クサールアキル遺跡の新たな推定年代と現生人類の拡散経路
レバノンのクサールアキル(Ksâr ‘Akil)遺跡(ベイルートの北方約10kmに位置します)の新たな推定年代についての研究(Bosch et al., 2015)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、クサールアキル遺跡の新たな推定年代を提示し、同じくレヴァントに位置する他の遺跡と比較するとともに、比較対象をヨーロッパにまで拡大することにより、現生人類(Homo sapiens)や上部旧石器文化の拡散経路を推定しています。なお、この記事での年代は、基本的に西暦で紀元後1950年を基準とした較正年代です。
アフリカ起源の現生人類が世界各地にどのように拡散したのか、という問題には高い関心が寄せられています。ヨーロッパへの現生人類の拡散に関しては、上部旧石器的な要素の文化をともなってレヴァントを経由したのだろう、との見解が有力です。しかし近年になって、レヴァント北部の上部旧石器時代最初期もしくは中部旧石器時代~上部旧石器時代移行期の始まりはじゅうらいの想定よりも遅いとして、ヨーロッパへと拡散する現生人類はレヴァントを経由した、とする有力説への疑問も一部で主張されています。本論文の要点はそうした見解への反論であり、現生人類の化石とヨーロッパおよびレヴァントの各遺跡の上部旧石器時代の年代の比較から、現生人類と上部旧石器文化がレヴァントを経由してヨーロッパへと拡散したことを改めて主張しています。
クサールアキル遺跡では、中部旧石器時代~亜旧石器時代にかけての37層が確認されています。本論文では、37~26層が中部旧石器時代、25層~6層が上部旧石器時代、5層~1層が亜旧石器時代とされています。上部旧石器時代に関して本論文では、25層~20層が上部旧石器時代最初期、19層~17層が上部旧石器時代前期もしくは前期アハマリアン(Early Ahmarian)、15層~6層が上部旧石器時代と区分されています。
ただ、本論文でも取り上げられているように、クサールアキル遺跡の考古学的区分は複数提示されています。25層~21層を中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行段階A、20層~14層を移行期段階Bと区分する見解もあれば、一方でその期間を上部旧石器時代1・2A・2Bと区分する見解もあります。また、13層~7層をレヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)と区分してさらに3区分する見解(13層~12層が前期、11層が中期、10層~7層が後期)がある一方で、8層~7層のみをレヴァントオーリナシアンと区分し、13層~9層に特定のインダストリー名を割り当てず、単に上部旧石器時代と区分する見解もあります。
このように、クサールアキル遺跡の時代区分に関して、本論文の区分は必ずしも他の見解と一致しているわけではありません。これとも関連するのですが、本論文ではヨーロッパのボフニチアン(Bohunician)が上部旧石器時代最初期、ウルツィアン(Ulzzian)が上部旧石器時代前期と区分されています。ボフニチアンやウルツィアンは、中部旧石器時代~上部旧石器時代の「移行期インダストリー」ともされるのですが、本論文では明確に上部旧石器文化と区分されています。後述しますが、この点はやや疑問の残るところです。
本論文はクサールアキル遺跡の年代推定に、加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定法を用いています。測定対象となる試料は海洋性の貝です。クサールアキル遺跡で貝が利用されるようになるのは22層以降とのことです。クサールアキル遺跡の推定年代に関して、現生人類のヨーロッパへの拡散のさいの経由地がレヴァントだったことを疑問視する見解と、本論文とでは、上層の推定年代は重なるものの、上部旧石器時代最初期・早期の層では3000~4000年の違いが生じています。このような違いが生じた理由について、本論文はまだ不明としていますが、試料選択や前処理の違いなどの可能性を提示しています。
クサールアキル遺跡の上部旧石器時代最初期は、本論文の区分では25層に始まりますが、海洋性の貝の利用は時代が下るその上の22層からとなるので、25層の推定年代、とくに上限年代は曖昧となります。本論文は、上部旧石器時代最初期の25層の上層の年代から、この25層の下限年代を45900年前と推定しています。この25層ではエザルラダ(Ethelruda)と呼ばれる断片的な上顎の人骨が発見されており、当初はネアンデルタール人の特徴を有すると解釈されましたが、再検証により現生人類の変異に収まるとの見解が提示されています。クサールアキル遺跡ではその他に、上部旧石器時代前期の17層にてエグバート(Egbert)と呼ばれる人骨が発見されており、現生人類と分類されています。エグバート人骨の推定年代は43200~42900年前頃です。
本論文は、現生人類の人骨としては、エザルラダの年代はヨーロッパのどの人骨よりも古い、と指摘します。さらに本論文は、上部旧石器時代前期の現生人類の人骨に関しても、エグバート人骨はルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」やロシアのコステンキ(Kostenki)遺跡の人骨よりも古く、イタリアのカヴァッロ(Cavallo)洞窟C人骨やトルコのウチュアズリ(Üça˘gızlı)遺跡(レヴァント北端近くに位置しています)の現生人類の歯と年代が重なる、と指摘します。
今年になって報告された(関連記事)イスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)遺跡の現生人類人骨の年代は、ウラン-トリウム年代測定法により60200~49200年前頃と推定されています。クサールアキル遺跡とマノット洞窟遺跡の事例から、現生人類の化石人骨に関しては、レヴァントがヨーロッパに先行する、と現時点では言えそうです。マノット人骨の年代はクサールアキル遺跡のエザルラダ人骨よりも古い可能性があるのですが、本論文は、マノット人骨の年代はウラン-トリウム年代測定法によるものなので、信頼性は加速器質量分析による放射性炭素年代測定法よりも劣る、と指摘しています。
さらに本論文が強調しているのは、マノット人骨の考古学的文脈が不明なのにたいして、エザルラダ人骨は上部旧石器時代最初期のインダストリーとの関連が明確である、ということです。現生人類と上部旧石器文化の拡散に関しての議論では、現時点ではエザルラダ人骨の方が重要な根拠となり得る、というわけです。上部旧石器時代最初期の石器技術を伴うエザルラダ人骨は、現生人類が上部旧石器文化を携えてレヴァントからヨーロッパへと拡散した根拠になり得る、というのが本論文の見解です。
中部旧石器時代~上部旧石器時代前期にかけてのレヴァントとヨーロッパにおける人骨は少ないので、本論文はレヴァントとヨーロッパの各遺跡の石器技術とその年代も重視して比較しています。まずは、レヴァントにおけるクサールアキル遺跡とその他の遺跡との上部旧石器時代最初期の比較です。レヴァント南部のボーカータクチト(Boker Tachtit)遺跡の上部旧石器時代最初期は1~4層から構成されており、その年代は遅くとも5万~4万年前頃までさかのぼり、その4層の石器技術はクサールアキル遺跡22~21層のそれと類似しており、遅くとも4万年前頃までさかのぼります。
ウチュアズリ遺跡の上部旧石器時代最初期となるG~I層はクサールアキル遺跡21層と対応し、45900~38400年前頃(試料は炭)もしくは40800~37800年前頃(試料は貝製装飾品)となります。イスラエルのケバラ(Kebara)洞窟遺跡の上部旧石器時代最初期は49000~46000年前頃となります。遅くとも45900年前頃に始まるクサールアキル遺跡の上部旧石器時代最初期は、技術的にも年代的にもレヴァントのマノット・ボーカータクチト・ウチュアズリ・ケバラの4遺跡と合致しており、この中ではマノット遺跡が最古かもしれない、と本論文は指摘しています。
本論文は、次に上部旧石器時代前期のレヴァントにおける各遺跡を比較しています。ケバラ遺跡の上部旧石器時代前期となる前期アハマリアン(Early Ahmarian)の年代は46000~34000年前頃となり、クサールアキル遺跡の16層~15層と対応しています。マノット遺跡の前期アハマリアン要素の年代は46000~42000年前頃であり、クサールアキル遺跡の20層~16層に対応しています。ウチュアズリ遺跡の上部旧石器時代前期層は非較正年代で39800~32200年前頃となり、その石器技術はクサールアキル遺跡の17層~16層と似ているものの、それよりもやや新しいようです。ウチュアズリの上部旧石器時代前期の年代は42800~322200年前頃もしくは40800~36400年前頃となります。クサールアキル・ケバラ・マノット・ウチュアズリという4遺跡の上部旧石器時代前期の年代は重なるものの、その開始に関しては、マノットとケバラがウチュアズリとクサールアキルに数千年先行するようです。
このように、レヴァントの上部旧石器時代最初期~前期には石器技術の類似したインダストリーが、多少のズレはありつつも年代が重なって共存する、と把握する本論文は、次にレヴァントとヨーロッパとを比較します。上部旧石器時代の石器技術に関して、これまでもヨーロッパとレヴァントとの類似性が指摘されており、レヴァントからヨーロッパへの現生人類の拡散の証拠とされてきました。本論文は、レヴァントとヨーロッパのこの時期の各インダストリーの類似関係と年代について整理し、現生人類の拡散経路を推定しています。
本論文はまず、エミラン(Emiran)と分類されることもあるレヴァントの上部旧石器時代最初期のインダストリーは、中央ヨーロッパのボフニチアンおよび東ヨーロッパや北アジアの類似石器群と関係がある、と指摘します。ボフニチアンの年代は46860±956年前(紀元後2000年が基準)とも推定されているので、レヴァントのクサールアキル・マノット・ボーカータクチトという各遺跡の上部旧石器時代最初期の開始は、ボフニチアンに先行する可能性がじゅうぶんある、と本論文は指摘するものの、どうもここはやや歯切れが悪いようにも思えます。
上部旧石器時代前期に関しては、レヴァントの前期アハマリアンとヨーロッパのプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)との類似が指摘されています。本論文は、ケバラ・マノットの各遺跡の前期アハマリアンがプロトオーリナシアンに大きく先行し、本論文ではヨーロッパの上部旧石器時代前期と区分されるウルツィアンにもやや先行している、と指摘します。上部旧石器時代前期の始まりに関しても、ヨーロッパよりもレヴァントの方が先行する、というわけです。
このように上部旧石器時代最初期~前期のレヴァントとヨーロッパとを比較する本論文は、現生人類の人骨も上部旧石器時代最初期および前期のインダストリーも、レヴァントがヨーロッパに先行するので、アフリカ起源の現生人類は上部旧石器文化を携え、レヴァントを経由してヨーロッパへと進出した、との見解を提示しています。さらに本論文は、上部旧石器時代最初期の始まりに関して、レヴァントとヨーロッパのボフニチアンとの時間差が短そうなことから、広大な領域に急速に拡散した可能性を指摘しています。これは、プロトオーリナシアンがヨーロッパにおいて短期間で広範に拡散していることからも、上部旧石器時代前期にも当てはまるだろう、というのが本論文の見解です。
また本論文は、現生人類が最初にヨーロッパに進出した頃には、ヨーロッパにはまだネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在したことから、ネアンデルタール人の絶滅を現生人類の拡散と関連づけるとともに、ヨーロッパの末期ネアンデルタール人の文化変容は現生人類との接触・融合と関連していたのではないか、との見解を提示しています。このネアンデルタール人の文化変容について、本論文は具体的には言及していないのですが、シャテルペロニアン(Châtelperronian)が想定されているのだろう、と思います。
以上、本論文についてざっと見てきました。現生人類が上部旧石器的な文化を携え、レヴァントを経由してヨーロッパへと拡散した可能性は高いと思いますので、本論文の基本的な見解には同意します。ただ、本論文の見解には疑問も残ります。まず、近年まではネアンデルタール人の所産との見解が有力だったウルツィアンを、レヴァントの前期アハマリアンやヨーロッパのプロトオーリナシアンと同じく、上部旧石器時代前期と位置づけていることです。
ヨーロッパにおいてウルツィアンはプロトオーリナシアンに先行し、両者の併存期間があったのか微妙なところです。レヴァントにおいて上部旧石器時代前期とされる前期アハマリアンは、ウルツィアンに先行して始まるとされています。しかし、前期アハマリアンの古い推定年代値の信頼性はどうなのかと考えると(関連記事)、ウルツィアンを上部旧石器時代前期と位置づけることには疑問が残ります。ウルツィアンを上部旧石器時代最初期と位置づけるのならば、ある程度納得なのですが。
次に、レヴァントの前期アハマリアンとヨーロッパのプロトオーリナシアンとの類似性を指摘し、前者が後者に先行することから、後者に関してもレヴァントからヨーロッパへの影響を想定していることです。確かに、レヴァントの前期アハマリアンとヨーロッパのプロトオーリナシアンという枠組みの比較で言えば、レヴァントがヨーロッパに先行するので、レヴァントからヨーロッパへと、現生人類の移動を伴いつつ、文化が拡散していったのだろう、と考えたくなります。
しかし今年になって、ヨーロッパのプロトオーリナシアンが類似しているのは、レヴァントの前期アハマリアンでも北部ではなく南部で、その他にはレヴァント北部のクサールアキル段階4群(クサールアキル遺跡10層~9層)と類似しており、南部の前期アハマリアンもクサールアキル段階4群もヨーロッパのプロトオーリナシアンに遅れて出現することから、ヨーロッパのプロトオーリナシアンからレヴァント南部の前期アハマリアンおよびレヴァント北部のクサールアキル段階4群へと、文化的拡散が生じた可能性を指摘した研究が公表されています(関連記事)。
本論文で云うところの上部旧石器時代の最初期~前期は、現生人類の世界各地への拡散を検証するうえで、たいへん重要な時代と言えるでしょう。本論文が主張しているように、現生人類のヨーロッパへの最初の進出がレヴァント経由だった可能性は高いと思います。ただ、その後の上部旧石器時代前期にかけてのレヴァントとヨーロッパにおける人間と文化の拡散に関しては、レヴァントからヨーロッパへの一方通行ではなく、その逆方向の可能性も想定しておかねばならないだろう、と思います。
参考文献:
Bosch MD. et al.(2015): New chronology for Ksâr ‘Akil (Lebanon) supports Levantine route of modern human dispersal into Europe. PNAS, 112, 25, 7683–7688.
http://dx.doi.org/10.1073/pnas.1501529112
アフリカ起源の現生人類が世界各地にどのように拡散したのか、という問題には高い関心が寄せられています。ヨーロッパへの現生人類の拡散に関しては、上部旧石器的な要素の文化をともなってレヴァントを経由したのだろう、との見解が有力です。しかし近年になって、レヴァント北部の上部旧石器時代最初期もしくは中部旧石器時代~上部旧石器時代移行期の始まりはじゅうらいの想定よりも遅いとして、ヨーロッパへと拡散する現生人類はレヴァントを経由した、とする有力説への疑問も一部で主張されています。本論文の要点はそうした見解への反論であり、現生人類の化石とヨーロッパおよびレヴァントの各遺跡の上部旧石器時代の年代の比較から、現生人類と上部旧石器文化がレヴァントを経由してヨーロッパへと拡散したことを改めて主張しています。
クサールアキル遺跡では、中部旧石器時代~亜旧石器時代にかけての37層が確認されています。本論文では、37~26層が中部旧石器時代、25層~6層が上部旧石器時代、5層~1層が亜旧石器時代とされています。上部旧石器時代に関して本論文では、25層~20層が上部旧石器時代最初期、19層~17層が上部旧石器時代前期もしくは前期アハマリアン(Early Ahmarian)、15層~6層が上部旧石器時代と区分されています。
ただ、本論文でも取り上げられているように、クサールアキル遺跡の考古学的区分は複数提示されています。25層~21層を中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行段階A、20層~14層を移行期段階Bと区分する見解もあれば、一方でその期間を上部旧石器時代1・2A・2Bと区分する見解もあります。また、13層~7層をレヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)と区分してさらに3区分する見解(13層~12層が前期、11層が中期、10層~7層が後期)がある一方で、8層~7層のみをレヴァントオーリナシアンと区分し、13層~9層に特定のインダストリー名を割り当てず、単に上部旧石器時代と区分する見解もあります。
このように、クサールアキル遺跡の時代区分に関して、本論文の区分は必ずしも他の見解と一致しているわけではありません。これとも関連するのですが、本論文ではヨーロッパのボフニチアン(Bohunician)が上部旧石器時代最初期、ウルツィアン(Ulzzian)が上部旧石器時代前期と区分されています。ボフニチアンやウルツィアンは、中部旧石器時代~上部旧石器時代の「移行期インダストリー」ともされるのですが、本論文では明確に上部旧石器文化と区分されています。後述しますが、この点はやや疑問の残るところです。
本論文はクサールアキル遺跡の年代推定に、加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定法を用いています。測定対象となる試料は海洋性の貝です。クサールアキル遺跡で貝が利用されるようになるのは22層以降とのことです。クサールアキル遺跡の推定年代に関して、現生人類のヨーロッパへの拡散のさいの経由地がレヴァントだったことを疑問視する見解と、本論文とでは、上層の推定年代は重なるものの、上部旧石器時代最初期・早期の層では3000~4000年の違いが生じています。このような違いが生じた理由について、本論文はまだ不明としていますが、試料選択や前処理の違いなどの可能性を提示しています。
クサールアキル遺跡の上部旧石器時代最初期は、本論文の区分では25層に始まりますが、海洋性の貝の利用は時代が下るその上の22層からとなるので、25層の推定年代、とくに上限年代は曖昧となります。本論文は、上部旧石器時代最初期の25層の上層の年代から、この25層の下限年代を45900年前と推定しています。この25層ではエザルラダ(Ethelruda)と呼ばれる断片的な上顎の人骨が発見されており、当初はネアンデルタール人の特徴を有すると解釈されましたが、再検証により現生人類の変異に収まるとの見解が提示されています。クサールアキル遺跡ではその他に、上部旧石器時代前期の17層にてエグバート(Egbert)と呼ばれる人骨が発見されており、現生人類と分類されています。エグバート人骨の推定年代は43200~42900年前頃です。
本論文は、現生人類の人骨としては、エザルラダの年代はヨーロッパのどの人骨よりも古い、と指摘します。さらに本論文は、上部旧石器時代前期の現生人類の人骨に関しても、エグバート人骨はルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」やロシアのコステンキ(Kostenki)遺跡の人骨よりも古く、イタリアのカヴァッロ(Cavallo)洞窟C人骨やトルコのウチュアズリ(Üça˘gızlı)遺跡(レヴァント北端近くに位置しています)の現生人類の歯と年代が重なる、と指摘します。
今年になって報告された(関連記事)イスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)遺跡の現生人類人骨の年代は、ウラン-トリウム年代測定法により60200~49200年前頃と推定されています。クサールアキル遺跡とマノット洞窟遺跡の事例から、現生人類の化石人骨に関しては、レヴァントがヨーロッパに先行する、と現時点では言えそうです。マノット人骨の年代はクサールアキル遺跡のエザルラダ人骨よりも古い可能性があるのですが、本論文は、マノット人骨の年代はウラン-トリウム年代測定法によるものなので、信頼性は加速器質量分析による放射性炭素年代測定法よりも劣る、と指摘しています。
さらに本論文が強調しているのは、マノット人骨の考古学的文脈が不明なのにたいして、エザルラダ人骨は上部旧石器時代最初期のインダストリーとの関連が明確である、ということです。現生人類と上部旧石器文化の拡散に関しての議論では、現時点ではエザルラダ人骨の方が重要な根拠となり得る、というわけです。上部旧石器時代最初期の石器技術を伴うエザルラダ人骨は、現生人類が上部旧石器文化を携えてレヴァントからヨーロッパへと拡散した根拠になり得る、というのが本論文の見解です。
中部旧石器時代~上部旧石器時代前期にかけてのレヴァントとヨーロッパにおける人骨は少ないので、本論文はレヴァントとヨーロッパの各遺跡の石器技術とその年代も重視して比較しています。まずは、レヴァントにおけるクサールアキル遺跡とその他の遺跡との上部旧石器時代最初期の比較です。レヴァント南部のボーカータクチト(Boker Tachtit)遺跡の上部旧石器時代最初期は1~4層から構成されており、その年代は遅くとも5万~4万年前頃までさかのぼり、その4層の石器技術はクサールアキル遺跡22~21層のそれと類似しており、遅くとも4万年前頃までさかのぼります。
ウチュアズリ遺跡の上部旧石器時代最初期となるG~I層はクサールアキル遺跡21層と対応し、45900~38400年前頃(試料は炭)もしくは40800~37800年前頃(試料は貝製装飾品)となります。イスラエルのケバラ(Kebara)洞窟遺跡の上部旧石器時代最初期は49000~46000年前頃となります。遅くとも45900年前頃に始まるクサールアキル遺跡の上部旧石器時代最初期は、技術的にも年代的にもレヴァントのマノット・ボーカータクチト・ウチュアズリ・ケバラの4遺跡と合致しており、この中ではマノット遺跡が最古かもしれない、と本論文は指摘しています。
本論文は、次に上部旧石器時代前期のレヴァントにおける各遺跡を比較しています。ケバラ遺跡の上部旧石器時代前期となる前期アハマリアン(Early Ahmarian)の年代は46000~34000年前頃となり、クサールアキル遺跡の16層~15層と対応しています。マノット遺跡の前期アハマリアン要素の年代は46000~42000年前頃であり、クサールアキル遺跡の20層~16層に対応しています。ウチュアズリ遺跡の上部旧石器時代前期層は非較正年代で39800~32200年前頃となり、その石器技術はクサールアキル遺跡の17層~16層と似ているものの、それよりもやや新しいようです。ウチュアズリの上部旧石器時代前期の年代は42800~322200年前頃もしくは40800~36400年前頃となります。クサールアキル・ケバラ・マノット・ウチュアズリという4遺跡の上部旧石器時代前期の年代は重なるものの、その開始に関しては、マノットとケバラがウチュアズリとクサールアキルに数千年先行するようです。
このように、レヴァントの上部旧石器時代最初期~前期には石器技術の類似したインダストリーが、多少のズレはありつつも年代が重なって共存する、と把握する本論文は、次にレヴァントとヨーロッパとを比較します。上部旧石器時代の石器技術に関して、これまでもヨーロッパとレヴァントとの類似性が指摘されており、レヴァントからヨーロッパへの現生人類の拡散の証拠とされてきました。本論文は、レヴァントとヨーロッパのこの時期の各インダストリーの類似関係と年代について整理し、現生人類の拡散経路を推定しています。
本論文はまず、エミラン(Emiran)と分類されることもあるレヴァントの上部旧石器時代最初期のインダストリーは、中央ヨーロッパのボフニチアンおよび東ヨーロッパや北アジアの類似石器群と関係がある、と指摘します。ボフニチアンの年代は46860±956年前(紀元後2000年が基準)とも推定されているので、レヴァントのクサールアキル・マノット・ボーカータクチトという各遺跡の上部旧石器時代最初期の開始は、ボフニチアンに先行する可能性がじゅうぶんある、と本論文は指摘するものの、どうもここはやや歯切れが悪いようにも思えます。
上部旧石器時代前期に関しては、レヴァントの前期アハマリアンとヨーロッパのプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)との類似が指摘されています。本論文は、ケバラ・マノットの各遺跡の前期アハマリアンがプロトオーリナシアンに大きく先行し、本論文ではヨーロッパの上部旧石器時代前期と区分されるウルツィアンにもやや先行している、と指摘します。上部旧石器時代前期の始まりに関しても、ヨーロッパよりもレヴァントの方が先行する、というわけです。
このように上部旧石器時代最初期~前期のレヴァントとヨーロッパとを比較する本論文は、現生人類の人骨も上部旧石器時代最初期および前期のインダストリーも、レヴァントがヨーロッパに先行するので、アフリカ起源の現生人類は上部旧石器文化を携え、レヴァントを経由してヨーロッパへと進出した、との見解を提示しています。さらに本論文は、上部旧石器時代最初期の始まりに関して、レヴァントとヨーロッパのボフニチアンとの時間差が短そうなことから、広大な領域に急速に拡散した可能性を指摘しています。これは、プロトオーリナシアンがヨーロッパにおいて短期間で広範に拡散していることからも、上部旧石器時代前期にも当てはまるだろう、というのが本論文の見解です。
また本論文は、現生人類が最初にヨーロッパに進出した頃には、ヨーロッパにはまだネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在したことから、ネアンデルタール人の絶滅を現生人類の拡散と関連づけるとともに、ヨーロッパの末期ネアンデルタール人の文化変容は現生人類との接触・融合と関連していたのではないか、との見解を提示しています。このネアンデルタール人の文化変容について、本論文は具体的には言及していないのですが、シャテルペロニアン(Châtelperronian)が想定されているのだろう、と思います。
以上、本論文についてざっと見てきました。現生人類が上部旧石器的な文化を携え、レヴァントを経由してヨーロッパへと拡散した可能性は高いと思いますので、本論文の基本的な見解には同意します。ただ、本論文の見解には疑問も残ります。まず、近年まではネアンデルタール人の所産との見解が有力だったウルツィアンを、レヴァントの前期アハマリアンやヨーロッパのプロトオーリナシアンと同じく、上部旧石器時代前期と位置づけていることです。
ヨーロッパにおいてウルツィアンはプロトオーリナシアンに先行し、両者の併存期間があったのか微妙なところです。レヴァントにおいて上部旧石器時代前期とされる前期アハマリアンは、ウルツィアンに先行して始まるとされています。しかし、前期アハマリアンの古い推定年代値の信頼性はどうなのかと考えると(関連記事)、ウルツィアンを上部旧石器時代前期と位置づけることには疑問が残ります。ウルツィアンを上部旧石器時代最初期と位置づけるのならば、ある程度納得なのですが。
次に、レヴァントの前期アハマリアンとヨーロッパのプロトオーリナシアンとの類似性を指摘し、前者が後者に先行することから、後者に関してもレヴァントからヨーロッパへの影響を想定していることです。確かに、レヴァントの前期アハマリアンとヨーロッパのプロトオーリナシアンという枠組みの比較で言えば、レヴァントがヨーロッパに先行するので、レヴァントからヨーロッパへと、現生人類の移動を伴いつつ、文化が拡散していったのだろう、と考えたくなります。
しかし今年になって、ヨーロッパのプロトオーリナシアンが類似しているのは、レヴァントの前期アハマリアンでも北部ではなく南部で、その他にはレヴァント北部のクサールアキル段階4群(クサールアキル遺跡10層~9層)と類似しており、南部の前期アハマリアンもクサールアキル段階4群もヨーロッパのプロトオーリナシアンに遅れて出現することから、ヨーロッパのプロトオーリナシアンからレヴァント南部の前期アハマリアンおよびレヴァント北部のクサールアキル段階4群へと、文化的拡散が生じた可能性を指摘した研究が公表されています(関連記事)。
本論文で云うところの上部旧石器時代の最初期~前期は、現生人類の世界各地への拡散を検証するうえで、たいへん重要な時代と言えるでしょう。本論文が主張しているように、現生人類のヨーロッパへの最初の進出がレヴァント経由だった可能性は高いと思います。ただ、その後の上部旧石器時代前期にかけてのレヴァントとヨーロッパにおける人間と文化の拡散に関しては、レヴァントからヨーロッパへの一方通行ではなく、その逆方向の可能性も想定しておかねばならないだろう、と思います。
参考文献:
Bosch MD. et al.(2015): New chronology for Ksâr ‘Akil (Lebanon) supports Levantine route of modern human dispersal into Europe. PNAS, 112, 25, 7683–7688.
http://dx.doi.org/10.1073/pnas.1501529112
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