前期アハマリアンの多様性とプロトオーリナシアンの起源

 前期アハマリアン(Early Ahmarian)の多様性とプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)の起源に関する研究(Kadowaki et al., 2015)が報道され、この研究の日本語解説が公表されました。本論文が近日掲載されるということは、先日このブログにて追記という形で紹介しましたが、公表されたので取り上げます。本論文の筆頭著者の門脇誠二様から論文掲載の件でご教示いただき、この場を借りて改めてお礼を申し上げます。上記日本語解説に私がさらに適切なことを付け加えられるわけではないのですが、以下備忘録的に述べていきます。

 現在では、20万年前頃までにサハラ砂漠以南のアフリカに出現した現生人類(Homo sapiens)が世界各地へと進出していき、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの先住人類と交替した、との現生人類アフリカ単一起源説がほぼ通説になっています。そのさい、現生人類はネアンデルタール人などの先住人類と一部で交雑した、との見解が現在では有力視されています。現在おもに議論となっているのは、現生人類の出アフリカの経路(アフリカ東部からアラビア半島を経由する南回りか、アフリカ北東部からレヴァントを経由する北回りか)と回数(1回か複数回か)です。

 現生人類がネアンデルタール人などの先住人類を絶滅に追いやった理由(現生人類の出現以降、現生人類ではない人類集団で、現生人類との競合が一因となって絶滅した集団もまず間違いなく存在したでしょうが、現生人類と関わりなく絶滅した集団も存在したことでしょう)として、技術的優位性を想定する見解は有力だと言えるでしょう。本論文は、そうした見解の根拠の一つとされてきたレヴァントとヨーロッパの考古学的記録を再検証しています。具体的には、レヴァントの前期アハマリアン(Early Ahmarian)とヨーロッパのプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)との関係です。

 前期アハマリアンもプロトオーリナシアンも、その担い手は現生人類と考えられています。プロトオーリナシアンについては、最近になって、化石証拠からその担い手は現生人類と確定した、とする研究が公表されました(関連記事)。本論文が指摘するように、前期アハマリアンとプロトオーリナシアンとは類似している、との見解が以前から提示されています。また、年代的には前期アハマリアンがプロトオーリナシアンに先行していることから、プロトオーリナシアンの起源はレヴァントにあり、レヴァントからヨーロッパへと現生人類が拡散していった証拠とされてきました。

 また、本論文が指摘するように、前期アハマリアンにもプロトオーリナシアンにも見られる、投擲具の石鏃として用いられたであろう小型尖頭器は技術革新と考えられており、これが先住人類たるネアンデルタール人のいるヨーロッパへの進出にさいして、現生人類が優位に立った一因となった可能性があります。これは、技術革新を伴う現生人類のアフリカから世界各地への拡散という仮説の具体例になるのではないか、というわけです。しかし本論文は、プロトオーリナシアンの起源がレヴァントにある、との見解の前提となっている考古学的記録を再検証し、異なる仮説が考えられ得る、と指摘します。


 まず問題となるのが、レヴァントの前期アハマリアンの年代とその具体的様相です。アハマリアンはレヴァントにおける上部旧石器群の一つとされており、石刃と細石刃によって特徴づけられるエミラン(Emiran)よりも後に出現します。アハマリアンの石器技術の多様性は以前から指摘されており、時期的に前期と後期に区分されています。アハマリアンの前期から後期への移行の指標は、エルワド(el-Wad)尖頭器に替わるオークタタ(Ouchtata)石刃の増加などです。前期から後期への移行は、較正年代で33000~29000年前頃と推定されています。

 前期アハマリアンについては、時期だけではなく、地域的多様性も指摘されています。たとえば、北部の石刃・細石刃は南部と比較してまっすぐで頑丈である、とも指摘されています。本論文は、石器技術の定量的データの分析から、その地域的多様性を具体的に検証し、以前から指摘されている北部と南部の違いだけではなく、前期アハマリアンと類似した石器群も対象としています。それは、クサールアキル(Ksar Akil)遺跡9~10層(クサールアキル段階4群)や新たに発見された内陸シリアのワディハラール(Wadi Kharar)16R遺跡の石器群です。

 クサールアキル段階4群(the KA 4 group、以下「KA4」と省略)の石器群は、レヴァント北部に位置するにも関わらず、前期アハマリアンでも北部ではなく南部との類似性が認められます。たとえば、尖頭器が北部のそれと比較して小さく幅が狭い、などといった点です。KA4は、かつてレヴァントオーリナシアンと区分されたこともありました。このKA4とワディハラール16Rの石器技術の類似性から、本論文は両者をKA4としてまとめて区分しています。

 上述したように、プロトオーリナシアンと前期アハマリアンとの類似性は以前から指摘されていますが、本論文は、前期アハマリアンにも地域的多様性があり、北部と南部では顕著な相違があるとして、両者を区分しています。プロトオーリナシアンは、前期アハマリアンでも北部よりも南部の方と類似している、というのが本論文の見解です。ここまでをまとめると、本論文が対象とする石器群は、レヴァントでは前期アハマリアンの北部と南部およびKA4の3区分となります。石器技術的には、南部前期アハマリアンとKA4とが類似しており、北部前期アハマリアンはそれらとは異なり、ヨーロッパのプロトオーリナシアンは、北部前期アハマリアンよりも、南部前期アハマリアンやKA4の方に類似している、ということになります。


 本論文で次に検証されているのは、前期アハマリアンの北部および南部とKA4とプロトオーリナシアンの年代です。本論文は、レヴァント各地の該当する遺跡の年代を再検証するとともに、新発見となるワディハラール16R遺跡の年代を新たに提示しています。ここで問題となるのが、これまで報告されてきたレヴァントの各遺跡、とくに南部の前期アハマリアンの年代です。試料汚染の問題をできるだけ解決するための前処理が厳密なものは少なく、年代値の多くは加速器質量分析法(AMS法)の適用前のものです。

 本論文は、そうした厳密な年代測定法の採用されていない年代値を採用しなければ、南部前期アハマリアンの年代がじゅうらいよりも新しくなることを指摘しています。たとえば、アブノシュラ(Abu Noshra)遺跡の年代は、試料によっては較正年代で44000~42000年前とか45000~31000年前といった年代値が推定されていますが、AMS法に限定すると、39400~37200年前(これらの年代値はいずれも確率68.2%)にまでしかさかのぼりませんし、いずれも古い前処理法が採用されています。こうした制約はありますが、南部前期アハマリアンは較正年代でおおむね39000年前頃に出現し、30000年前以降も継続した可能性があります。KA4は較正年代で39000~34000年前頃に存続したようであり、南部前期アハマリアンの存続期間に収まるようです。

 北部前期アハマリアンに関しては、ケバラ(Kebara)洞窟において較正年代で49000年前頃にまでさかのぼる年代値も得られていますが、上述した古い前処理法の採用やAMS法が用いられていないといった測定方法の問題と、中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)層との混合が疑われているので、その開始年代には曖昧なところが残ります。ただ、クサールアキル遺跡にてKA4の下層に北部前期アハマリアンが位置することからも、前期アハマリアンに関しては、年代的に北部が南部に先行することになりそうです。プロトオーリナシアンは、較正年代で42000年前頃に出現し、39000~38000年前頃まで継続したようです。

 ここまで本論文が対象とした各石器群を年代順にまとめると、北部前期アハマリアンとプロトオーリナシアンが南部前期アハマリアンとKA4に先行し、北部前期アハマリアンはKA4とは年代的に重ならず、南部前期アハマリアンとはわずかに重なる可能性があります。プロトオーリナシアンは、その末期が南部前期アハマリアンおよびKA4とわずかに重なる可能性があります。北部前期アハマリアンの開始年代には曖昧なところが残るので、プロトオーリナシアンとどちらが先に出現したのかとなると、判断が難しそうです。南部前期アハマリアンとKA4はほぼ同じ頃に出現し、KA4の方が先に終焉したようです。


 この新たな石器群の分類と年代観でまず問題となるのが、前期アハマリアンに関して、北部が南部に先行し、北部と南部の継続年代が重ならないか、重なっても短期間だとすると、北部で前期アハマリアンが継続していた間、南部ではどのような石器技術が存在したのか、ということです。本論文はヨルダンのトーサダフ(Tor Sadaf)遺跡に注目し、レヴァント南部ではエミランから中間段階を経て前期アハマリアンへと続いていった可能性を提示しています。

 次に、現生人類のアフリカから世界各地への拡散という議論とも関連して、より大きな問題となるのが、プロトオーリナシアンのレヴァント起源説の見直しです。プロトオーリナシアンが類似しているのは、前期アハマリアンでも北部よりも南部の方なのですが、プロトオーリナシアンは年代的には南部前期アハマリアンに先行しますから、じゅうらいのように、プロトオーリナシアンの起源がレヴァントにあると想定すると、苦しい説明が必要となってきます。

 北部前期アハマリアンの出現はプロトオーリナシアンに先行する可能性がありますが、それを確定するにはケバラ遺跡の厳密な年代測定が必要となります。仮に、北部前期アハマリアンがプロトオーリナシアンに先行し、その母胎になったとすると、レヴァントからヨーロッパへの文化的拡散にさいして、北部前期アハマリアンがどのようにプロトオーリナシアンへと変容していったのか、説明する必要がある、と本論文は指摘しています。レヴァントの北部前期アハマリアンがヨーロッパのプロトオーリナシアンの母胎となった可能性は低そうです。

 上述したように、プロトオーリナシアンは前期アハマリアンでも北部よりも南部の方と類似しており、年代的には南部前期アハマリアンに先行しそうですから、ヨーロッパのプロトオーリナシアンからレヴァント南部の前期アハマリアンおよびレヴァント北部のKA4へと文化的拡散が生じた可能性を本論文は指摘しています。これは、じゅうらい考えられてきたプロトオーリナシアンのレヴァント起源説を覆すものであり、それだけに意義は大きいと言えるでしょう。


 本論文の提示した仮説は、レヴァントからヨーロッパへの現生人類の拡散はネアンデルタール人にたいする決定的な技術的優位を伴っていた、という有力説の見直しにつながります。上述したように、ヨーロッパのプロトオーリナシアンの担い手は現生人類であり、プロトオーリナシアンが出現した時点でヨーロッパには現生人類が存在したわけですが、プロトオーリナシアンの起源がレヴァントではないとすると、プロトオーリナシアンの担い手の現生人類集団は、レヴァントを経由せずヨーロッパへと進出したか、プロトオーリナシアン以前にヨーロッパへと進出していた現生人類集団の子孫である、という可能性が想定され得ます。

 本論文が指摘するように、ヨーロッパにおける中部旧石器時代~上部旧石器時代の「移行期インダストリー」とされるもののなかには、ウルツィアン(Ulzzian)のように化石証拠から現生人類をその担い手とする見解も提示されていますし(関連記事)、東・中央ヨーロッパのバチョキリアン(Bachokirian)やボフニチアン(Bohunician)に関しては、おそらくは現生人類が担い手であろうレヴァントのエミラン(Emiran)からの文化的拡大を想定する見解も提示されています。これらの「移行期インダストリー」はプロトオーリナシアンに先行しますから、ヨーロッパにおいて、プロトオーリナシアンの出現する前の48000~42000年前頃に現生人類がすでに存在していた可能性は高いと言えるかもしれません。

 ヨーロッパにおけるネアンデルタール人から現生人類への「交替劇」に関する最近の論文を読むと(関連記事)、次のように考えられるかもしれません。48000年前頃のハインリッヒイベント(HE)5における寒冷化・乾燥化によりヨーロッパのネアンデルタール人は激減し、人口密度の低下により現生人類がヨーロッパへと進出する余地が生まれました。現生人類のヨーロッパへの進出は、HE5の後の47000年前頃の急激な温暖化により盛んになったものの、この時点ではヨーロッパの現生人類はネアンデルタール人にたいして決定的な技術的優位を有していなかったため、ネアンデルタール人は細々と存続していました。

 しかし、ヨーロッパにおいて現生人類という新たな競合者が出現したため、気候が温暖化していっても、ネアンデルタール人の人口は以前ほどには回復しませんでした。上述したヨーロッパの「移行期インダストリー」は、この時期の現生人類とネアンデルタール人との交流の産物という側面もあり、その担い手の多くは現生人類であるものの、一部はネアンデルタール人も担い手だった可能性があり、シャテルペロニアン(Châtelperronian)その有力候補です。やがて、南ヨーロッパにおける現生人類によるプロトオーリナシアンの開発により、現生人類はネアンデルタール人にたいして決定的な技術的優位を有することになり、それが人口を回復できていなかったネアンデルタール人にとって致命傷になり、ネアンデルタール人は絶滅しました。

 このように「交替劇」を考えることもできるかもしれませんが、プロトオーリナシアンの出現の時点ですでに、ネアンデルタール人は絶滅寸前だった可能性もあります。そうだとすると、ヨーロッパでは「移行期インダストリー」の時代においてすでに、現生人類が技術的もしくは社会構造的にネアンデルタール人にたいして何らかの競争上の優位を有しており、プロトオーリナシアンはネアンデルタール人の絶滅要因ではなかったか、その役割は小さかった、とも考えられます。

 本論文の提示した仮説については、すでに筆頭著者の門脇氏の最近の他の論文を読んでいたこともあり(関連記事)、さほど意外ではありませんでした。ただ、現生人類のアフリカから世界各地への拡散に関して、必ずしも先住人類にたいする決定的な技術的優位を伴わなかったかもしれないという可能性と、現生人類の世界各地への拡散の初期において、アフリカから離れる方向だけではなく、ヨーロッパからレヴァントというように逆方向にも大きな文化的拡散が生じたかもしれない可能性を具体的に提示したという意味でも、本論文の意義は大きいのではないか、と思います。今後、厳密な年代測定法の適用例が増えていけば、さらに具体的な現生人類拡散の様相の解明につながりそうで、大いに期待されます。


参考文献:
Kadowaki S, Omori T, and Nishiaki Y.(2015): Variability in Early Ahmarian lithic technology and its implications for the model of a Levantine origin of the Protoaurignacian. Journal of Human Evolution, 82, 67–87.
http://dx.doi.org/10.1016/j.jhevol.2015.02.017

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