Christopher Boehm『モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』

 クリストファー=ボーム(Christopher Boehm)著、斉藤隆央訳、長谷川眞理子解説で、白揚社より2014年11月に刊行されました。原書の刊行は2012年です。本書は、人間の道徳・良心・(血縁者だけではなく、非血縁者をも対象とするような)利他的行動がどのように獲得されてきたのか、進化史的観点から検証しています。利他的行動は人間に限らず多くの動物種で見られますが、道徳・良心(たとえば、赤面するといった恥じ入る行動)は人間にとって現生の近縁種となるボノボやチンパンジーにも見られず、人間に特異的なものとなっています。それが、人間の利他的行動の意味合いを他の動物種と違うものにしている、という側面もあるようです。本書は、人間のみがルールを内面化し、共鳴している、との見解を提示し、以下のように論じています。

 本書はボノボやチンパンジーなどの研究から、道徳・良心が人間において発達した前提として、(道徳性とは無縁ではあるものの)集団による社会統制の能力が、人間とボノボやチンパンジーとの共通祖先の段階で存在したことを重視します。この能力は、集団内において「ただ乗り」を行なう「フリーライダー」を排除するために用いられました。ここでの「ただ乗り」とは、獲物を自分だけこっそりと入手するといったこともさることながら、集団内の他者を支配して横暴に振る舞い、個体の利益を増大させることにも重点が置かれています。

 この社会統制能力は、利己的で競争心が強く、他者を利用するような性向がすぐに暴露され、集団の構成員の怒りを買うタイプのフリーライダーにたいして発揮されていました。そのようなフリーライダーは、集団の構成員から攻撃され、追放された、というわけです。そうした人間とボノボやチンパンジーとの共通祖先集団においては、基本的に社会秩序はまだかなり序列的だったとしても、一部の攻撃的な個体による利己的な行動は抑制できていました。この時点では、自己認識の能力はあるものの、進化的良心はなく、その自制は報復への恐怖と服従の能力にのみ依拠していました。

 社会統制が強化されていくと、強い個体がご都合主義的なただ乗り支配を行なおとした場合、利益を得るよりむしろ犠牲を払う方が大きくなり、自制の能力が高いと有利になる遺伝子選択が生じました。そこで、原始的な良心が発達すると、ルールが内面化され、個体の行動を集団の好みに敏感に合わせられるようになりました。フリーライダーに見られるような支配的傾向を注意深く抑制することが適応上ひじょうに有利になるような、強い社会的選択圧が作用したのではないか、というわけです。フリーライダーは繁殖から排除され、利他的傾向の強い者同士が結婚する傾向が強くなるので、人間集団において利他的行動を促すような遺伝子選択が強化されました。また、利他的傾向の強い人物の多い集団が他集団にたいして競争上優位に立ったかもしれないことも、利他的行動が定着していった一因として考えられます。

 このルールに感情的に共鳴する能力が大きく影響し始めたのは、大きな脳を持つ初期現生人類が、大型有蹄哺乳類の狩猟を始めた、25万年前頃と考えられます。集団内の効率的な狩猟のためには、かなり平等に肉を分け合う必要があったはずだからです。ただ、本書も指摘しているように、この25万年前頃という年代は今後の考古学的研究の進展によりもっとさかのぼる可能性もあり、じっさい、本書刊行後に公表された研究では、50万~30万年前頃のレヴァントでは大型動物が解体処理されていた、と報告されています(関連記事)。道徳的になった人間集団においては、利他的な人間に有利な「評判による選択」と、道徳を語ることによるフリーライダーの抑圧が働き、社会的選択圧となりました。また、道徳の発達により社会的逸脱者を殺したり追放したりせずに矯正できるようになりましたが、それでも、追放や死刑という選択肢は保持され続けました。

 人間集団はこうした社会選択により、行動面ですっかり「現代的」となった45000年前頃には、進化の過程で獲得したモラルに裏打ちされた、平等主義的志向のきわめて強い社会を形成しました。もっとも、45000年前頃という年代は現時点でどんなに遅く見持っても、ということであり、今後の考古学・人類学の研究の進展により、さかのぼる可能性もあります。ただ、人間の利他的傾向が進化の過程で強くなっていったとはいっても、それはエゴイズムよりも弱く、さらに身内贔屓よりも弱い柔軟なものでした。現代人のような認知メカニズムが確立した更新世は気候変動の激しい時期であり、たびたび飢餓状態に陥ったと考えられるので、そうした時には利他的傾向を抑制することにより、一時的に生存の可能性を高めたのではないか、というわけです。

 本書は人間のモラルの起源をこのように概観するのですが、いくつかの疑問も残ります。ボノボとチンパンジー(と人間)の共通祖先にも、後に人間にモラルをもたらすにいたった社会統制の能力があったのならば、なぜボノボやチンパンジーには今もそうしたモラルが存在しないのか、ということです。これにたいして本書は、ボノボやチンパンジーの系統で道徳が発達しなかったのは、集団の社会統制がひじょうに限られたままであり、恐怖に基づく自制の反応で充分に役目が果たせていたからではないか、との見解を提示しています。

 もう一つの疑問は、フリーライダー的な性向を抑制する社会選択が強力に作用し続けてきたのに、ルールを内面化できていなかったり、他者に共感できなかったりする人々(しばしば「サイコパス」と呼ばれます)が現代社会において一定の割合で存在するのはなぜなのか、ということです。この疑問にたいして本書は、人間の発達した認知能力により、ルールを内面化できていなかったり、他者に共感できなかったりする人々も、ルールや他者への共感が社会で果たす重要な役割を理解できるので、ルールを順守したり、そのように装ったりできるからだ、との見解を提示しています。利他的な傾向の強い人々の多い社会において、フリーライダーはきわめて大きな利益を得ることが可能なので、狩猟採集社会よりもずっと大規模な社会においては、フリーライダーを淘汰することがより難しくなっている、と言えるかもしれません。

 本書でも懸念は述べられているとはいえ、現代(もしくは近代以降)の民族誌学的データから更新世の狩猟採集社会を想定することは、危ういとは思います。ただ、人間のモラルの発達を社会的志向に起因する選択圧のなかで位置づけていく見解は、ひじょうに興味深いと思います。本書の見解がどこまで妥当なのか、私の見識では現時点にて妥当な判断はとてもできませんが、真剣に検証する価値があることは間違いないでしょう。社会的規範も進化の原動力となり得る、と以前から考えていたので、本書の見解に大きな違和感はありませんでした。


参考文献:
Boehm C.著(2014)、斉藤隆央訳『モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』(白揚社、原書の刊行は2012年)

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