『天智と天武~新説・日本書紀~』第66話「槍の舞」
まだ日付は変わっていないのですが、6月11日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2015年6月25日号掲載分の感想です。前回は、大友皇子の太政大臣就任の宴の場で、大海人皇子(天武帝)が異父兄の天智帝(中大兄皇子)に、実父である蘇我入鹿の怨霊鎮魂のために寺院建立を願い出るところで終了しました。今回は、それを聞いて天智帝(中大兄皇子)が激昂する場面から始まります。ふざけるな、と言った天智帝は、大海人皇子に祝宴の場から立ち去るよう命じます。
なおも、災いが起きてからでは遅い、と大海人皇子が訴えるので、天智帝は警護の兵士たちに命じて、大海人皇子を祝宴の場から追放しようとします。すると大海人皇子は手に持った槍で舞を始め、兵士たちを寄せ付けず、槍先を天智帝に突き付けます。大友皇子をはじめとしてその場の人は唖然として固まってしまいます。すると中臣鎌足(豊璋)が拍手をして、見事な槍さばきの舞だった、と笑顔で褒め称えます。この鎌足の機転にその場の人々も安堵します。
鎌足は、余興は他に任せて、今宵は新政権の門出を祝って酒を酌み交わしましょう、物騒なものは納めてください、と大海人皇子を宥め、酒を持ってくるよう給仕たちに命じます。しかし大海人皇子は、寺院建立が認められないのなら、ここで天智帝と刺し違えて死んでもよい、と譲りません。大君(天皇)を脅すとはお前にしては上出来だ、と何とか余裕のある態度を示そうとする天智帝にたいして、寺院建立を認めていただければ、天智帝の望み通りこの朝廷から去る、と大海人皇子は条件を提示します。
祝宴の場にいる人々は、入鹿の怨霊について噂しています。しかし天智帝は、大海人皇子が朝廷を去っても寺院は建立させない、と激昂します。鎌足はそんな天智帝を、ここで大海人皇子を追い出すと大海人皇子の思うつぼだ、と諌めます。大海人皇子は民からの人気を背景に、近江朝廷に反目する貴族・豪族たちを集めて、近江朝廷の中枢にいる我々を脅かす存在になりかねない、というわけです。壬申の乱での大海人皇子の勝利は、作中世界ではこのように説明されるのでしょうか。
ではどうすればよいのだ、と天智帝に問われた鎌足は、大海人皇子の要求を受け入れるよう進言します。すると天智帝はまたもや激昂し、お前は入鹿の祟りなどまったく信じていないくせに、と言って鎌足につかみかかります。鎌足は冷静に、百済人の自分には怨霊信仰などなく、しかも自らが亡き者にした入鹿を鎮魂する寺院の建立はもってのほかだが、大海人皇子を自由にさせないためにも仕方ない、と天智帝を諭します。どうも、怨霊信仰は近江朝の時代には確立していた、という設定のようです。
鎌足は天智帝に、祝宴の場にいる人々の話を聞くよう促します。朝鮮半島に出兵して敗北したことや、5年前に天智帝が出兵から帰国した翌年に地震が起きたことは入鹿の祟りだとか、入鹿はひどい殺され方をしたのだから強力な祟り神にもなるだろうとか、そもそも入鹿ほどの人格者を成敗したのが間違いだったとか、このままでは我が国は入鹿の祟りで滅亡してしまうとか、人々は話していました。これらの発言から、この時点で668年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)であることが分かります。
人々は白村江での敗戦以降、災いを入鹿の怨霊の祟りのせいだと信じきっているので、この声を鎮めなければ、大友皇子を太政大臣とする新体制の士気にも差しさわりが出てくるだろう、と鎌足は天智帝に進言します。鎌足はもちろん天智帝も、こうした人々の想いは馬鹿げていると考えていましたが、体制安定のためには無視できない、というわけです。さまざまな災いを入鹿の怨霊の祟りのせいだとする観念がここまで広まっているのは、大海人皇子が配下を使って煽ったことが要因なのでしょうか。
天智帝をひとまず説得した鎌足は大海人皇子に近づき、寺院建立の要望は分かったが、どこにするのだ、と尋ねます。もちろんこの大津だ、と大海人皇子が即答すると、またもや天智帝は激昂し、大津宮から遠く離れた場所にしろ、と大海人皇子に命じます。すると大海人皇子は、どうせ近江朝廷には自分の居場所がなさそうだから、自分も寺院建立地に行く、と言います。しかし天智帝は、大海人皇子を自由にしてはならない、との鎌足の進言にしたがい、大津宮から離れてはならない、と大海人皇子に命じます。
寺院の規模と資金を鎌足に問われた大海人皇子は、我が国を唐の侵略から守るための寺院なので、皆から資金を集めて壮大なものにしましょう、と天智帝に提案しますが、天智帝は即座に、とんでもない、と言って却下します。ならぬと言うばかりだが、どうすれば建立できるのだ、と大海人皇子が天智帝に詰め寄ろうとすると、鎌足が間に入って、入鹿は大海人皇子にとっては父でも我々にとっては逆賊なのでそう簡単にはいかない、と言います。大海人皇子が入鹿の息子であることは、すでに公然と認められているのでしょうか。まあ、大海人皇子の顔を見れば、誰がその実父なのか、一目瞭然なのでしょうが。この鎌足の発言に大海人皇子の表情が険しくなります。
鎌足はさらに、高句麗が滅亡した今、入鹿を鎮魂する寺院の建立は、唐が攻めてくるという皆の不安を少しでも解消してくれるかもしれないので、大海人皇子がその責任者となり、全額自費で賄うなら許可するが、近江から離れた場所で規模も小さくし、大海人皇子自身は大津宮から出てはならない、と大海人皇子に言い渡します。すると大海人皇子は激昂し、大津宮を離れずに、しかも自費で建立しろと言うのか、と鎌足に詰め寄ります。しかし鎌足は冷静に、それが条件だと言い、天智帝は苦々しげな表情を浮かべて、それが嫌ならやめろ、そんな忌まわしい寺には虫唾が走る、と吐き捨てるように言います。
大海人皇子は槍を天智に向けて叩きつけようとしますが、叔父上おやめください、と言ってその間に大友皇子が割って入り、父の天智帝を庇います。この時、大友皇子は右腕に軽傷を負い、天智帝は慌てて医者を呼びますが、大友皇子は冷静で、これくらいの傷なら平気だ、と言います。大友皇子を傷つけてしまい、我に返った大海人皇子は大友皇子に謝罪します。大友皇子を気遣う大海人皇子に、触るな、と天智帝は厳しい口調で命じます。傷に障るのでしゃべるな、と天智帝は息子の大友皇子を案じますが、大友皇子は、父上のためにもぜひ入鹿の怨霊を鎮魂する寺院を建立すべきだ、と進言します。
大友皇子はここで、天智帝と大海人皇子の母で自身の祖母でもある、斉明帝(皇極帝、宝皇女)の崩御の話を持ち出します。斉明帝を殺したのは息子の天智帝(当時は帝ではありませんでしたが)なのですが、その場には天智帝と斉明帝しかいなかったため、斉明帝が入鹿の怨霊に殺された、と天智帝は公的には説明しました。今度こそ大君になった父上を入鹿が殺しに来るに違いない、と大友皇子は必死に訴えます。
さすがの天智帝も、自分が母を殺害したことを隠蔽するために自身が言い出したことを根拠にした諫言なので、否定するのは難しく得策ではないと判断したのか、すぐに冷静になり、先ほど提示した条件に従うのなら勝手にやれと言い、ついに入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立を認めます。大友皇子は安堵した表情を浮かべ、鎌足は、策士、策に溺れるか、と内心でつぶやきます。
こうして、飛鳥と難波の間に位置する斑鳩で入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立が始まります。説明文には、これが後の法隆寺である、とあります。蘇我倉山田石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により新羅の仏師が制作した蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)が、斑鳩に建立されるこの新たな寺院に安置されることになる、というところで今回は終了です。
今回は、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という『藤氏家伝』の有名な逸話に基づいた物語になっていました。鎌足だけではなく大友皇子もとりなすなど、ひねった話になりそうな気がする、と予想していたのですが、大枠ではこの予想が当たった、と言えるでしょう。とはいえ、すでに描かれていた創作をよく活かした話になることまでは予想できていなかったので、期待以上の面白さとなりました。
今回は、法隆寺創建をめぐる大海人皇子・天智帝・鎌足の思惑・駆け引きが描かれ、そこへ大友皇子が関わってきたことで、見所が多くなったと思います。大海人皇子の行動は、天智帝に槍先を突きつけたところまでは計算通りなのでしょうが、厳しい条件を突きつけられ天智帝に再度槍を向けたのは、激昂した挙句の行為であり、予定外だったのでしょう。もちろん、大友皇子を傷つける意図はまったくなかったと思います。ただ、大友皇子が自分に好意を抱いていることを大海人皇子は認識しているでしょうから、大友皇子の自分に好意的な言動は期待していたかもしれません。
大海人皇子は情念の強い人間であり、理不尽で悲惨な殺され方だったこともあって、父である入鹿への想いはかなり強いようです。大海人皇子は冷静に話を進め、槍を板に突き刺すのも計算したうえでのことなのかな、と予想していただけに、激昂して槍を天智帝に向けたのは意外でした。この時、大海人皇子が天智帝を殺そうとしたのか、それとも痛めつけようとしただけなのか、おそらく瞬間的には本人も分かっていなかったのではないか、と思います。
天智帝も情念の強い人物であり、入鹿とその息子で容貌が酷似している大海人皇子が相手になると、冷静さを失うことがよくあります。普段は、冷静というか冷酷なところをよく見せる天智帝ですが、昔から成長していないというよりは、それだけ初恋の人である入鹿への想いが強い、ということなのでしょう。初恋の人でありながら母を奪った人物でもあるということで、天智帝は入鹿に愛憎相半ばする強い感情を抱いていたでしょうから、入鹿を殺したことに満足しているとともに、強い後悔も抱いているのでしょう。
入鹿を殺害したことにたいする天智帝の後ろめたい感情が、入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立という大海人皇子の申し出にたいして、天智帝を冷静ではいられなくした要因なのだろう、と思います。もちろん、乙巳の変以降、政権の中枢にい続ける天智帝にとって、入鹿の殺害は謀反人の成敗との位置づけなので、入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立を認めることは、自己の政治的正当性を損なうことになりかねない、との判断もあるのでしょう。これは、入鹿殺害を主導したと言ってもよい鎌足にとっても、切実な問題だと思います。
その鎌足は、冷静さを失っている天智帝を終始諌めており、完全に初期の怜悧なところが戻ってきた感があります。鎌足は今回、結果的に天智帝と大海人皇子との関係を取り持つような行動をとったとはいえ、あくまでも天智帝の「忠臣手足」として振る舞っています。『藤氏家伝』では、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺した事件以降、大海人皇子と鎌足が親しくなったと伝えますが、どうも作中ではそうはならないようです。鎌足の死は作中世界では翌年に迫っているので、それまでに大海人皇子と鎌足との関係がどう推移するのか、注目されます。
今回、鎌足以上の見せ場があったとも言えそうなのが大友皇子です。大友皇子も、祖母の斉明帝が入鹿の怨霊に殺された、と説明を受けていますが、第38話と第39話のやり取りからすると、大友皇子は天智帝の説明に疑問を抱いているようです。おそらく大友皇子は、天智帝が斉明帝を殺害したことに気づいているのでしょうが、緊迫した場において、天智帝の公的説明を逆手にとって天智帝を説得したのは見事でした。とっさに大海人皇子と天智帝の間に割って入り、天智帝を庇ったことからも、大友皇子は文武両道の優秀な人物である、という設定なのでしょう。
大友皇子の行為は、父の天智帝を庇ったものと見ることもできるでしょうが、叔父上おやめください、との大友皇子のとっさの台詞や、その後に寺院建立を天智帝へ必死に訴えたことからは、むしろ敬慕する叔父の大海人皇子の立場を案じてのことだった、という側面の方がずっと強いように思います。この大友皇子の行為にたいして、天智帝は慌て、大友皇子の身を深く案じているように見えます。天智帝は大友皇子の器量に不満を抱いているようですが、やはり身を挺して自分を守ってくれた息子のことは可愛い、ということでもあるのでしょう。まあ天智帝にとってはそれよりも、大海人皇子を絶対自分の後継者としたくないので、年齢・器量からいって大友皇子しか後継者がいない状況では大切に処遇しなければならない、との想いの方が強いのかもしれませんが。
今回、大海人皇子が父である入鹿の怨霊を鎮魂するために建立した寺院が、後の法隆寺であることが確定したことも注目されます。つまり、現在聖徳太子とされている厩戸皇子が法隆寺を建立したのではないわけで、以前から推測していたように、そもそも作中世界では上宮王家自体が存在しないのかもしれません。本来は蘇我入鹿のことだった聖徳太子がなぜ(創作の?)厩戸皇子のこととされたのか、これまで2回描かれた奈良時代初期の『日本書紀』編纂の様子が再度描かれることにより、説明されることを期待しています。
法隆寺(斑鳩寺)については、669年冬に火事が起き、670年4月30日に全焼したと伝わっています。今回のやり取りから予想すると、これは火事ではなく天智帝による焼打ちということになるのかもしれません。実行者の有力候補としては鬼室集斯を考えていますが、今回はほとんど目立たなかった蘇我赤兄も有力候補だと思います。他に考えられるのは、近江朝で大友皇子を支える5人の重臣のうち、壬申の乱で唯一処刑となった中臣金が法隆寺焼打ちの責任者だった、ということです。そう考えると、中臣金が5人の重臣で唯一処刑された、ということを作中世界では説明しやすいように思います。
なおも、災いが起きてからでは遅い、と大海人皇子が訴えるので、天智帝は警護の兵士たちに命じて、大海人皇子を祝宴の場から追放しようとします。すると大海人皇子は手に持った槍で舞を始め、兵士たちを寄せ付けず、槍先を天智帝に突き付けます。大友皇子をはじめとしてその場の人は唖然として固まってしまいます。すると中臣鎌足(豊璋)が拍手をして、見事な槍さばきの舞だった、と笑顔で褒め称えます。この鎌足の機転にその場の人々も安堵します。
鎌足は、余興は他に任せて、今宵は新政権の門出を祝って酒を酌み交わしましょう、物騒なものは納めてください、と大海人皇子を宥め、酒を持ってくるよう給仕たちに命じます。しかし大海人皇子は、寺院建立が認められないのなら、ここで天智帝と刺し違えて死んでもよい、と譲りません。大君(天皇)を脅すとはお前にしては上出来だ、と何とか余裕のある態度を示そうとする天智帝にたいして、寺院建立を認めていただければ、天智帝の望み通りこの朝廷から去る、と大海人皇子は条件を提示します。
祝宴の場にいる人々は、入鹿の怨霊について噂しています。しかし天智帝は、大海人皇子が朝廷を去っても寺院は建立させない、と激昂します。鎌足はそんな天智帝を、ここで大海人皇子を追い出すと大海人皇子の思うつぼだ、と諌めます。大海人皇子は民からの人気を背景に、近江朝廷に反目する貴族・豪族たちを集めて、近江朝廷の中枢にいる我々を脅かす存在になりかねない、というわけです。壬申の乱での大海人皇子の勝利は、作中世界ではこのように説明されるのでしょうか。
ではどうすればよいのだ、と天智帝に問われた鎌足は、大海人皇子の要求を受け入れるよう進言します。すると天智帝はまたもや激昂し、お前は入鹿の祟りなどまったく信じていないくせに、と言って鎌足につかみかかります。鎌足は冷静に、百済人の自分には怨霊信仰などなく、しかも自らが亡き者にした入鹿を鎮魂する寺院の建立はもってのほかだが、大海人皇子を自由にさせないためにも仕方ない、と天智帝を諭します。どうも、怨霊信仰は近江朝の時代には確立していた、という設定のようです。
鎌足は天智帝に、祝宴の場にいる人々の話を聞くよう促します。朝鮮半島に出兵して敗北したことや、5年前に天智帝が出兵から帰国した翌年に地震が起きたことは入鹿の祟りだとか、入鹿はひどい殺され方をしたのだから強力な祟り神にもなるだろうとか、そもそも入鹿ほどの人格者を成敗したのが間違いだったとか、このままでは我が国は入鹿の祟りで滅亡してしまうとか、人々は話していました。これらの発言から、この時点で668年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)であることが分かります。
人々は白村江での敗戦以降、災いを入鹿の怨霊の祟りのせいだと信じきっているので、この声を鎮めなければ、大友皇子を太政大臣とする新体制の士気にも差しさわりが出てくるだろう、と鎌足は天智帝に進言します。鎌足はもちろん天智帝も、こうした人々の想いは馬鹿げていると考えていましたが、体制安定のためには無視できない、というわけです。さまざまな災いを入鹿の怨霊の祟りのせいだとする観念がここまで広まっているのは、大海人皇子が配下を使って煽ったことが要因なのでしょうか。
天智帝をひとまず説得した鎌足は大海人皇子に近づき、寺院建立の要望は分かったが、どこにするのだ、と尋ねます。もちろんこの大津だ、と大海人皇子が即答すると、またもや天智帝は激昂し、大津宮から遠く離れた場所にしろ、と大海人皇子に命じます。すると大海人皇子は、どうせ近江朝廷には自分の居場所がなさそうだから、自分も寺院建立地に行く、と言います。しかし天智帝は、大海人皇子を自由にしてはならない、との鎌足の進言にしたがい、大津宮から離れてはならない、と大海人皇子に命じます。
寺院の規模と資金を鎌足に問われた大海人皇子は、我が国を唐の侵略から守るための寺院なので、皆から資金を集めて壮大なものにしましょう、と天智帝に提案しますが、天智帝は即座に、とんでもない、と言って却下します。ならぬと言うばかりだが、どうすれば建立できるのだ、と大海人皇子が天智帝に詰め寄ろうとすると、鎌足が間に入って、入鹿は大海人皇子にとっては父でも我々にとっては逆賊なのでそう簡単にはいかない、と言います。大海人皇子が入鹿の息子であることは、すでに公然と認められているのでしょうか。まあ、大海人皇子の顔を見れば、誰がその実父なのか、一目瞭然なのでしょうが。この鎌足の発言に大海人皇子の表情が険しくなります。
鎌足はさらに、高句麗が滅亡した今、入鹿を鎮魂する寺院の建立は、唐が攻めてくるという皆の不安を少しでも解消してくれるかもしれないので、大海人皇子がその責任者となり、全額自費で賄うなら許可するが、近江から離れた場所で規模も小さくし、大海人皇子自身は大津宮から出てはならない、と大海人皇子に言い渡します。すると大海人皇子は激昂し、大津宮を離れずに、しかも自費で建立しろと言うのか、と鎌足に詰め寄ります。しかし鎌足は冷静に、それが条件だと言い、天智帝は苦々しげな表情を浮かべて、それが嫌ならやめろ、そんな忌まわしい寺には虫唾が走る、と吐き捨てるように言います。
大海人皇子は槍を天智に向けて叩きつけようとしますが、叔父上おやめください、と言ってその間に大友皇子が割って入り、父の天智帝を庇います。この時、大友皇子は右腕に軽傷を負い、天智帝は慌てて医者を呼びますが、大友皇子は冷静で、これくらいの傷なら平気だ、と言います。大友皇子を傷つけてしまい、我に返った大海人皇子は大友皇子に謝罪します。大友皇子を気遣う大海人皇子に、触るな、と天智帝は厳しい口調で命じます。傷に障るのでしゃべるな、と天智帝は息子の大友皇子を案じますが、大友皇子は、父上のためにもぜひ入鹿の怨霊を鎮魂する寺院を建立すべきだ、と進言します。
大友皇子はここで、天智帝と大海人皇子の母で自身の祖母でもある、斉明帝(皇極帝、宝皇女)の崩御の話を持ち出します。斉明帝を殺したのは息子の天智帝(当時は帝ではありませんでしたが)なのですが、その場には天智帝と斉明帝しかいなかったため、斉明帝が入鹿の怨霊に殺された、と天智帝は公的には説明しました。今度こそ大君になった父上を入鹿が殺しに来るに違いない、と大友皇子は必死に訴えます。
さすがの天智帝も、自分が母を殺害したことを隠蔽するために自身が言い出したことを根拠にした諫言なので、否定するのは難しく得策ではないと判断したのか、すぐに冷静になり、先ほど提示した条件に従うのなら勝手にやれと言い、ついに入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立を認めます。大友皇子は安堵した表情を浮かべ、鎌足は、策士、策に溺れるか、と内心でつぶやきます。
こうして、飛鳥と難波の間に位置する斑鳩で入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立が始まります。説明文には、これが後の法隆寺である、とあります。蘇我倉山田石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により新羅の仏師が制作した蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)が、斑鳩に建立されるこの新たな寺院に安置されることになる、というところで今回は終了です。
今回は、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という『藤氏家伝』の有名な逸話に基づいた物語になっていました。鎌足だけではなく大友皇子もとりなすなど、ひねった話になりそうな気がする、と予想していたのですが、大枠ではこの予想が当たった、と言えるでしょう。とはいえ、すでに描かれていた創作をよく活かした話になることまでは予想できていなかったので、期待以上の面白さとなりました。
今回は、法隆寺創建をめぐる大海人皇子・天智帝・鎌足の思惑・駆け引きが描かれ、そこへ大友皇子が関わってきたことで、見所が多くなったと思います。大海人皇子の行動は、天智帝に槍先を突きつけたところまでは計算通りなのでしょうが、厳しい条件を突きつけられ天智帝に再度槍を向けたのは、激昂した挙句の行為であり、予定外だったのでしょう。もちろん、大友皇子を傷つける意図はまったくなかったと思います。ただ、大友皇子が自分に好意を抱いていることを大海人皇子は認識しているでしょうから、大友皇子の自分に好意的な言動は期待していたかもしれません。
大海人皇子は情念の強い人間であり、理不尽で悲惨な殺され方だったこともあって、父である入鹿への想いはかなり強いようです。大海人皇子は冷静に話を進め、槍を板に突き刺すのも計算したうえでのことなのかな、と予想していただけに、激昂して槍を天智帝に向けたのは意外でした。この時、大海人皇子が天智帝を殺そうとしたのか、それとも痛めつけようとしただけなのか、おそらく瞬間的には本人も分かっていなかったのではないか、と思います。
天智帝も情念の強い人物であり、入鹿とその息子で容貌が酷似している大海人皇子が相手になると、冷静さを失うことがよくあります。普段は、冷静というか冷酷なところをよく見せる天智帝ですが、昔から成長していないというよりは、それだけ初恋の人である入鹿への想いが強い、ということなのでしょう。初恋の人でありながら母を奪った人物でもあるということで、天智帝は入鹿に愛憎相半ばする強い感情を抱いていたでしょうから、入鹿を殺したことに満足しているとともに、強い後悔も抱いているのでしょう。
入鹿を殺害したことにたいする天智帝の後ろめたい感情が、入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立という大海人皇子の申し出にたいして、天智帝を冷静ではいられなくした要因なのだろう、と思います。もちろん、乙巳の変以降、政権の中枢にい続ける天智帝にとって、入鹿の殺害は謀反人の成敗との位置づけなので、入鹿の怨霊を鎮魂する寺院の建立を認めることは、自己の政治的正当性を損なうことになりかねない、との判断もあるのでしょう。これは、入鹿殺害を主導したと言ってもよい鎌足にとっても、切実な問題だと思います。
その鎌足は、冷静さを失っている天智帝を終始諌めており、完全に初期の怜悧なところが戻ってきた感があります。鎌足は今回、結果的に天智帝と大海人皇子との関係を取り持つような行動をとったとはいえ、あくまでも天智帝の「忠臣手足」として振る舞っています。『藤氏家伝』では、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺した事件以降、大海人皇子と鎌足が親しくなったと伝えますが、どうも作中ではそうはならないようです。鎌足の死は作中世界では翌年に迫っているので、それまでに大海人皇子と鎌足との関係がどう推移するのか、注目されます。
今回、鎌足以上の見せ場があったとも言えそうなのが大友皇子です。大友皇子も、祖母の斉明帝が入鹿の怨霊に殺された、と説明を受けていますが、第38話と第39話のやり取りからすると、大友皇子は天智帝の説明に疑問を抱いているようです。おそらく大友皇子は、天智帝が斉明帝を殺害したことに気づいているのでしょうが、緊迫した場において、天智帝の公的説明を逆手にとって天智帝を説得したのは見事でした。とっさに大海人皇子と天智帝の間に割って入り、天智帝を庇ったことからも、大友皇子は文武両道の優秀な人物である、という設定なのでしょう。
大友皇子の行為は、父の天智帝を庇ったものと見ることもできるでしょうが、叔父上おやめください、との大友皇子のとっさの台詞や、その後に寺院建立を天智帝へ必死に訴えたことからは、むしろ敬慕する叔父の大海人皇子の立場を案じてのことだった、という側面の方がずっと強いように思います。この大友皇子の行為にたいして、天智帝は慌て、大友皇子の身を深く案じているように見えます。天智帝は大友皇子の器量に不満を抱いているようですが、やはり身を挺して自分を守ってくれた息子のことは可愛い、ということでもあるのでしょう。まあ天智帝にとってはそれよりも、大海人皇子を絶対自分の後継者としたくないので、年齢・器量からいって大友皇子しか後継者がいない状況では大切に処遇しなければならない、との想いの方が強いのかもしれませんが。
今回、大海人皇子が父である入鹿の怨霊を鎮魂するために建立した寺院が、後の法隆寺であることが確定したことも注目されます。つまり、現在聖徳太子とされている厩戸皇子が法隆寺を建立したのではないわけで、以前から推測していたように、そもそも作中世界では上宮王家自体が存在しないのかもしれません。本来は蘇我入鹿のことだった聖徳太子がなぜ(創作の?)厩戸皇子のこととされたのか、これまで2回描かれた奈良時代初期の『日本書紀』編纂の様子が再度描かれることにより、説明されることを期待しています。
法隆寺(斑鳩寺)については、669年冬に火事が起き、670年4月30日に全焼したと伝わっています。今回のやり取りから予想すると、これは火事ではなく天智帝による焼打ちということになるのかもしれません。実行者の有力候補としては鬼室集斯を考えていますが、今回はほとんど目立たなかった蘇我赤兄も有力候補だと思います。他に考えられるのは、近江朝で大友皇子を支える5人の重臣のうち、壬申の乱で唯一処刑となった中臣金が法隆寺焼打ちの責任者だった、ということです。そう考えると、中臣金が5人の重臣で唯一処刑された、ということを作中世界では説明しやすいように思います。
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