と600年頃とを比較すると、推定される経済の複雑さには大きな違いが生じています。西ヨーロッパにおいて経済的複雑さがローマ帝国時代の水準に回復するのがいつなのか、諸見解があるようですが、上述した大気汚染の研究からは、西ローマ帝国の滅亡後1000年以上要したとの見解もあり得るわけで、ローマ帝国における経済的水準の高さが窺われます。西ヨーロッパでもブリテン島では、5世紀初頭に経済水準の劇的な低下があり、それ以降700年頃までほとんど回復していない、と推定されています。本書は、ブリテン島ではローマ帝国の崩壊(ブリテン島におけるローマの統治体制の崩壊)とともに、その経済的複雑さが先史時代の水準にまで低下してしまった、との見解を提示しています。

 一方、ローマ帝国東方は西方とは様相がかなり異なります。たとえばエーゲ海地域では、その経済的水準は300年頃から5世紀前半まで多少低下したくらいで、その後に6世紀前半にかけて上昇していき、それ以降7世紀初頭にかけて緩やかに低下していき、7世紀初頭以降に急激に低下します。レヴァントでは、300年頃から6世紀前半にかけて上昇していき、その後に緩やかに低下していきます。こうしたローマ帝国の西方と東方における経済的水準の変化の違いは、西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の存続とを反映しているようですが、本書は、元々の経済的仕組みの堅固さに差があったのではなく、地理的な違いなどの偶然の事情により、ローマ帝国の東方は西方と違い崩壊を免れたのだ、との見解を提示しています。

 本書はこのように、考古学的研究成果から推定される経済的水準を根拠に、ローマ帝国西方においてローマ帝国とともに「文明」も崩壊したのだ、と強調します。古代末期論は、ローマ帝国東方の5世紀以降も続く経済的繁栄や心性史を重視するあまり、ローマ帝国全体が緩やかに変容していった、との偏った見解を提示している、と本書は批判します。しかし本書は一方で、古代末期論が多くの魅力的な見解を提示してきたことも認めており、本書の見解と古代末期論とが両立し得ることを指摘しています。本書が指摘するように、ローマ帝国の崩壊や古代~中世への移行とはいっても、地域により様相がかなり異なるようなので、ローマ帝国の分裂・(西方での)崩壊を考察するさいには、ローマ帝国を一括して把握することは大いに問題がある、と言うべきなのでしょう。

 本書の見解は、現代社会への重要な示唆を提示しています。本書を読むと、ローマ帝国の複雑で巨大な政治体制が、大規模で複雑な経済の仕組みを可能にしていた側面が多分にあるように思われます。この経済的仕組みは、もちろん近代以降と比較すると未熟だったとはいえ、分業化の進展したものでした。ローマ帝国の統治体制が、「外敵」たる「蛮族」の侵入や「内乱」などにより崩壊すると、それに依拠していた大規模で複雑な経済の仕組みも崩壊していきます。本書は、ローマ帝国の西方における統治体制の崩壊が5世紀の時点で必然だったわけではない、との見解を提示しています。数々の避けられ得る判断の誤りの結果、西ローマ帝国は滅亡した、というわけです。「蛮族」はローマ帝国の「快適な」体制を破壊しようとしたのではなく、それに参入したかった、というのが本書の見解であり、そこからも現代社会が汲み取るべき教訓は多いように思われます。

 現代社会は、ローマ帝国時代とは比較にならないほど経済において分業化が進展しています。そうした社会は、一度崩壊すると、元の水準に回復するまで長期間を要する脆弱なものなのかもしれません。私も含めて、現代社会の経済的仕組みが劇的に崩壊することを実感しにくい人は少なからずいるかもしれません。しかし、ローマ帝国の西方における政治体制と大規模で複雑な経済的仕組みの崩壊を考えると、ローマ帝国時代の「快適さ」がローマ帝国の崩壊とともに失われた、と本書が指摘するように、現代社会の「快適さ」が避けられ得る判断の誤りの蓄積により失われてしまう可能性を、真剣に考えるべきなのでしょう。

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