渡邊大門編『真実の戦国時代』

 柏書房より2015年6月に刊行されました。この十数年間、戦国時代についての勉強が停滞しているので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は5部構成で、各部は複数の論考から構成されています。戦国時代の諸問題について広範に取り上げているのが本書の特徴で、内容は充実していると思います。戦国時代に関心があり、深く知りたいと思う一般層にとって格好の入門書になっている、と言えそうです。以下、各論考について簡潔に備忘録的に述べていきます。



第1部 戦国大名とは何か

●西島太郎「戦国大名論」P12~26
 戦国大名は史料用語ではなく、学術用語として定着したのは第二次世界大戦後であることや、そもそも戦国時代という呼称も同時代史料にはなく、明治時代になって使用されるようになった、ということなど、戦国大名に関する基本的な事項が、簡潔な学説史とともに解説されています。戦国大名に関する基本的な論点は1960年代にはおおむね出そろっているようで、その後に深化して現在に至っているようです。現在では、戦国大名という概念の有効性自体が問われているようで、戦国大名、さらには戦国時代の理解が今後どのように進むのか、注目されます。


●堀越祐一「戦国・織豊期の家臣団編成」P27~42
 戦国大名と織田信長と豊臣秀吉の家臣団編成について論じられています。信長については、最大にして最後の戦国大名という位置づけで、豊臣政権は織田政権よりも徳川政権の方にずっと近い、との見解が提示されています。本能寺の変に関しては、織田政権の脆弱性に起因する可能性も想定されています。豊臣政権期の五大老については、成立当初には飾り物であり、五奉行が実務を担っていた、と指摘されています。五大老については、秀吉晩年に創出されたのではなく、豊臣政権において「清華成」の大名として有力大名が位置づけられたことに淵源がある、との見解も提示されているのですが、この見解にはとくに言及されていませんでした(関連記事)。


●栗原修「戦国大名の外交」P43~57
 戦国大名間の交渉の実態が解説されています。そこでは交渉の窓口として取次が重要な役割を果たしており、大名の重臣や側近が取次として大名との交渉を担当していました。隣接する大名間では、地縁的から取次が選ばれる傾向にありましたが、隣接していない大名間では、そうした地縁的な関係が生じにくいため、ある程度は大名の恣意的な任命があったようです。取次は大名間のみではなく、大名と家臣団との間でも設置されていました。


●平野明夫「戦国大名の分国法」P58~73
 現在に伝わっている戦国大名の分国法を取り上げ、戦国時代の分国法とは他の法令に優越する、現在の憲法のようなものなのか、それともそうではないのか、ということを検証しています。その結果、分国法は家臣を対象とし、慣習法などの補完的性格が強く、法令を網羅するものではないのであり、基本法ではない、との見解が提示されています。さらに、戦国大名には法体系と呼べるようなものはなく、成文法としての法令・法律という概念もなかっただろう、と指摘されています。


●中脇聖「史料とは何か」P74~90
 戦国時代を研究するさいの史料についての解説です。「一次史料」と「二次史料」との違いや、古文書・記録・軍記物など各史料の性格と、利用するさいの注意点(史料批判)について、簡潔に解説されています。本書で強調されているのが、史料の性格・背景についてよく把握したうえで利用する、ということです。過去には、たとえば日記については、記録者の立場・背景についてよく把握しないままに、断片的に利用されてきたところがあった、と指摘されています。近年では、断片的な利用ではなく、総合的な史料批判のもとに日記の検証も進んでいるようで、今後の研究の進展が期待されます。



第2部 戦国大名の諸政策

●鈴木将典「戦国・織豊期の検地」P92~105
 戦国大名および織豊政権の検地について解説されています。織田政権の検地については、戦国大名との類似性が指摘されており、豊臣政権下での太閤検地が、武家権力による土地政策として画期だった、との認識は根強いようです。しかし、研究の進展により、太閤検地も戦国大名や織田政権の検地との類似性が指摘されるようになった、とのことです。太閤検地には机上操作の部分も多分にあったようで、過大評価に注意しなければならないのかもしれません。


●光成準治「戦国・織豊期の大名権力と村落」P106~121
 大名権力と村落との関係や村落の在り様が、中世と近世とでどのように変容したのかという問題について、簡潔に研究史に言及しつつ、連続面を重視する見解と断絶面を重視する見解とを取り上げています。連続面と断絶面のどちらを重視すべきなのか、広く合意が形成されているというわけではないようですが、それとともに、地域差があるだろう、ということも窺えます。日本列島を一様な社会として把握するのではなく、地域的多様性に留意しなければならない、ということなのでしょう。


●長澤伸樹「戦国時代の都市・流通政策」P122~141
 京都の求心力が衰え、各地に流通構造が確立していくのが、戦国時代の特色のようです。戦国時代の流通や大名権力との関係については、地域差が見られるようです。これは、西国が海を越えて大陸と経済面で結びついていたことが要因としてあるようです。大名権力との関係では、東国では統制志向が強く、西国では有力者を通じた緩やかな掌握という傾向が見られたようです。統一権力たる豊臣政権の出現は、日本列島の流通に大きな影響を及ぼしたようで、大坂を中心とする求心的な流通構造が形成されていく契機になったようです。


●片山正彦「「惣無事」についての研究動向」P142~154
 豊臣政権の「惣無事」をめぐる研究史について解説されています。「惣無事」が豊臣政権の方針の基調としてあり、豊臣政権の統一過程もそのように把握される、との見解が一時大きな影響を及ぼしましたが、近年では、そのように把握することへの疑問も呈されているようです。「惣無事令」の根拠とされた史料の年代比定の見直しもありますが、この論争で重要なのは、豊臣政権をどのように把握するのか、という問題なのでしょう。「惣無事令」説で想定されていたような、豊臣政権の一貫した統一方針については、確かに見直しが必要なのかもしれません。



第3部 戦国大名と戦争

●長屋隆幸「戦国時代の合戦」P156~174
 戦国時代の武器・軍編成・合戦の様相について解説されています。戦国時代の合戦についての研究は遅れていたとのことで、現時点で提示されている合戦像も、検証されている一部の合戦・大名の事例からの推測であり、どこまで一般的なのかというと、まだ確証はないようです。研究の遅れている分野だけに、今後の進展が大きく見込めるとも言えそうで、戦国時代の合戦像は今後大きく変わってくるかもしれません。


●佐脇敬一郎「戦国時代の城郭」P175~196
 城郭の施設・攻城戦の具体的様相・城郭の普請体制・城郭の守備について解説されています。城郭は基本的に紛争に備えた臨時的なものだったようです。戦国時代のみならず、中世前期も取り上げられており、中世における城郭や攻城戦の変遷についての解説にもなっています。史料に見えるような城郭は少数なので、日本列島に多数残っている城郭遺構の研究も必要だ、と提言されています。


●小川雄「戦国時代の水軍と海賊」P197~213
 戦国時代の水軍もしくは海賊というと、娯楽作品の影響などで、一般的には自由・自立という印象が強いのかもしれませんが、水軍もしくは海賊であることが直ちに自立性を保証するわけではない、と注意が喚起されています。自立性を確保する要件は、海上勢力であれ陸上勢力であれ、その規模や自己完結性にある、というわけです。そう考えると、徳川政権という大規模で強力な政権下で、あたかも水軍が解体されたかのように見えてしまう(じっさいには解体されていない、ということが指摘されています)ことも、理由のあることだと言えそうです。



第4部 天皇・将軍と戦国大名

●木下昌規「戦国時代の室町幕府と足利将軍」P216~233
 応仁の乱後も、室町幕府には実態があり、将軍が権力を有していたことが解説されています。こうした見解は、近年では一般層にも浸透するようになった、と言えそうです。ただ一方で、大名をはじめとして人々が将軍に一方的に服従していたわけではなく、自己の利益を損なうようであれば、将軍の意に反する行動をとるなど、幕府・将軍権力を過大評価することはできない、とも指摘されています。室町幕府の滅亡に関しては、最後の将軍である義昭の京都からの追放を画期とする教科書的な理解が、必ずしも妥当とは言えないことが指摘されています。室町時代には、将軍が京都から退去して帰還することが珍しくなく、義昭が京都から追放された後も、義昭を将軍と認識して頼りにする人々が京都にもいた事例が取り上げられています。


●神田裕理「戦国時代の天皇と公家衆」P234~253
 戦国時代の朝廷の存在感は、一般層ではかなり薄いと言えるでしょう。しかし、戦国時代にも朝廷は機能しており、天皇・貴族が裁判や紛争の講和や文化伝播といった面で役割を果たしていたことが指摘されています。もっとも、戦国時代の天皇・貴族が財政的に苦しかったことも取り上げられており、所領が武士などに浸食され、収入が減少していったことが要因のようです。南北朝時代~戦国時代にかけて皇后・中宮が立てられなかったのも、財政難が原因でした。


●木下聡「戦国期の武士の官途」P254~267
 戦国時代の官職について解説されています。正式な任官には多大な労力と出費を要したようですが、社会的に相応の身分を示すという役割があったため、武士の間ではそれなりに重視されていたようです。したがって、競合者の任官を阻止しようとする動きもしばしば見られました。こうした室町時代から続く武士社会における官職の秩序は、豊臣秀吉の関白就任により大きく変わることになり、豊臣政権の官職体系は江戸幕府に継承されていきました。



第5部 戦国期の宗教と文化

●大嶌聖子「戦国武将の日常と非日常」P270~287
 連歌を通じて戦国大名の在り様について解説しています。連歌は中世後期に大流行し、積極的に連歌会を主催した戦国大名もいました。これは、連歌会を通じて家中の一体感を醸成する、という目的とともに、連歌師を招くことで、情報を収集して人脈を形成する、という目的もあったようです。文化の中心地たる都の連歌師は、都の政治情勢をもたらす存在でもあるということで、各地の戦国大名に重宝された、という側面もあるようです。


●天野忠幸「戦国時代の寺社」P288~303
 戦国時代初期までの中心的な宗教は、いわゆる鎌倉新仏教ではなく、顕密仏教であったことと、禅宗が室町幕府に厚く庇護されていたことが指摘されています。いわゆる鎌倉新仏教系の宗派が飛躍的に発展したのは戦国時代のことでした。浄土真宗や法華宗など、戦国時代に大きな勢力を有し、紛争の当事者となった宗派もありましたが、織豊政権期には自立性を喪失していった、との見通しが提示されています。それは、中世社会において宗教勢力が大きな部分を担ってきた安全保障や開発を、武家勢力が担うようになった、ということでもありました。


●清水有子「キリスト教の伝来から拒絶まで」P304~320
 戦国時代にキリスト教が浸透した要因として、現世後世の救済を幅広い層が希求していたことと、布教が貿易と一体化していたという実利的な事情とがありました。そのため、貿易を重視する大名がキリスト教に改宗し、領民に改宗を強制するということもありました。そうした場合、領内の寺社がキリスト教勢力により破壊されることもありました。また、日本列島などアジア地域へのキリスト教布教にさいして、ポルトガルの後援のみならず、アジア海域の商人の役割も大きかった、と指摘されています。


●渡邊大門「戦国時代の女性と結婚」P321~338
 戦国時代の女性があまり知られていない理由として、まとまった史料が乏しいからだ、と指摘されています。系図では実名が伝わっていない場合が大半ですし、後世に伝わる史料は、知行安堵などの権利に関わるものが多いので、私信の多い女性からの書状は破棄されることが多かったのではないか、というわけです。女性が本格的に茶道に親しむようになったのは江戸時代になってからと指摘されていますが、戦国時代において女性が茶道具の管理に関わっていたこともあるようです。出雲阿国についても言及されていますが、今でもその出自は確定していないそうです。ただ、各地を漂流する芸能民だった可能性が高い、と指摘されています。

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