南川高志『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より1998年1月に刊行されました。昨年(2014年)1月に本書は文庫化されているので(講談社学術文庫)、おそらくは増補・改訂・解説のあるだろう文庫版を読む方がよいのでしょうが、新書版を安価に入手できたので、こちらを読むことにしました。著者には『新・ローマ帝国衰亡史』という著書もあり(関連記事)、五賢帝の後のローマ帝国の衰亡を検証しています。同書では、ローマ帝国が衰亡へと向かう転機は五賢帝の時代の終焉ではなく、コンスタンティヌス1世の時代とされています。

 本書は、「世界史にあって、もっとも人類が幸福であり、また繁栄した時期」とされるローマ帝国の五賢帝時代を検証していますが、その前提となる、ローマ帝国の五賢帝時代以前の帝政史もやや詳しく取り上げています。とくに、五賢帝時代に直接つながるフラウィウス朝時代、なかでも、五賢帝の初代であるネルウァの前の皇帝だったドミティアヌスについては詳しく取り上げられています。その後に続く五賢帝との対比で「暴君」と語られてきたドミティアヌスですが、広く新興の家柄の人材を登用し、厳格な裁判を行なうなど、広大な帝国となったローマの現実を前提として、意欲的に統治に励んでいた側面もあったようです。そうしたことから、ドミティアヌスを優秀な行政者として評価する見解も提示されてきている、とのことです。

 ドミティアヌスの暗殺後、五賢帝の時代が始まります。しかし、その初代のネルウァに関しては、治政が短かったこともありますが、政治的に緊張状態が続いていたこともあり、安定した時代だったとは評価しにくいようです。ネルウァはトラヤヌスを養子に迎え、後継の皇帝とします。五賢帝の時代には「養子皇帝制度」が機能し、安定した繁栄の時代がもたらされたが、五賢帝の最後のマルクスが実子を後継の皇帝としたため、安定・繁栄が失われた、との見解には根強いものがあるようです。しかし本書は、帝位継承の具体的事実から、「養子皇帝制度」なるものには実態がなかった、との見解を提示しています。

 本書は意識的に五賢帝の時代の「陰」の面を強調しており、そこからローマ帝国を支えていた政治的構造を検証しようとしています。したがって、五賢帝時代のローマ帝国は単に安定・繁栄していたのではなく、とくに帝位継承にさいして帝国内部の政争が激しくなったことや、五賢帝最後のマルクスの治政において外部勢力との戦闘が深刻化していったことなどが強調されています。とはいえ、五賢帝の時代は、帝政前期や軍人皇帝時代といった前後の時代と比較すると、帝国内部の政争も外部勢力との戦闘もさほど深刻ではなく、相対的には安定・繁栄していた時代だと言えそうです。

 本書は五賢帝時代のローマ帝国の安定と繁栄を、次のように説明します。2世紀前半に帝国統治のシステムが安定するとともに、公職就任順序が整備固定化されていきます。そこでは、身分と階層の構造を持つ伝統的なローマ社会が供給する人材を、帝国統治に安定的に組み入れることができるようになりました。同時に、保守的な価値観念に対立しない程度に穏和な形で、新しい活力ある人材を登用することもできました。伝統と現実の双方にうまく適応したシステムが出来上がり、機能していたことが、五賢帝時代の政治的安定と繁栄を支えていました。

 このような五賢帝時代の安定と繁栄も、最後のマルクスの治政には、外部勢力との戦闘が激化することにより、変容していきます。ローマ帝国の人材登用システムでは、軍司令官に軍事面ではアマチュア的な元老院議員を一定数起用せざるを得ず、それが元老院の皇帝への支持にもつながり、帝国の政治的安定をもたらしていました。しかし、外部勢力との戦闘の激化は、軍事の専門家の登用を必要とします。それは、文官的な役割においても同様でした。五賢帝最後のマルクスの治政期にはすでにこうした傾向が現れており、軍人皇帝時代を経て、ローマ帝国は専制君主制へと変容していきます。

 本書は、一般には安定・繁栄を賞賛・強調されることの多い五賢帝時代の「陰」の面を取り上げることにより、五賢帝時代のローマ帝国を支えた政治的構造を明らかにするとともに、外部勢力との戦闘が激化することなどを通じて、人材登用がより「柔軟」になっていき、軍人皇帝の時代を経て専制君主制へといたるローマ帝国の変容を見通しており、たいへん面白く読み進められました。そのうち、増補・改訂・解説のあるだろう文庫版の方も読んでみるつもりです。

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