松本直子「縄文から弥生への文化変化」
西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人3─ヒトと文化の交替劇』所収の論文です(関連記事)。本論文は縄文時代から弥生時代への移行の様相とその要因について検証しています。近年の一般向け書籍でも強調されているので、すでに広く知られつつあるかもしれませんが、弥生文化は縄文的要素と外来要素との融合により成立しました。本論文でもその点は強調されており、さらに、その前提として縄文時代において九州北部と朝鮮半島との間で継続的な交流があり、九州北部をはじめとして西日本側が朝鮮半島の文化要素を選択的に受容していたことが指摘されています。
狩猟採集社会と農耕社会とでは世界観に大きな違いがあるので、狩猟採集社会が農耕を受容するのは容易ではない、と本論文は指摘します。そこで、なぜ九州北部を先頭に日本列島において水稲耕作という本格的な農耕(縄文時代においてすでに、豆類などの栽培は行なわれていました)が受容されたのか、ということが問題となります。この問題に関しては、まだ明快な解答ができるという段階ではないようですが、本論文では気候の寒冷化が指摘されています。
弥生時代の始まりには、それ以前の選択的受容と違い、農耕文化の要素が一揃いで出現する劇的な変化が生じたので、朝鮮半島から北部九州への人々の移住があっただろう、と本論文は推測しています。ただ、朝鮮半島からの移住者のみで構成されていると確認できる弥生集落はないので、移住者が縄文集落に入り込む形で本格的な農耕へと移行していったのではないか、とも指摘されています。人骨の分析・比較からも、日本列島の在来の住民が農耕文化を受容していった様相が推測されています。
朝鮮半島においては、九州北部で弥生時代の始まる前の青銅器時代後期の前半に稲作が普及していき、集落の大規模化や階層化が進行していった、と推測されています。そこに寒冷化が進行したことで、すでに交流もあり情報もある程度以上得ていた九州北部へと新天地を求めて朝鮮半島から人々が移住した、という可能性を本論文は提示しています。さらに本論文は、そうした移住者たちは困窮のあまり九州北部へと移住したのではなく、ある程度以上の社会的地位、たとえば親から領域を継承できないような首長の息子たちを含んでいた可能性もある、と指摘しています。
参考文献:
松本直子(2015A)「縄文から弥生への文化変化」西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人3─ヒトと文化の交替劇』(六一書房)P110-123
狩猟採集社会と農耕社会とでは世界観に大きな違いがあるので、狩猟採集社会が農耕を受容するのは容易ではない、と本論文は指摘します。そこで、なぜ九州北部を先頭に日本列島において水稲耕作という本格的な農耕(縄文時代においてすでに、豆類などの栽培は行なわれていました)が受容されたのか、ということが問題となります。この問題に関しては、まだ明快な解答ができるという段階ではないようですが、本論文では気候の寒冷化が指摘されています。
弥生時代の始まりには、それ以前の選択的受容と違い、農耕文化の要素が一揃いで出現する劇的な変化が生じたので、朝鮮半島から北部九州への人々の移住があっただろう、と本論文は推測しています。ただ、朝鮮半島からの移住者のみで構成されていると確認できる弥生集落はないので、移住者が縄文集落に入り込む形で本格的な農耕へと移行していったのではないか、とも指摘されています。人骨の分析・比較からも、日本列島の在来の住民が農耕文化を受容していった様相が推測されています。
朝鮮半島においては、九州北部で弥生時代の始まる前の青銅器時代後期の前半に稲作が普及していき、集落の大規模化や階層化が進行していった、と推測されています。そこに寒冷化が進行したことで、すでに交流もあり情報もある程度以上得ていた九州北部へと新天地を求めて朝鮮半島から人々が移住した、という可能性を本論文は提示しています。さらに本論文は、そうした移住者たちは困窮のあまり九州北部へと移住したのではなく、ある程度以上の社会的地位、たとえば親から領域を継承できないような首長の息子たちを含んでいた可能性もある、と指摘しています。
参考文献:
松本直子(2015A)「縄文から弥生への文化変化」西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人3─ヒトと文化の交替劇』(六一書房)P110-123
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