スヴァンテ=ペーボ『ネアンデルタール人は私たちと交配した』
スヴァンテ=ペーボ(Svante Pääbo)著、野中香方子訳、更科功解説で、文藝春秋社より2015年6月に刊行されました。原書の刊行は2014年です。本書は、古生物のDNA(古代DNA)研究の第一人者とも言うべきペーボ博士の自伝であり、古代DNA研究史にもなっています。中心的な話題はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のDNA解析と、現生人類(Homo sapiens)がネアンデルタール人のDNAを継承しているのか、ということであり、その間の苦労、競合相手との競争など、舞台裏も明かされているのが本書の特徴です。私のような門外漢は研究成果だけを知ることが多いので、こうした舞台裏の話は興味深いと思います。
本書はおもに、著者が古代DNA解析を志してから、2010年にネアンデルタール人と現生人類との交雑の可能性を報告した論文を公表し(関連記事)、同年にデニソワ人(種区分未定)のミトコンドリアDNAと核DNAの解析を報告した論文を公表したところまでを対象としています。著者が古代DNAの解析を志した動機として、エジプト学への高い関心がありました。そこから、古代エジプトのミイラ、さらにはもっと古い生物、とくに人類のDNAを解析しようと志した、というわけです。
本書で著者が強調しているのは、古代DNAの解析にさいして、試料汚染をいかに除去するのか、という問題です。著者はこの問題に多大な労力をかけており、それ故に一時は、「派手な」成果を発信し続ける研究者たちの「後塵を拝した」期間もあったようです。その「派手な研究成果」とは、1000万年以上前の生物のDNAを抽出・解析した、というもので、ついには恐竜のDNAを解析した、とさえ報告されました。著者はこうした動向を批判したものの、当初はあまり注目されなかったようです。しかし現在では、1000万年以上前の生物のDNA解析に成功した、との報告は否定されています。
汚染の問題は、ネアンデルタール人のDNA解析においてとくに深刻でした。なぜならば、ネアンデルタール人のDNAはどの現存種よりも現代人のDNAに類似していると予想されるので、ネアンデルタール人化石からDNAを増幅できたとしても、それがネアンデルタール人のものなのか、現代人のDNAによる汚染なのか、区別しづらいからです。著者の率いるチームは、人間ではない動物の古代DNAの解析(こちらでは、現代人のDNAによる汚染をより区別しやすくなります)なども通じて、汚染を防ぐ手法の精度をしだいに向上させていきます。
こうして試行錯誤し、他の研究チームとの競争を強く意識しつつ、著者の研究チームはネアンデルタール人のDNA解析に挑みます。その大きな成果として挙げられるのが、1997年に著者の研究チームがネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの解析結果を報告したことです。これにより、ネアンデルタール人が現生人類と異なる系統の人類であることが遺伝的にもほぼ確定したということで、著者も大きく注目されました。この時点では、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の有無について結論をくだすのは時期尚早だ、との慎重な姿勢を著者は示していました。
両者の交雑の有無という問題を解決するには、ネアンデルタール人の核DNAの解析が必要だということで、著者の研究チームはネアンデルタール人の核DNAの解析に挑戦します。必要なネアンデルタール人の骨を入手するのに苦労するなど、ここでも多くの問題が生じ、宣言したネアンデルタール人のゲノム解読の期限にはとても間に合いそうにない、と著者も何度か前途を悲観したようですが、著者の研究チームはネアンデルタール人のゲノム解読に成功して公表し、さらに2010年には、ネアンデルタール人と現生人類とが交雑した証拠を論文として公表します。
他の研究者・チームとの提携・競合、著者の研究チームが直面した課題と、その解決への道筋など、基本的には著者からの視点ではあるものの、本書は古代DNA研究の道筋と醍醐味をよく伝えていると思います。その意味で、著者視点ということで偏りは避けられないにしても、古代DNA研究史にもなっている、と言えそうです。ネアンデルタール人のゲノム解読計画が宣言されて以降の、本書でも取り上げられている研究のなかには、このブログで取り上げたものもありますが、著者が直面していた問題や、驚き・喜び・焦燥・苛立ちなど著者の感情がわりと率直に語られており、本書で知ることのできた舞台裏はたいへん興味深いものでした。
著者の経歴・生活・信条にもそれなりに分量が割かれているので、本書は著者の伝記とも言えるでしょう。著者の性的指向も率直に明かされており、本書で初めて知りました。他の研究者・チームとの提携や見解・方法論についての相違からの協力解除や競争など、研究をめぐる人間模様についても本書はかなりの分量を割いていますが、私生活での複雑な人間関係にまで言及していたのはやや意外でした。まあ、研究者も人間ですから、そうしたことがあっても不思議ではありませんが。
本書は、古代DNAの解析がいかに行なわれ、どのような問題があるのか、ということ、そこから、ネアンデルタール人のDNAがどのように解析されたのか、さらにはネアンデルタール人と現生人類との交雑がどのように明らかになったのか、ということを詳しく解説しており、たいへん読みごたえのある良書だと思います。サイエンスライターの執筆ならば、もっと分かりやすくなったのかもしれませんが、専門家が初めて執筆した一般向け書籍としては、これでじゅうぶんなのではないか、と思います。本書が多くの人に読まれることを期待しています。
上述したように、本書の記述はおもに2010年までを対象にしており、それ以降については、2013年の暮れに論文として発表された、ネアンデルタール人の精度の高いゲノム配列までが触れられています。おそらくは本書執筆後に刊行された、古代DNAに関する興味深い研究で、このブログにて取り上げたものとしては、まず78万~56万年前頃のウマのゲノム解読(関連記事)を挙げねばならないでしょう。これにより、100万年前頃までの古代DNAの解析への展望が開けてきたように思われます。人骨では、40万年前頃のミトコンドリアDNAが解析されたことが注目されます(関連記事)。
更新世の人類では、ネアンデルタール人だけではなく現生人類のDNA解析も進んでおり、現生人類拡散の様相がより詳しく明らかになっていくことでしょう。ネアンデルタール人やデニソワ人については、現代人に継承されている遺伝子の報告例が蓄積されていることや、逆に継承されていない遺伝子の特徴についての指摘(関連記事)なども注目されますが、エピジェネティックな変異についても解明が進んでいること(関連記事)も注目されます。その他にも、古代DNAに関する2014年以降の研究で、このブログにて取り上げたものがあるのですが、それらについては、後日改めて整理しよう、と考えています。なお、今晩(2015年7月5日)放送予定のNHKスペシャル『生命大躍進』第3集「ついに“知性”が生まれた」に著者も登場するそうです。
参考文献:
Pääbo S.著(2015)、野中香方子訳、更科功解説『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(文藝春秋社、原書の刊行は2014年)
本書はおもに、著者が古代DNA解析を志してから、2010年にネアンデルタール人と現生人類との交雑の可能性を報告した論文を公表し(関連記事)、同年にデニソワ人(種区分未定)のミトコンドリアDNAと核DNAの解析を報告した論文を公表したところまでを対象としています。著者が古代DNAの解析を志した動機として、エジプト学への高い関心がありました。そこから、古代エジプトのミイラ、さらにはもっと古い生物、とくに人類のDNAを解析しようと志した、というわけです。
本書で著者が強調しているのは、古代DNAの解析にさいして、試料汚染をいかに除去するのか、という問題です。著者はこの問題に多大な労力をかけており、それ故に一時は、「派手な」成果を発信し続ける研究者たちの「後塵を拝した」期間もあったようです。その「派手な研究成果」とは、1000万年以上前の生物のDNAを抽出・解析した、というもので、ついには恐竜のDNAを解析した、とさえ報告されました。著者はこうした動向を批判したものの、当初はあまり注目されなかったようです。しかし現在では、1000万年以上前の生物のDNA解析に成功した、との報告は否定されています。
汚染の問題は、ネアンデルタール人のDNA解析においてとくに深刻でした。なぜならば、ネアンデルタール人のDNAはどの現存種よりも現代人のDNAに類似していると予想されるので、ネアンデルタール人化石からDNAを増幅できたとしても、それがネアンデルタール人のものなのか、現代人のDNAによる汚染なのか、区別しづらいからです。著者の率いるチームは、人間ではない動物の古代DNAの解析(こちらでは、現代人のDNAによる汚染をより区別しやすくなります)なども通じて、汚染を防ぐ手法の精度をしだいに向上させていきます。
こうして試行錯誤し、他の研究チームとの競争を強く意識しつつ、著者の研究チームはネアンデルタール人のDNA解析に挑みます。その大きな成果として挙げられるのが、1997年に著者の研究チームがネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの解析結果を報告したことです。これにより、ネアンデルタール人が現生人類と異なる系統の人類であることが遺伝的にもほぼ確定したということで、著者も大きく注目されました。この時点では、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の有無について結論をくだすのは時期尚早だ、との慎重な姿勢を著者は示していました。
両者の交雑の有無という問題を解決するには、ネアンデルタール人の核DNAの解析が必要だということで、著者の研究チームはネアンデルタール人の核DNAの解析に挑戦します。必要なネアンデルタール人の骨を入手するのに苦労するなど、ここでも多くの問題が生じ、宣言したネアンデルタール人のゲノム解読の期限にはとても間に合いそうにない、と著者も何度か前途を悲観したようですが、著者の研究チームはネアンデルタール人のゲノム解読に成功して公表し、さらに2010年には、ネアンデルタール人と現生人類とが交雑した証拠を論文として公表します。
他の研究者・チームとの提携・競合、著者の研究チームが直面した課題と、その解決への道筋など、基本的には著者からの視点ではあるものの、本書は古代DNA研究の道筋と醍醐味をよく伝えていると思います。その意味で、著者視点ということで偏りは避けられないにしても、古代DNA研究史にもなっている、と言えそうです。ネアンデルタール人のゲノム解読計画が宣言されて以降の、本書でも取り上げられている研究のなかには、このブログで取り上げたものもありますが、著者が直面していた問題や、驚き・喜び・焦燥・苛立ちなど著者の感情がわりと率直に語られており、本書で知ることのできた舞台裏はたいへん興味深いものでした。
著者の経歴・生活・信条にもそれなりに分量が割かれているので、本書は著者の伝記とも言えるでしょう。著者の性的指向も率直に明かされており、本書で初めて知りました。他の研究者・チームとの提携や見解・方法論についての相違からの協力解除や競争など、研究をめぐる人間模様についても本書はかなりの分量を割いていますが、私生活での複雑な人間関係にまで言及していたのはやや意外でした。まあ、研究者も人間ですから、そうしたことがあっても不思議ではありませんが。
本書は、古代DNAの解析がいかに行なわれ、どのような問題があるのか、ということ、そこから、ネアンデルタール人のDNAがどのように解析されたのか、さらにはネアンデルタール人と現生人類との交雑がどのように明らかになったのか、ということを詳しく解説しており、たいへん読みごたえのある良書だと思います。サイエンスライターの執筆ならば、もっと分かりやすくなったのかもしれませんが、専門家が初めて執筆した一般向け書籍としては、これでじゅうぶんなのではないか、と思います。本書が多くの人に読まれることを期待しています。
上述したように、本書の記述はおもに2010年までを対象にしており、それ以降については、2013年の暮れに論文として発表された、ネアンデルタール人の精度の高いゲノム配列までが触れられています。おそらくは本書執筆後に刊行された、古代DNAに関する興味深い研究で、このブログにて取り上げたものとしては、まず78万~56万年前頃のウマのゲノム解読(関連記事)を挙げねばならないでしょう。これにより、100万年前頃までの古代DNAの解析への展望が開けてきたように思われます。人骨では、40万年前頃のミトコンドリアDNAが解析されたことが注目されます(関連記事)。
更新世の人類では、ネアンデルタール人だけではなく現生人類のDNA解析も進んでおり、現生人類拡散の様相がより詳しく明らかになっていくことでしょう。ネアンデルタール人やデニソワ人については、現代人に継承されている遺伝子の報告例が蓄積されていることや、逆に継承されていない遺伝子の特徴についての指摘(関連記事)なども注目されますが、エピジェネティックな変異についても解明が進んでいること(関連記事)も注目されます。その他にも、古代DNAに関する2014年以降の研究で、このブログにて取り上げたものがあるのですが、それらについては、後日改めて整理しよう、と考えています。なお、今晩(2015年7月5日)放送予定のNHKスペシャル『生命大躍進』第3集「ついに“知性”が生まれた」に著者も登場するそうです。
参考文献:
Pääbo S.著(2015)、野中香方子訳、更科功解説『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(文藝春秋社、原書の刊行は2014年)
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