『天智と天武~新説・日本書紀~』第71話「斑鳩寺炎上」

 『ビッグコミック』2015年9月10日号掲載分の感想です。前回は、斑鳩寺(法隆寺)が燃えるなか、蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)の前で大海人皇子(天武帝)と天智帝(中大兄皇子)が向かい合う、というところで終了しました。今回は、大海人皇子が天智帝に、蘇我入鹿(作中設定では大海人皇子の実父)が自分のものになりきらないと言うなら、入鹿の代わりに私を自分のものにすればよいではないか、と語りかける場面から始まります。

 天智帝はこの大海人皇子の提案に唖然として、まともに返答できず沈黙してしまいます。私では不足なのか、私は蘇った入鹿ではないのか、と大海人皇子は天智帝に問いかけますが、天智帝は唖然とした表情を浮かべたまま、かつての入鹿とのやり取りを想起します。自分から母の宝皇女(皇極帝・斉明帝)を奪った異父弟の月皇子(作中設定では大海人皇子の幼名)を憎んでいた天智帝(当時は即位前ですが、この記事では即位前も天智帝で統一します)は、息子の月皇子を案じる入鹿から、月皇子と会っていただけるなら自分をどのようにしてもかまわない、と提案されて動揺しました。この経緯は、第1話第9話にて描かれています。

 入鹿への強い恋愛感情を抱いていた天智帝は、入鹿が自分に抱かれる覚悟を示したのを見て動揺し、入鹿に手を伸ばそうとします。そこへ、物陰からこの様子を見ていた月皇子が入鹿に声をかけたので、天智帝は慌てて立ち去った、というわけです。入鹿とのこのやり取りを思い出した天智帝は、お前のせいだ、と大海人皇子に言います。月皇子が入鹿に声をかけたので、天智帝は入鹿を抱く機会を逃してしまい、大海人皇子が涙を流して憐れむような、奪うことしかできない男になってしまったのだ、というわけです。

 天智帝は恨みと憎悪の入り混じったような表情を浮かべて、自分をこんな男にした張本人が、自分の欲した母(斉明帝)や入鹿からの愛を慈悲深くも恵んでくれるのか、と詰問するように言い、大海人皇子の手を強く握ります。天智帝は、生まれたばかりの月皇子を殺さなかったこと(この経緯は第21話にて描かれています)を後悔していました。あの時、月皇子を殺していれば、入鹿も母も自らが殺すことはなかったのではないか、というわけです。天智帝は、お前が邪魔しなければ入鹿を抱けたのだ、と強い後悔の念を大海人皇子に吐き出します。

 大海人皇子はそんな天智帝を冷静に見つめ、それは違う、と天智帝に言います。大海人皇子も、物陰から見ていた天智帝と父の入鹿とのやり取りを何度も想起し、あの時、自分が父に声をかけなければ、父は殺されなかったかもしれない、あるいは、父は殺される予感がして天智帝に抱かれてもよいと提案したのか、その時の父の気持ちはどうだったのか、と考えていました。すると天智帝は笑いだし、入鹿は息子のために自分を犠牲にしただけに違いない、と大海人皇子に言います。

 しかし大海人皇子は、この天智帝の解釈を否定します。今の自分にはよく分かるが、入鹿は天智帝に惹かれていた、入鹿の想いに応えなかったのは天智帝の方だ、と大海人皇子は天智帝に言います。動揺した天智帝は、でたらめを言うな、と否定しますが、入鹿の覚悟を知ったあの夜以降、入鹿を抱く機会をいくらでも作れたのにそうしなかったのはなぜなのか、と大海人皇子は天智帝に問いかけます。予想外の申し出にたじろぎ、混乱して、すっかり臆してしまったのではないか、と大海人皇子は天智帝に問いかけつつ、服を脱いでいきます。

 全裸になった大海人皇子を見て天智帝は動揺しますが、大海人皇子の方は平然としており、臆したのでなければ自分を抱け、と天智帝に言います。気は確かなのか、と天智帝に問われた大海人皇子は、狂っているのはお互い様なのだから、狂い始めたあの夜からやり直すのだ、と答えます。大海人皇子は天智帝に、あの時入鹿を抱いていれば今のように苦しむこともなく、血にまみれた帝にもならず、名君となっていたかもしれない、と言います。

 動揺し、怯えたような表情を浮かべる天智帝に、失ったものを取り戻してほしい、そのためなら、自分は大海人を捨てる、と大海人皇子は言います。もう復讐は望まない、自分は入鹿なので好きにするがよい、と言う大海人皇子に、狂っている、と天智帝は言いますが、大海人皇子は躊躇うことなく天智帝の服を脱がしていき、恐れず、何も考えず、身を任せればよい、私が抱いてやる、と言って天智帝を抱きしめます。すると天智帝は、恐怖と快楽のためなのか、気絶してしまいます。そんな天智帝を、大海人皇子は優しく抱きしめます。

 すでに斑鳩寺では火が燃え広がっており、煙のなかで大海人皇子を探していた鵲は、斑鳩寺に安置されていた、入鹿を模した仏像を見つけ出して何とか救い出します。しかし、斑鳩寺ではますます火が広がっており、大海人皇子は助からないと覚悟した鵲が嘆き悲しんでいると、気絶した天智帝を抱いて全裸の大海人皇子が現れ、激しい落雷のなか、燃え盛る斑鳩寺から大海人皇子と天智帝が何とか脱出する、というところで今回は終了です。


 正直なところ、今回の展開には困惑したというか、初期の頃からずっと読んでいながら、本作の根幹部分の解釈を間違っており、これまでの自分の解釈が皮相なものだったと思い知らされて、落ち込んでしまいました。白村江の戦い編で大海人皇子と天智帝との心理戦が描かれていた頃、大海人皇子にも天智帝への性愛的な感情があるのではないか、と考えたこともありますが(第47話)、大海人皇子と天智帝との間の性愛的な感情は、天智帝から大海人皇子への一方通行である、と私はこれまで基本的には解釈していました。それは天智帝が異父弟の大海人皇子にその父の蘇我入鹿の面影を見ているからで、大海人皇子自身を愛しているというよりは、入鹿への愛情を強く投影したものなのだろう、というのが私の見解でした。

 天智帝は入鹿を愛しているとともに、母を奪った入鹿を憎んでもいました。大海人皇子にたいしても、母から愛を奪った存在だとして、天智帝は憎悪を抱いていました。天智帝は大海人皇子を通じて入鹿を見ており、その意味で大海人皇子個人にはさほど性愛的感情を抱いているとは言えず、愛憎相半ばする入鹿への感情とは異なり、憎悪する感情の方が強かったのだろうな、というのがこれまでの私の解釈でした。この解釈自体は、今回を読んでも大きく間違っているわけではないように思います。

 しかし、大海人皇子から天智帝への性愛的な感情は基本的にはない、という解釈はどうも間違っていたようです。今回の大海人皇子の言動を、天智帝を動揺させるためだけの心理戦の一環として解釈することは、さすがに難しいと思います。大海人皇子が父の仇として天智帝への復讐を誓いながら、本格的に命を狙わず、たびたび天智帝を助けたのは、大海人皇子の甘さ(それが大海人皇子の魅力にもなっているのでしょう)と、まだ本格的に復讐を実行する時期ではないという判断(真に事を成したければ、充分な時間をかけて相手を研究し、緻密な計画を立てたうえで待つのだ、さすればその「時」は必ず訪れる、との新羅の武烈王の教え)ともに、家族を求める大海人皇子の強い感情によるものであり、天智帝への性愛的な感情の故ではない、というのがこれまでの私の解釈でした。

 大海人皇子は、額田王との間に娘(十市皇女)がいることを知り、会った時にはたいへん喜んでいました。子供の頃に父方の蘇我本宗家が滅亡し、母とも再会できずに隠れ里で修行の日々を送っていた大海人皇子は、強く家族を欲していたのではないか、と思います。天智帝を身内と発言したこと(第30話)からも、大海人皇子は数少ない生き残りの近親者である天智帝とは、母の斉明帝の希望もあり、復讐心との間で葛藤しつつも、できれば身内として穏やかな関係を築きたかったのだろうな、と私は解釈していました。それが、大海人皇子の天智帝にたいする甘さになっていたのだろう、と考えていたわけですが、そうした要素もあるにしても、大海人皇子から天智帝への性愛的な感情を大きな要素として想定しなければ、二人の関係をよく理解できたことにはならないのでしょう。

 自分の解釈の皮相さもさることながら、年内での完結が見えてきた、ということにはもっと落ち込みました。前回の話は669年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)冬のことだと思っていたのですが、今回670年のことと明示されており、通説にしたがって斑鳩寺は全焼しました。前回から始まった話は669年冬のことで、ここでは斑鳩寺は一部焼けただけで、翌年4月30日に天智帝が再度焼打ちして全焼することになるだろう、と予想していたので、私にとってはかなりの急展開でした。予告でも、「次号、急展開!!」となっており、今後の展開が駆け足になるのではないか、と不安になります。

 何よりも、最後の語りにて、「その後、天智帝は病のために床に臥し、公の場に姿を現さなくなった・・・・・・」と説明されていることが衝撃でした。これまで健康に不安の見られなかった天智帝ですが、今回の大海人皇子とのやり取りによる精神的打撃がよほど大きかった、ということでしょうか。今回は670年4月30日までが描かれたでしょうから、天智帝の病気が公になる(671年9月)までには、大友皇子を首班とする新体制の発足(671年1月5日)や、冠位・法度の施行(671年1月6日)や、漏刻(水時計)を新たな台に置いたこと(671年4月25日)や、天智帝・大海人皇子・群臣が参加して開かれた宴(671年5月5日)などといったところが、主要な出来事となるでしょうか。

 このうち、大友皇子を首班とする新体制の発足は、通説とは異なりすでに中臣鎌足(豊璋)の生前のこととして描かれていますが(第65話)、それ以外にも上記のような本作で描かれても不思議ではなさそうな出来事もあるだけに、次回はそれらが全て省略されて、一気に671年9月以降まで進むのではないか、と不安になります。こうなると、今年(2015年)12月末発売予定の単行本第9集で完結するのではないか、と懸念してしまいます。そうだとすると、第9集には第76話~第78話まで採録されるでしょうから、完結まで残り5話~7話となります。予告でも、「次号、急展開!!」となっていますし、定恵(真人)帰国編が終わってから駆け足気味であることを考えると、残り5話~7話での完結はじゅうぶんあり得るように思います。

 本作では大友皇子・十市皇女夫妻の扱いが大きいので、壬申の乱も詳しく描かれ、単行本では第11集くらいまで続くのではないか、とも期待していたのですが、今回を読むまでの自分は本当に能天気だったのだな、と痛感させられました。正直なところ、今回の話から大海人皇子と天智帝の関係がどう動くのか、予測しにくく、それ以上に、壬申の乱へとどのように話が展開されるのか、予想しづらくなりました。大海人皇子と病に臥せた天智帝とのやり取りも、単純に『日本書紀』にしたがうこともなく、ひねってきそうです。

 現時点で予想しているのは、叔父の大海人皇子への憧憬を隠さない大友皇子が、大海人皇子の天智帝への想いに気づいて屈折していき、それが壬申の乱の要因になる、という展開です。もう一つは、すっかり弱気になった天智帝が、本気で大海人皇子に帝位を継承させようとするものの、近江朝廷への人々の不満を熟知する大海人皇子は火中の栗を拾おうとはせず、反逆者として政権を奪取する決意を固める、という展開です。もう、単行本第11集まで続くとは期待していませんが、何とか単行本では第10集までは続いてほしいものです。本来は蘇我入鹿のことだった聖徳太子が厩戸皇子のこととされたのはなぜか、そもそも作中世界では上宮王家が存在していたのか、藤原不比等(史)はどのように台頭していったのか、といった謎が解明されることも願っています。

 天智帝が父方祖父の入鹿と父の大海人皇子の容貌を引き継いだ大津皇子(これは私の願望というか妄想ですが)を可愛がり、それが朝廷の人間関係を変えていく、といった創作も期待していたのですが、斑鳩寺全焼後、天智帝は病に臥して公の場に姿を現さなくなった、という設定になっていますから、それは期待できそうにありません。おそらく次回は、大海人皇子と病床の天智帝とのやり取りが描かれるのでしょう。天智帝が大海人皇子に後事を託そうとするものの、大海人皇子が固辞して出家し、吉野に退くという話がどう描かれるのか、注目しています。

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