戸川点『平安時代の死刑 なぜ避けられたのか』
歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2015年3月に刊行されました。平安時代には薬子の変から保元の乱までの350年近く死刑が執行されなかった、との見解は広く知られているように思います。本書は、すっかり通俗的になったとも言えるこの見解を検証していきます。まず本書は、律令制における刑罰について解説し、次に死刑が執行されないようになったとされる嵯峨朝の刑罰について検証していきます。
本書は嵯峨朝における死刑について、嵯峨天皇は治政を安定させるために儒教的徳治主義に基づいて恩赦などで徳を示す必要があったものの、恩赦の機会はそう多くないため、徳を示すために死刑の奏上にたいしてその都度、罪一等を減じる形で死刑減免を打ち出していったのではないか、との見解を提示しています。嵯峨朝において死刑が廃止されたのではなく、天皇の個別的判断により停止されたのだ、というわけです。
死刑の減免は奈良時代の聖武天皇も行なっていたことで目新しさはありませんが、都では薬子の変以降に大きな軍事力を発動するような政争・内乱が起きず、穢意識が拡大したこともあり、嵯峨以後の天皇も死刑を忌避し、死刑減免の判断を続けていきました。そうした先例が積み重なるなかで、上級貴族の意識においては、死刑は嵯峨朝以降に廃止されたかのように認識されていったのではないか、と本書は指摘します。
しかし本書は、薬子の変から保元の乱の間にも死刑が執行されていたことを指摘します。10世紀初頭には群盗が誅殺された事例もありましたし、地方では統治制度の変革により裁量権の増大した国司による死刑・誅殺などが実施され、追討行為のさいや武士社会などの私的法権内では死刑は行なわれており、死刑を確認する梟首が都で行なわれることもありました。
また、平安時代後期に権門が成立していき、太政官・検非違使とともに裁判権を把握・施行していく過程で、「寛刑」の傾向を強める太政官・検非違使にたいして、権門が「私刑」的な死刑も執行するようになっていきました。ただ本書は、天皇の裁可を経ない、律令の規定に沿わないさまざまな死刑を私刑と位置づける見解にたいして、法権が分立しつつもそれらが複合的に社会秩序を維持していたとの考えから、「公的」な死刑と認識しています。
死刑・梟首などの治安維持活動と穢を怖れての死刑忌避という矛盾、つまり実態としての死刑と理念としての死刑停止という二重基準をどう調整していくのかが、平安時代初期以降の朝廷の課題でした。この矛盾の調整弁の役割を果たしたのが検非違使や武士で、そのためしだいに重要性を増していきました。もっとも検非違使は、「公的」な裁判の場では死刑を忌避し、拘留にとどめる「寛刑」の傾向が強かったようです。
死刑が復活したとされる保元の乱について本書は、実際に処刑されたのは「合戦の輩」のみで、貴族も後白河天皇も死刑を忌避しようとしていたし、死刑復活に反発していた、と指摘します。この点ではじゅうらいと大きく変わらなかったのですが、保元の乱は都を舞台に天皇を直接巻き込む形の戦乱となったので、天皇も貴族も、征東使や追討使や国司に死刑を判断・実行させて黙認するだけというわけにもいかず、この問題に直面せざるを得ませんでした。後白河天皇や貴族にとってこの死刑判断の衝撃は大きく、死刑の復活と認識されました。
しかし保元の乱以降、朝廷側の寛刑・死刑忌避傾向はさらに強まり、鎌倉時代になると、朝廷から鎌倉幕府へと罪人が引き渡され、処罰されるという慣行が成立するように、武士が死刑も含む刑罰の実行者としての役割をさらに強めていきます。本書はこのように平安時代における死刑と刑罰について概観しています。平安時代には350年近く死刑が執行されなかった、との通俗的見解の問題点は明らかであり、そうした通俗的見解に基づく「平和的な日本人」といった文化論もまた、根本的に問い直されなければならないでしょう。
本書は嵯峨朝における死刑について、嵯峨天皇は治政を安定させるために儒教的徳治主義に基づいて恩赦などで徳を示す必要があったものの、恩赦の機会はそう多くないため、徳を示すために死刑の奏上にたいしてその都度、罪一等を減じる形で死刑減免を打ち出していったのではないか、との見解を提示しています。嵯峨朝において死刑が廃止されたのではなく、天皇の個別的判断により停止されたのだ、というわけです。
死刑の減免は奈良時代の聖武天皇も行なっていたことで目新しさはありませんが、都では薬子の変以降に大きな軍事力を発動するような政争・内乱が起きず、穢意識が拡大したこともあり、嵯峨以後の天皇も死刑を忌避し、死刑減免の判断を続けていきました。そうした先例が積み重なるなかで、上級貴族の意識においては、死刑は嵯峨朝以降に廃止されたかのように認識されていったのではないか、と本書は指摘します。
しかし本書は、薬子の変から保元の乱の間にも死刑が執行されていたことを指摘します。10世紀初頭には群盗が誅殺された事例もありましたし、地方では統治制度の変革により裁量権の増大した国司による死刑・誅殺などが実施され、追討行為のさいや武士社会などの私的法権内では死刑は行なわれており、死刑を確認する梟首が都で行なわれることもありました。
また、平安時代後期に権門が成立していき、太政官・検非違使とともに裁判権を把握・施行していく過程で、「寛刑」の傾向を強める太政官・検非違使にたいして、権門が「私刑」的な死刑も執行するようになっていきました。ただ本書は、天皇の裁可を経ない、律令の規定に沿わないさまざまな死刑を私刑と位置づける見解にたいして、法権が分立しつつもそれらが複合的に社会秩序を維持していたとの考えから、「公的」な死刑と認識しています。
死刑・梟首などの治安維持活動と穢を怖れての死刑忌避という矛盾、つまり実態としての死刑と理念としての死刑停止という二重基準をどう調整していくのかが、平安時代初期以降の朝廷の課題でした。この矛盾の調整弁の役割を果たしたのが検非違使や武士で、そのためしだいに重要性を増していきました。もっとも検非違使は、「公的」な裁判の場では死刑を忌避し、拘留にとどめる「寛刑」の傾向が強かったようです。
死刑が復活したとされる保元の乱について本書は、実際に処刑されたのは「合戦の輩」のみで、貴族も後白河天皇も死刑を忌避しようとしていたし、死刑復活に反発していた、と指摘します。この点ではじゅうらいと大きく変わらなかったのですが、保元の乱は都を舞台に天皇を直接巻き込む形の戦乱となったので、天皇も貴族も、征東使や追討使や国司に死刑を判断・実行させて黙認するだけというわけにもいかず、この問題に直面せざるを得ませんでした。後白河天皇や貴族にとってこの死刑判断の衝撃は大きく、死刑の復活と認識されました。
しかし保元の乱以降、朝廷側の寛刑・死刑忌避傾向はさらに強まり、鎌倉時代になると、朝廷から鎌倉幕府へと罪人が引き渡され、処罰されるという慣行が成立するように、武士が死刑も含む刑罰の実行者としての役割をさらに強めていきます。本書はこのように平安時代における死刑と刑罰について概観しています。平安時代には350年近く死刑が執行されなかった、との通俗的見解の問題点は明らかであり、そうした通俗的見解に基づく「平和的な日本人」といった文化論もまた、根本的に問い直されなければならないでしょう。
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