鶴間和幸『人間・始皇帝』
これは10月18日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2015年9月に刊行されました。始皇帝の伝記となると『史記』が基本となり、もちろん本書でもそれは同様なのですが、20世紀第4四半期以降に相次いで発見された出土文献の研究成果を多く取り入れていることが、本書の特徴となっています。それら出土文献の多くは同時代史料であり、『史記』の記述・歴史観に新たな情報を付け加えるとともに、修正することも少なからずあるので、秦漢史の研究の進展に大きく貢献しているようです。
『史記』に基づく伝統的な始皇帝像を提示する一般向け書籍を思春期に読んできた私にとって、その後の読書により知っていたこともあったとはいえ、出土文献の研究成果を多く取り入れている本書は新鮮な始皇帝伝・秦王朝史となったので、興味深く読み進められました。文章も一般向けで分かりやすく、新書として高水準ではないか、と思います。現代日本社会では、私のように『史記』に基づく伝統的な始皇帝像に馴染んでいる人が少なくないでしょうから、本書の意義は大きいと言えるでしょう。
本書の見解で興味深いものは少なくなく、たとえば、始皇帝の母と性的関係を持ち、強大な権力を有するにいたった嫪毐の反乱に関して、嫪毐が始皇帝の母と性的関係を持ったこと自体は、当時の秦では罪ではなかった、との指摘です。出土文献から、寡婦が男性と性的関係を持つこと自体は秦では罪とされなかったことが分かる、というわけです。むしろ、嫪毐や呂不韋との関係が判明したことから、母を咸陽宮より遠ざけた始皇帝(当時はまだ皇帝ではありませんが)が、親への不孝を責められ、けっきょく母を咸陽宮に戻した、と指摘されています。
始皇帝の暗殺を企てた荊軻についての見解も興味深く、荊軻は刺客というより外交官であり、始皇帝を殺そうとしたのではなく、斉の桓公が魯の曹沫に脅迫され、領地の返還を約束させられた故事を再現しようとしたのではないか、との見解が提示されています。この始皇帝暗殺未遂事件(本書にしたがえば、脅迫事件と言うべきでしょうか)から、秦において厳格な法治主義が徹底されていたのではないか、と本書は推測しています。しかし一方で、秦は法治主義だけではなく、倫理観に基づく徳治主義的な方針も打ち出していたことが指摘されています。
始皇帝の死後に趙高(本書では、宦官ではなかった、と指摘されています)と李斯が共謀し、始皇帝の長男の扶蘇を後継者とする遺詔を破棄して新たに詔を偽造し、始皇帝の末子の胡亥を後継者とした、とする『史記』の話はよく知られていると思います。これに関しては、そのような秘事が外部に伝わるものだろうか、との疑問から、以前より疑問が呈されてきました。ただ、『史記』の著者である司馬遷が生きた時代に、そのような(おそらくは創作の)話が語られ、伝わっていた可能性は高いでしょう。
しかし、近年発見された竹簡の『趙正書』には、病の重くなった始皇帝は、李斯と馮去疾の提案に基づき、胡亥を後継者と決めた、とあるそうです。『趙正書』は漢の武帝の前半期、つまり『史記』よりもやや早くまとめられたのではないか、と推測されているそうです。したがって、この問題に関して『史記』とは史料としての性格・信頼性のあまり変わらないだろう『趙正書』の方が正しいとも言えないわけですが、始皇帝の後継者をめぐる物語は、武帝期には複数伝えられていた可能性が高い、ということなのでしょう。始皇帝の後継者の決定過程をめぐる議論は、今後も続いていきそうです。
『史記』に基づく伝統的な始皇帝像を提示する一般向け書籍を思春期に読んできた私にとって、その後の読書により知っていたこともあったとはいえ、出土文献の研究成果を多く取り入れている本書は新鮮な始皇帝伝・秦王朝史となったので、興味深く読み進められました。文章も一般向けで分かりやすく、新書として高水準ではないか、と思います。現代日本社会では、私のように『史記』に基づく伝統的な始皇帝像に馴染んでいる人が少なくないでしょうから、本書の意義は大きいと言えるでしょう。
本書の見解で興味深いものは少なくなく、たとえば、始皇帝の母と性的関係を持ち、強大な権力を有するにいたった嫪毐の反乱に関して、嫪毐が始皇帝の母と性的関係を持ったこと自体は、当時の秦では罪ではなかった、との指摘です。出土文献から、寡婦が男性と性的関係を持つこと自体は秦では罪とされなかったことが分かる、というわけです。むしろ、嫪毐や呂不韋との関係が判明したことから、母を咸陽宮より遠ざけた始皇帝(当時はまだ皇帝ではありませんが)が、親への不孝を責められ、けっきょく母を咸陽宮に戻した、と指摘されています。
始皇帝の暗殺を企てた荊軻についての見解も興味深く、荊軻は刺客というより外交官であり、始皇帝を殺そうとしたのではなく、斉の桓公が魯の曹沫に脅迫され、領地の返還を約束させられた故事を再現しようとしたのではないか、との見解が提示されています。この始皇帝暗殺未遂事件(本書にしたがえば、脅迫事件と言うべきでしょうか)から、秦において厳格な法治主義が徹底されていたのではないか、と本書は推測しています。しかし一方で、秦は法治主義だけではなく、倫理観に基づく徳治主義的な方針も打ち出していたことが指摘されています。
始皇帝の死後に趙高(本書では、宦官ではなかった、と指摘されています)と李斯が共謀し、始皇帝の長男の扶蘇を後継者とする遺詔を破棄して新たに詔を偽造し、始皇帝の末子の胡亥を後継者とした、とする『史記』の話はよく知られていると思います。これに関しては、そのような秘事が外部に伝わるものだろうか、との疑問から、以前より疑問が呈されてきました。ただ、『史記』の著者である司馬遷が生きた時代に、そのような(おそらくは創作の)話が語られ、伝わっていた可能性は高いでしょう。
しかし、近年発見された竹簡の『趙正書』には、病の重くなった始皇帝は、李斯と馮去疾の提案に基づき、胡亥を後継者と決めた、とあるそうです。『趙正書』は漢の武帝の前半期、つまり『史記』よりもやや早くまとめられたのではないか、と推測されているそうです。したがって、この問題に関して『史記』とは史料としての性格・信頼性のあまり変わらないだろう『趙正書』の方が正しいとも言えないわけですが、始皇帝の後継者をめぐる物語は、武帝期には複数伝えられていた可能性が高い、ということなのでしょう。始皇帝の後継者の決定過程をめぐる議論は、今後も続いていきそうです。
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