岩明均『ヒストリエ』第9巻発売(講談社)

 待望の第9巻が刊行されました。実に1年9ヶ月振りの新刊となります。第8巻は、マケドニア軍の遠征に加わっていたエウメネスが、マケドニアの首都のペラに帰還するところで終了しました。第9巻は、エウメネスがエウリュディケと一晩を過ごし、起床する場面から始まります。遠征前からなのか、明示されていませんが、ともかくエウメネスとエウリュディケとの間には肉体関係があるようです。エウリュディケがまだ眠っているなか、エウメネスは居候先でエウリュディケの叔父である将軍のアッタロスとの会話を想起します。

 アッタロスの命令と偽ってマケドニア軍の危機を救ったエウメネスに、自分の手柄とはできない、とアッタロスは言います。しかしエウメネスは、結果的にマケドニア軍を救うことになったとはいえ、偽りの命令を触れ回ったことで処刑されることを懸念し、あくまでもアッタロスの功績にしてもらいたい、と懇願します。渋々納得したアッタロスは、エウリュディケとの仲をエウメネスに尋ねます。エウメネスは、深い仲ではないと示唆しますが、ごまかしているのか、この時点ではまだ深い関係になっていないのか、やや判断の迷うところです。

 その頃、マケドニアの元老のアンティパトロスは、重臣(らしき)4人を集めて、今後のアテネ対策を協議していました。そこでの議論の中心はアテネの名将フォーキオンにどう対処するか、ということでした。アンティパトロスの意図は、マケドニアからの使者であることを隠してフォーキオンに接近し、フォーキオンが拒むだろうとはいえ、品物を贈り続けることにより、アテネ市民にフォーキオンへの疑惑を抱かせ、次のマケドニアとアテネ(およびその同盟軍)との戦いにフォーキオンを従軍させない、というものでした。アテネ市民の間では、デモステネスの扇動もあってマケドニアへの敵意が高まっているので、マケドニアとアテネとの戦いは避けられないだろう、との判断がアンティパトロスにはあるようです。

 さらにアンティパトロスは、アテネと次に戦ってもマケドニアが勝つと確信しているので、マケドニアがアテネを従属させた後、フォーキオンをアテネの指導者とすることで、アテネを安定させよう、とも考えていました。そのためにも、フォーキオンが戦死しないよう、従軍させまいとしたのでした。アンティパトロスは、フォーキオンへの使者には知性・教養・戦場経験・的確な判断力・胆力が必要だと考え、エウメネスを抜擢します。エウメネスがアンティパトロスに呼ばれて出向くと、その途中で、重傷を負ったマケドニア国王フィリッポス2世の見舞いのために参上したヘカタイオスと遭遇します。ヘカタイオスはエウメネスの養父を謀殺し、エウメネスが育ったカルディアの支配者にのし上がり、エウメネスを奴隷として売却した人物です。

 エウメネスが現在ではマケドニアで国王フィリッポス2世に信頼されて側近的人物となっていることが、ヘカタイオスには面白くありません。ヘカタイオスはエウメネスに、お前のような蛮族がフィリッポス2世を襲ったのだ、と難癖をつけます。そこへアッタロスが現れ、ヘカタイオスを殴りつけます。さすがに遠征での殊勲第1位(上述したように、実際はエウメネスの功績なのですが)の将軍アッタロスが相手ということで、ヘカタイオスは謝罪します。エウメネスはヘカタイオスに、災難はいつ身に降りかかるのか分からないので、お互いに気をつけないとな、と冷ややかに言います。

 アンティパトロスの執務室?に呼ばれたエウメネスは、フォーキオンへの使者を命じられます。エウメネスはアンティパトロスの意図を見抜いており、すでにエウメネスを高く評価していたアンティパトロスですが、それでもエウメネスを過小評価していたかもしれない、とさらにエウメネスを高く評価するようになります。エウメネスはエウリュディケに、アテネへ使者として赴くと告げ、帰還したらアッタロスに自分たちのことをきちんと話したい、と言います。エウメネスはエウリュディケと結婚するつもりなのでしょう。

 エウメネスは配下としてつけられた者たちと共にアテネへと向かいます。護衛は全員マケドニア人ではなく、その護衛の隊長はフォイニクスという人物です。その他に、マケドニア人2名がエウメネスの直属の部下として同行しています。エウメネスは、このマケドニア人2名は自分たち非マケドニア人の監視役でもあるのだろう、と考えていました。観光ではなく使者というか工作員として赴くことをよく理解しているエウメネスですが、子供の頃より憧れていたアテネに来ると、さすがに興奮を隠せません。

 エウメネス一行はさっそくフォーキオンの家を訪ねます。質素な生活を送っていることでもアテネ市民から尊敬されているフォーキオンは、小さな家に住んでいました。エウメネスがフォーキオン宅を訪ねると、フォーキオンが庭で草むしりらしき作業をしていました。エウメネスは、オロポス市の商人アンティゴノスの使いと名乗り、フォーキオンに会いたい、と伝えます。フォーキオンは、自分がフォーキオンだとは名乗らず、予定があって忙しいようだな、と他人事のように答えます。するとエウメネスはあっさりと引き下がり、フォイニクスたちは意外に思います。あれがフォーキオンだとエウメネスに伝えられたフォイニクスたちは、そうだとは考えていなかったため、驚きます。

 エウメネスは何日もフォーキオンを訪ね続けますが、フォーキオンは会おうとはしません。しかし、この様子がアテネ市民の間でも噂になり、次第にフォーキオンへの疑いが生じつつあるようです。やがてフォーキオンは、信頼できる友人に頼まれたことから、ついにエウメネスを自宅に招きます。フォーキオンがその信頼できる友人の名を明かさないので、それはアリストテレスではないか、とエウメネスは推測します。エウメネスは、フォーキオンの対外政策に主人のアンティゴノスが共感したので、オロポス市でフォーキオンの後援会的な組織を立ち上げたい、と申し出ます。

 しかしフォーキオンは、そうしたものは全て断っていると答え、エウメネスはマケドニアの関係者ではないのか、と尋ねます。エウメネスは即座に否定しますが、フォーキオンはエウメネスがマケドニアの関係者だと確信しているのか、それ以上は追及しません。フォーキオンは、できればマケドニアとの戦いは避けたいものの、ビザンティオン沖の海戦により、アテネでは主戦派が勢いづいてしまい、もはや戦いを止めることはできない、と言います。フォーキオンはエウメネスに、主人のアンティゴノスに戦いを止めるための上策がないか、考えてもらいたい、と言います。フォーキオンは、アンティゴノスがフィリッポス2世だと見抜いているようです。

 フォーキオンに帰宅を促されたエウメネスは、慌ててマケドニア式将棋を持ち出し、フォーキオンに勧めます。遊んでいる時間はない、と断るフォーキオンにたいしてエウメネスは、オリンピア競技における休戦協定は競技会のためのものだったが、逆に、休戦のために競技会もしくは遊びという発想のもとに何かやれないだろうか、とマケドニア式将棋を勧めた意図を説明します。エウメネスが強引にマケドニア式将棋の説明を始めると、フォーキオンはその駒がマケドニア軍を模したものであることに気づきます。エウメネスはマケドニア式将棋をフォーキオンへ贈り、退出します。

 その翌日(だと思われます)、エウメネスはフォーキオンを訪ねず、自身は市民集会の様子を探り、配下にはフォーキオンの「信頼できる友人」が誰なのか、調査させます。それはアリストテレスだとエウメネスは当初推測していたのですが、アリストテレスはマケドニア国王に仕えているということもあるので、それはなさそうだ、と考え直していました。アテネ市民の戦意が高い様子を見たエウメネスは、マケドニアとアテネとの戦いは避けられないだろう、と確信し、慎重派のフォーキオンが将軍に起用されることもないだろうとの判断から、もうフォーキオンを訪ねる必要はないだろう、と考えます。

 エウメネスはフォーキオンの信頼する友人が誰なのか調査させていた配下から、その名前がメランティオスといい、アテネの隣の港町のピレウスに邸宅がある、と報告を受けます。エウメネスが配下に、もうフォーキオンを説得する必要はないので明日アテネを出る、と告げた翌日、宿の周りにはアテネ市民が集まり、エウメネス一行をマケドニアの回し者として糾弾していました。エウメネスの配下のマケドニア人2名が、アンティパトロスの命にしたがってエウメネスたちをアテネ市民に売った、というわけです。アンティパトロスがエウメネスの才能を怖れて処分しようと考えたとも解釈できますが、エウメネスの才覚を改めて試してみる、という意図なのかもしれません。

 エウメネスはフォーキオンへの贈答用の品々を宿の主人に与え、逃げ道を聞き出します。目立つのを避けるため、エウメネス一行はバラバラに逃げますが、フォイニクスのみは、エウメネスの護衛という契約を結んでいたので、エウメネスに同行します。ピレウスにやって来たエウメネスとフォイニクスはメランティオスについて尋ねますが、市民は皆非協力的です。そこへメランティオスの配下の者がやって来て、フォイニクスと揉めますが、エウメネスが宥め、エウメネスとフォイニクスはメランティオスの邸宅へと連れて行かれます。

 メランティオスはフォイニクスだけではなく自身の配下も退出させ、エウメネスと二人きりになります。メランティオスはエウメネスの旧知の人物であるカロンでしたが、エウメネスはすでに予想していたので、驚いた様子を見せません。カロンはエウメネスが養子として迎え入れられたカルディアのヒエロニュモス家の使用人で奴隷身分でしたが、後に金銭を払うことで自由身分となりました。エウメネスは知らない(気づいていない)ことですが、カロンとエウメネスには、かつての主人の息子と使用人という関係(エウメネスの養父が殺害され、エウメネスが奴隷身分の使用人となって以降は同僚の関係)以上の因縁がありました。かつて、ヒエロニュモス家は幼児のエウメネスを含むスキタイ人4人を奴隷にしようと襲撃したところ、エウメネスの母親が剣の達人だったため、思いがけず苦戦します。その時、エウメネスを人質にとってエウメネスの母親に抵抗を断念させたのがカロンでした。

 カロン改めメランティオスは、エウメネスを自邸の庭に案内し、妻を紹介します。メランティオスはエウメネスに敬語で語りかけ、エウメネス様と呼びます。とっくに主従関係は解消されていて、同僚だったこともあり、しかもメランティオスの方がずっと年上なので、エウメネスには敬語で語りかけられることが意外なのですが、メランティオスにとっては、その方がしっくりくる、ということです。エウメネスに子供のことを尋ねられたメランティオスは、自分にはもう無理だ、と答えます。年齢的なことなのでしょうか。

 エウメネスがマケドニアに仕えており、二人が共に過ごしたカルディアをエウメネスが再訪したことを、メランティオスは知っていました。しかし、カルディアの支配者であるヘカタイオスは、メランティオスとカロンが同一人物であることを知らないようです。自由身分となって以降、多くの守るものができた、と言うメランティオスは、今回のエウメネスの行動は黙認するが、アテネとピレウスに仇をなすものには命を懸けて戦う、と決意を示します。メランティオスは立ち去るエウメネスに馬を用意し、エウメネスは感謝します。メランティオスはエウメネスを見送りつつ、かつてエウメネスを人質にとってその母を死に追いやったことを想起していました。それ以来メランティオスは、子供はエウメネスただ一人と決めていたのでした。

 ピレウスを去ったエウメネスとフォイニクスは、マケドニアの首都のペラへと向かいますが、その途中で大軍を率いてきたフィリッポス2世と会い、エウメネスがペラへと帰還するのは先のこととなります。フィリッポス2世は、デモステネスの弁舌によりテーベがアテネ側についたので、両者の連合軍を撃破するために約32000の兵を率いて出陣してきたのでした。紀元前338年、マケドニア軍は約35000の兵を擁するアテネ・テーベなどの連合軍とギリシア中央部のカイロネイアで戦います。

 マケドニア軍にはエウメネスが従軍し、連合軍にはマケドニア首脳部の恐れる慎重派のフォーキオンは従軍しておらず、マケドニアとの戦争を扇動してきたデモステネスが一兵士として従軍していました。アテネ軍の指揮官は英雄と称されるカレスで、テーベ軍の指揮官はテアゲネスです。フォーキオンが従軍していないことにマケドニア軍首脳は安堵しているようですが、副将のアレクサンドロスだけは、宿敵のフォーキオンがいないことを悔しがります。宿敵と雌雄を決したかった、ということなのでしょうが、アレクサンドロスの空想的な「英雄」志向の表れでもあるのでしょう。

 フィリッポス2世は少年時代にテーベに人質として送られていたことがあり、その時に名将エパミノンダスの教えを受けていました。フィリッポス2世はエパミノンダスの編み出した斜線陣で攻撃を仕掛けようとします。テアゲネスは斜線陣の弱点を知っているので、慌てた様子を見せません。しかし、フィリッポス2世はテアゲネスの想定とは異なる攻撃法を考えていました。どうも、マケドニア軍の攻撃の要となりそうなのは、マケドニア軍右翼の本陣ではなく、クラテロスの率いる部隊のようなのですが、そこへアレクサンドロスが現れ、一番手を自分と替わってくれないか、とクラテロスに頼みます。それを断るクラテロスにたいして、副将の下知だ、とアレクサンドロスが言うところで、第9巻は終了です。


 第9巻もたいへん面白く、メランティオスと名を改めたカロンとエウメネスとの再会は感慨深いものでした。エウメネスも気づいていないかつての二人の因縁から、メランティオスが子供を儲けようとしないことを説明するところは、本当によく練られているな、と感心します。本作は構想力がたいへん優れているので、今後のフィリッポス2世の暗殺事件(おそらく作中ではフィリッポス2世は暗殺されないでしょうが)やアレクサンドロス即位後の東方への大遠征、さらにはアレクサンドロス死後のディアドコイ戦争がどう描かれるのか、本当に楽しみです。ただ、カイロネイアの戦いの始まりまで描かれたとはいえ、第8巻の刊行から第9巻の刊行まで1年9ヶ月を要しているので、果たして完結するのか、たいへん不安になります。

 本作が完結するのか否か、一読者の私が今から心配しても仕方のないことなので、さておくとして、エウメネスとエウリュディケの関係が進展したことも注目されます。ただ、エウリュディケはフィリッポス2世の妻となり、フィリッポス2世の死後に悲惨な最期を迎えることになります。作中ではどのような流れでエウリュディケがフィリッポス2世の妻となり、エウメネスはそれをどう思うのか、ということが注目されます。エウメネスにとっては、カルディアでのペリアラ、ボアでのサテュラに続く悲恋となりそうです。

 アレクサンドロスが軍事的才能の片鱗を見せたように思われることも注目されます。これと関連して思い出したのは、すでに第5巻所収の第44話「深酒の王」にて、カイロネイアの戦い後の紀元前337年時点での会話がわずかながら描かれていることです。カイロネイアの戦いで非凡な軍事的才能を示したアレクサンドロスは、自身の才能に自信を深めつつあるようですが、フィリッポス2世は、アレクサンドロスの勇敢さを認めつつも、アレクサンドロスとエウメネスが戦えば、最後に生き残るのはエウメネスだろう、と考えています。

 このエウメネスとアレクサンドロスとの対比もさることながら、すでにエウリュディケがフィリッポス2世の側にいるらしいことも注目されます。エウリュディケはこの時点ではもうフィリッポス2世の妻の一人になっているのかもしれませんが、この時のエウリュディケの発言からは、両想いだったエウメネスと結ばれなかったことに対する恨み節のようなものは窺えません。エウリュディケはさっぱりした人柄のようなので、国王との結婚ということでエウメネスをあっさりと諦めたのかもしれませんが、エウリュディケの心境が気になるところです。


 なお、第3巻までの内容は
https://sicambre.seesaa.net/article/200707article_28.html

第4巻の内容は
https://sicambre.seesaa.net/article/200708article_18.html

第5巻の内容は
https://sicambre.seesaa.net/article/200904article_10.html

第6巻の内容は
https://sicambre.seesaa.net/article/201005article_25.html

第7巻の内容は
https://sicambre.seesaa.net/article/201111article_29.html

第8巻の内容は
https://sicambre.seesaa.net/article/201308article_26.html

フィリッポス2世の今後についての予想は
https://sicambre.seesaa.net/article/201112article_2.html

にて述べています。

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  • 岩明均『ヒストリエ』第10巻発売(講談社)

    Excerpt: これは4月2日分の記事として掲載しておきます。待望の第10巻が刊行されました。実に1年10ヶ月振りの新刊となります。第9巻は、紀元前338年、アテネ・テーベなどの連合軍とマケドニア軍とのカイロネイアの.. Weblog: 雑記帳 racked: 2017-04-01 07:55