Kate Wong「ネアンデルタール人の知性」

 『日経サイエンス』2015年6月号の解説記事です。この記事は、現生人類(Homo sapiens)との比較という観点を中心に、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の知性に関する形質人類学・遺伝学・考古学などの諸研究成果を取り上げています。ネアンデルタール人と現生人類との知性の比較は大きな関心を集めている問題ですが、各集団内の個体差を考慮する必要があるのも確かでしょう。

 形態面では、ネアンデルタール人の眼窩が現代人よりも大きかったことから、ネアンデルタール人においては視覚情報処理のための領域の占める割合が大きく、他の脳領域に回される神経が少なかったのではないか、との見解が提示されています。しかし、視角野を正確に測定する方法はなく、現代人でも視角野の相対的大きさに関しては個体差が大きいことから、この見解に否定的な研究者もいます。

 ネアンデルタール人のゲノム解読の成功により、ネアンデルタール人と現生人類との遺伝的違いについても、知見が蓄積されつつあります。現代人のゲノム配列と脳の磁気共鳴画像(MRI)データから、疾病に関連する特定の変異型が形質に及ぼす影響を評価する方法が、ネアンデルタール人のゲノム解読結果にも応用されています。その結果、ネアンデルタール人の脳においては、情報処理を担う灰白質の表層領域や言語に関わるとされるブローカー野や情動反応を制御する扁桃体などが現代人よりも小さい、と示唆されました。また、ネアンデルタール人の脳では神経線維の集まりである白質が少ないと示唆されたことからも、ネアンデルタール人の認知能力は現生人類よりも確実に劣っていた、との見解も提示されています。ただ、現代人に関しても、遺伝子と認知能力との関係については不明な点があまりにも多いので、現時点ではネアンデルタール人の認知能力を遺伝的に推定することに慎重な見解も提示されています。

 考古学的記録からは、人類では現生人類にのみ特有で、現生人類の世界各地への拡散と人口増・文化的「発展」をもたらした要因ともされてきた抽象的思考能力を、ネアンデルタール人も有していたのではないか、との報告例が増加しつつあります。抽象的思考能力の考古学的指標としては、絵画・線刻・装飾品などがあります。そうした報告例に関しては、現生人類の所産とか現生人類の行為を(よく意味を理解せずに)真似ただけ、との見解も提示されており、じっさい、ヨーロッパにおいて現生人類と接触していたとしても不思議ではない、ネアンデルタール人の末期にそうした事例が多いため、判断の難しいところではあります。

 ただ、この記事でも取り上げられているように、ネアンデルタール人が現生人類と接触していなかったと思われる時期の、抽象的思考能力の考古学的指標となりそうな遺物の報告例も蓄積されつつあり、現生人類と同程度なのか否かはともかくとして、ネアンデルタール人に何らかの抽象的思考能力が存在したことは間違いないでしょう。この記事の公表後には、おそらくは現生人類の影響を受けなかったであろう、ネアンデルタール人所産の13万年前頃の装飾品が報告されています(関連記事)。ジャワ島でエレクトス(Homo erectus)の所産と考えられる54万~43万年前頃の貝に刻まれた幾何学模様が発見されていることからも(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点で抽象的思考能力が存在した可能性が提示されています。

 ネアンデルタール人の絶滅に関しては、現生人類の技術革新が一因になったのではないか、との見解が提示されています。この記事では、現生人類の技術革新の要因として、ネアンデルタール人にたいする認知能力の優越ではなく、人口増を想定する見解が取り上げられています。この問題に関しては、現生人類のヨーロッパへの拡散と技術革新の問題についても言及している最近の研究が参考になりそうです(関連記事)。また、ネアンデルタール人の絶滅については、ネアンデルタール人よりも集団・人口規模の大きい現生人類との混血が進み、同化吸収されてしまった可能性が指摘されています。


参考文献:
Wong K. (2015)、『日経サイエンス』編集部訳「ネアンデルタール人の知性」『日経サイエンス』2015年6月号P56-63

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