井上文則『軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡』

 講談社選書メチエの一冊として、講談社より2015年5月に刊行されました。本書は、軍人皇帝時代にローマ帝国の支配の様相が変容したことを論じ、西ローマ帝国の滅亡までを取り上げています。本書の特徴は、ローマ帝国の変容・衰退を時代の近い漢王朝やもっと広く中華地域の変容と比較し、ローマ帝国の変容・衰退の性格を論じていることです。どの学問分野でも細分化が進むなか、こうした壮大な比較は勇気の必要なことでしょうが、意義のあることだとも思います。

 軍人皇帝時代には皇帝が短期間に交代していきましたが、それが殺害によることも多く、支配層間においては実に殺伐とした時代だ、との印象を受けます。「僭称」した「皇帝」も含めると、多くの者が皇帝と称しており、私のような門外漢には、ある程度大ざっぱな流れを把握するのもなかなか難しい時代です。じっさい、これまでローマ史の概説を複数読んできて、今回本書を読んでも、どれだけ軍人皇帝の時代を把握できているかというと、心もとない限りです。本書も、今後時間を作って再読していかねばならないでしょう。後述するように本書の見解には疑問も残りますが、色々と教えられ考えさせられる良書であることは間違いない、と思います。

 本書は、軍人皇帝時代でもウァレリアヌスの時代を画期として高く評価しています。ウァレリアヌスは、サーサーン王朝との戦いで捕虜になった情けない皇帝との評価が一般的かもしれませんが、ローマ帝国分割統治やじゅうらいよりも騎兵に比重を置いた中央機動軍の創設や、元老院議員身分に囚われない軍要職への登用など、ローマ帝国のその後の在り様の起点になった、というのが本書の評価です。このような転換の背景として、外部勢力との戦いが恒常化していき、ローマ皇帝がローマから離れる期間が長期化したというか、ローマに滞在することが珍しくなり、皇帝と元老院との距離が開いていったことがあるようです。分割統治により、ローマと皇帝との距離はさらに開いていくことになります。

 元老院議員身分に囚われない軍要職への登用について本書は、元老院議員には文人志向が強く、軍団を指揮するにいたるまでに軍務を経験する期間が短いので、元老院議員が軍団を指揮することの弊害は大きく、ウァレリアヌスは軍制を改革しようとした、と説明しています。元老院議員は、その文人志向もあり、軍から遠ざけられていきます。ただ、共和政期には元老院議員身分の軍指揮官のもと、ローマはカルタゴなどの強敵を相手に拡大していったわけで、軍人皇帝の時代に元老院議員身分の軍指揮官では通用しなくなった理由は複雑なのでしょう。

 支配層の在り様が軍人皇帝時代に変容していったことを顕著に示す例として、本書はバルカン半島の人々(本書は便宜的にイリュリア人と呼んでいます)が相次いで皇帝に即位したことを挙げています。バルカン半島では農業生産性の低さから大土地所有制とそれに依存する元老院議員身分の貴族制が発達せず、軍人を志す者が多かったことが、その背景として挙げられています。皇帝直属の中央軍が貧弱だったじゅうらいの軍制にたいして、外敵に迅速に対応すべく軍人皇帝時代に創設された中央機動軍においてイリュリア人が重要な役割を果たし、皇帝を輩出していった、というのが本書の見通しです。

 しかし本書は、そうしたイリュリア人の地位も、ローマ帝国の分裂傾向の強まりとともに低下していった、と指摘します。帝国が一体化している状況においては、皇帝がどこに遠征しようとも、イリュリア人が主導的役割を果たす中央機動軍もそれに同行することができました。しかし、帝国が分裂していくと、ローマ帝国各地の皇帝(正帝と副帝)・指導者は、根拠地で集めた兵たちに軍事力を依存しなければならなくなります。そうすると、たとえばローマ帝国西部において、イリュリア人の地位は相対的に低下し、ゲルマン人の地位が向上していくことになります。

 元老院はローマに滞在することが珍しくなった皇帝と疎遠になっていき、軍の要職からも遠ざけられていきましたが、一方で、皇帝と疎遠になることは、身近に存在する皇帝から抑圧されてその賛同機関としての性格を強めた帝政期と比較して、元老院が「復権」する道も開きました。ディオクレティアヌス帝の時代には、元老院議員は要職にほとんど起用されなくなりましたが、ディオクレティアヌス帝退位後の混乱を収拾したコンスタンティヌス帝は、元老院を優遇するとともに、拡大します。これには、分裂傾向の強まるローマ帝国において西方を根拠地として権力を掌握したコンスタンティヌス帝が、イリュリア人の軍事力に全面的に依拠できなくなったため、その代替となる勢力と提携する必要があった、という事情があるようです。

 その元老院議員について、中華地域の支配層との比較からローマ帝国衰亡の意義を検証しているのが、本書の特徴となっています。本書で前提とされている歴史認識は、ローマ帝国では国家とともに文明も崩壊したのにたいし、中華地域では国家(王朝)は崩壊・滅亡したものの、文明は継続した、というものです。ヨーロッパの古代~中世への移行に関しては、伝統的な崩壊・断絶史観にたいして継続性を重視する見解も提示されていますが(古代末期論)、インフラや経済や文化などで、衰退・崩壊・断絶と言える広範な事象があったことは否定できないでしょう。

 本書は、ヨーロッパ地域、とくに西部では、ローマ帝国の衰退・崩壊とともに武人(軍人貴族)が政権を握るようになり、中世にもその体制が続いていくものの、支配層の武人たちはローマ帝国の元老院議員のように文人化することはなく、ローマ文明は高水準のままでは継承されなかった、と把握します。一方対照的に中華地域では、武人が政権を握るものの、やがては文人化していき、中華文明は衰退・崩壊・断絶することなく、古代から中世を経て継続していった、と把握しています。

 本書はこの違いの要因として、中華地域では文人が支配層たるべきとの観念が強かったのにたいして、ローマ帝国ではそうした観念が確立しなかったからではないか、と指摘しています。本書は、こうした違いが生じたのは民衆の広範な支持を得られていたか否かによる、との見解を提示しています。ローマ帝国では格差が拡大し、元老院議員身分の支配層への反感が民衆の間で3世紀以降に強まっていったのではないか、というわけです。

 そのため、軍人皇帝時代以降、さらにはコンスタンティヌス帝以降に支配層として拡大していった軍人貴族(彼らもとくにコンスタンティヌス帝以降、元老院議員身分を獲得していきますが)にとって、旧来の文人的な元老院貴族との提携は魅力的ではなく、旧来の元老院貴族が担ってきたローマ文明は継承されなかったのではないか、というわけです。この背景として、軍人貴族は戦いのためにローマにはいないことが多かった、という事情もあるようです。

 ローマ文明の担い手は基本的にはローマの富裕な元老院貴族のみだった、と本書は指摘します。軍人皇帝時代以降、ローマ帝国では(西ローマ帝国滅亡以降は西ヨーロッパにおいて)軍人貴族が支配層に進出し、実権を握っていきます。そうした軍人貴族にとって、旧来の元老院貴族は民衆の支持を得られておらず、提携相手としては魅力的ではないことと、ローマに滞在することが少なく、元老院貴族との直接的な接触の機会に乏しいため、元老院貴族との婚姻などを通じた提携・密接化が生じませんでした。そのため、都市の元老院貴族が担い手だったローマ文明は、ローマ帝国とともに崩壊してしまった、というのが本書の見通しです。

 本書のローマ帝国崩壊論は、中華地域をも視野に入れたユーラシア規模での壮大な比較史です。ただ、民衆の支持の厚さの違いという見解は、今後も議論が続くでしょう。本書は、元老院議員の意識の在り様が変わり、エヴェルジェティズム(施与行為)が3世紀末以降には停止してしまったことを、民衆の支持が得られなくなった要因として挙げています。本書から窺えるのは、元老院議員の身分の維持・獲得にさいして、都市住民からの支持よりも、専制化していった皇帝・帝国中枢との関係が重要になっていったことが背景としてあるのかもしれない、ということです。

 エヴェルジェティズムがローマ帝国のインフラの整備に大きな役割を果たしていただろうということを考えると、ローマ帝国とともにインフラも崩壊してしまったことは不思議ではありません。本書の見解は、ローマ帝国の衰亡を上手く説明できているように思うのですが、かりに旧来の文人的な元老院貴族に民衆の広範な支持がなかったとしても、本書が指摘するように、軍人皇帝時代以降の元老院貴族は、4世紀後半頃までは、ローマが比較的平穏だったことから以前よりも富裕になっていったわけで、軍人貴族がそうした元老院貴族と積極的に提携していかなかった理由が、本書の解説ではどうもよく分かりません。

 「文明の継続」に関して、本書が前提としているようなローマ帝国と中華地域との決定的な違いがおおむね妥当なのだとしたら、それの要因は、民衆の支持の厚さの違いというよりは、支配層の観念に起因するものなのかもしれません。本書でも、支配層は文人であるべきとの観念が存在した中華地域にたいして、文学的営為が個人的なものにすぎなかったローマ帝国というように対比されていますが、ギリシア文化に「かぶれる」ことを忌避するような風潮さえあった「質実剛健」なローマ社会において、中華地域の「文章經國之大業」というような観念は定着せず、それが国家の衰退・崩壊にともなうローマ文明の崩壊の要因だったのかもしれません。もっとも、上述したように、ローマ文明の崩壊との評価には色々と議論もあるでしょうが。

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