『天智と天武~新説・日本書紀~』第63話「即位式」
『ビッグコミック』2015年5月10日号掲載分の感想です。前回は、蒲生野での遊猟後の宴にて、主要人物それぞれの思惑が交錯するところで終了しました。今回は、668年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)1月3日、近江大津宮で中大兄皇子の即位式が行なわれている場面から始まります。即位式には唐や新羅などからも使節が派遣されていました。
中大兄皇子は大君(天皇)への即位を宣言し、斉明帝の崩御後7年近くの称制期間を経て、ついに即位することになります(天智帝)。唐からの使者(特定のモデルがいるのではなく、モブキャラのようです)は、皇帝(高宗)からの祝いの品々を献上し、天智帝に挨拶します。礼を述べた天智帝は、そろそろ悲願の高句麗討伐が叶うのではありませんか、唐の次の標的はどこですか、と唐の使者に探りを入れます。とぼける唐の使者にたいして天智帝は、新羅を討伐した後は我が国でしょうか、それは勘弁してもらいたいものです、とさらに探りを入れます。唐の使者は如才なく、めでたい席にあさわしい話題にしましょう、と言って天智帝の長男の大友皇子が結婚したことを話題に出します。天智帝が、やや離れた場に座っている大友皇子とその后の十市皇女を紹介すると、絵のように美しい似合いの夫婦だ、と唐の使者は言い、天智帝の長期の在位を願いつつ自席に戻っていきます。
この即位式にはもちろん大海人皇子(天武帝)もおり、額田王が近づいて酒を注ごうとします。その様子を見た周囲の人々は、噂の二人だ、即位式の最中なのに天智帝もコケにされたものだが、こんな時世に贅沢をしているくらいだから、何も見えていないのだろう、と小声で話しています。このことから、天智帝の強引な治政への反感が根強くあることが窺われます。周囲の人々の反応を見た中臣鎌足(豊璋)が大海人皇子に近づくと、鎌足殿はこれから一層忙しくなるでしょうが、大君(天智帝)をよろしくお願いします、と大海人皇子は暢気に言います。鎌足は大海人皇子に、不用意な行動は大君の評判に関わるので、行動に気をつけるよう忠告します。
すると大海人皇子はとぼけた様子で、不用意とは何のことだ、と鎌足に尋ねます。鎌足は冷静でありながらも言いにくそうに、額田王との艶聞を指摘しますが、大海人皇子はわざとらしく、誰との艶聞ですか、と鎌足に尋ねます。こうして挑発しているところからは、鵲がたまに指摘する大海人皇子の性格の悪さが窺えます。鎌足はイラっとしたようで、額田王です、と大声で答えます。大海人皇子と鎌足とのやり取りに興味を持ったのか、鎌足が大声を出したので気づいたのか、天智帝がやって来て、それは真実なのか、と尋ねます。
鎌足は自分の失態に気づいたのか、やや恥じ入った様子でごまかしますが、大海人皇子は平然と、真実だったらどうしますか、と挑発するように異父兄の天智帝に尋ねます。すると天智帝は大笑し、お前は熟女が好みなのか、額田王は年増盛りだから無理もない、と大海人皇子をからかいます。大海人皇子は作中設定ではこの時点で満年齢35歳(年末には36歳)で、額田王は同年代かやや上といった感じですから、この時点では30代後半といったところでしょうか。さらに天智帝は、大海人皇子を嘲笑するような表情で、自分はもう額田王の歌の才にしか興味は持てない、と言います。
天智帝は冷たく余裕のある表情を浮かべ、自分はもう大君でお前とは立場が違うのだから、自分の機嫌ひとつでお前の首をひねり潰せるのだ、と言って笑います。それを承知で女と遊ぶなら構わないが、と言う天智帝にたいして、滅相もありません、どうかお目こぼしを、と大海人皇子は答えます。すると天智帝は、やや驚きつつも、許しを乞うのか、情けない男だ、と言って愉快そうに大笑します。その様子を、柱の物陰から額田王が見ていました。
上機嫌な天智帝は、許す代わりに余興をしろ、と大海人皇子に命じます。自分のためにこの宴を盛り上げろ、というわけです。得意の笛でもよいが、額田王じきじきに手ほどきを受けた歌のひとつでも詠め、と天智帝は大海人皇子に命じます。この様子を、鎌足は冷静に観察していました。天智帝は上機嫌に、額田王を呼ぶよう配下に命じ、祝いの歌を詠ませてようとします。すると額田王が現れ、早く舞台上で歌を詠め、と天智帝に命じられます。額田王は承知し、舞台に上がります。
舞台に上がろうとする額田王と大海人皇子の視線が交差したことに気づいた鎌足は、何か嫌な予感がする、と天智帝に伝えます。しかし天智帝は暢気で、額田王と大海人皇子に何ができるのだ、と言います。額田王は天智帝の即位を祝い、神々しい姿を見ていたら初めて会った時のときめきを思い出した、今も恋多き女の自分は冷めない情熱を歌う、と言います。額田王はすでに歌人として名声を確立しているようで、その場の人々は熟田津の歌を思い出し(第33話)、期待します。
ここで額田王が詠んだのが、有名な「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる」の歌でした。この歌は、天智帝即位後の668年5月の蒲生野での遊猟のことを詠んだとされていますが、作中では、蒲生野での遊猟はその前年の667年5月のこととされており、前回描かれました。その場の人々は、これは祝いの歌ではなく恋の歌であり、その相手は天智帝ではないのでは、などと噂しています。さすがに天智帝の顔色も変わり、余裕のある表情が消えます。鎌足もこの状況に茫然としているようです。そこへ、大海人皇子が立ち上がり、及ばずながら自分も歌を返さねばならない、と宣言したところで今回は終了です。
今回は、本作の主題とも言える天智帝と大海人皇子との心理戦が描かれ、そこに額田王が深く関わっていました。本作では額田王の扱いが本当に大きいのだな、と改めて思います。額田王についてはもう歌の才にしか興味がないと天智帝が言ったのは、おそらく本音だろうと思います。額田王の登場当初から、天智帝には額田王への執着が感じられず、大海人皇子に精神的打撃を与えられそうだということで、天智帝は額田王を大海人皇子から奪ったのでしょう。
額田王の歌に天智帝の顔色が変わったのは、額田王と大海人皇子との間にまだ愛情関係があることへの嫉妬ではなく、即位式で自分を愚弄しようとする額田王と大海人皇子の意図に気づいたからではないかな、と思います。天智帝にとってあくまでも最大の関心は、異父弟の大海人皇子とその父で大海人皇子と容貌が酷似している蘇我入鹿(あくまでも作中での設定ですが)であり、額田王への関心も執着も、大海人皇子・入鹿の父子と比較したらずっと低いということなのでしょう。
天智帝の大海人皇子への感情は複雑なものであり、大海人皇子が今回自分に従順な態度を見せると上機嫌になりましたから、大海人皇子を屈服させたい、との願望があるのは間違いないでしょう。しかし一方で、大海人皇子が本当に天智帝に従順な存在になってしまったら、それはそれで天智帝にとって物足りないのではないかな、とも思います。天智帝の崩御まで4年をきったわけで、この異父兄弟の関係がどう決着するのか、楽しみでもあり、寂しくもあります。
今回、大友皇子と十市皇女はすでに結婚していることが明かされました。十市皇女が扱いの大きい額田王の娘ということもありますし、この二人の関係はわりと丁寧に描かれそうな気がします。二人の間の息子の葛野王は、さすがに大きく取り上げられることはないかもしれませんが、その誕生は描かれることになるでしょう。人物相関図では、大友皇子と十市皇女が近くなり、次回からは夫婦関係を示す線が引かれることになりそうです。
今回の人物相関図では、唐や新羅の人物や有間皇子が退場し、新たな人物は登場しませんでした。このところずっとそうなのですが、今回も掲載順序が悪いように思われるので、打ち切りが決定して69話~70話(単行本での掲載話数からの推測)で完結させるために進行を速めたのではないか、と心配になります。唐や新羅の情勢はもう詳しく描かれることはなく、完結してしまうのでしょうか。則天武后(武則天)はキャラが立っていたので、再登場してもらいたかったのですが。人物相関図から消えた蘇我赤兄は、さすがに再登場すると思うのですが・・・。
予告は、「大胆な不倫(?)の歌に大海人皇子はどう返す!?兄弟の憎悪が炸裂、大波瀾必至の次号へ!!」となっています。次回は、大海人皇子の返歌に天智帝がどう反応するのか、たいへん楽しみです。上述したように天智帝の崩御が近づいてきましたが、その前に、天智帝・大海人皇子とともにもう一人の主人公とも言える鎌足の死が描かれることでしょう。さらにその前には、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という『藤氏家伝』の有名な逸話も描かれそうですが、それは即位式のこととして次回描かれるのでしょうか。
結局、大海人皇子と鎌足は、作中では和解しそうでしていないわけですが、大海人皇子は鎌足の娘二人(氷上娘・五百重娘)を妻としていますし、死の前日の鎌足を訪ねたのは大海人皇子ですから、上述した『藤氏家伝』の逸話とも絡めて、大海人皇子と鎌足との関係も変わってくるのではないか、とも思います。ただ、本作では間人皇女でさえ未登場なので、話を分かりやすくするために氷上娘・五百重娘も登場しないのかもしれません。
上述したように、69話~70話で完結してしまうのではないか、と最近不安なのですが、せめて80話くらいまでは続いて、鎌足と天智帝の死や壬申の乱は詳しく描いてもらいたいものです。できれば、これまで2回描かれた奈良時代初期の『日本書紀』編纂の場面だけではなく、薬師寺創建や草壁皇子と大津皇子との関係や藤原不比等(史)の台頭など、天武朝や持統朝や文武朝の様子も「未来編」として時々挿入してもらいたいものですが、さすがにそれは無理でしょうか。せめて、作中では上宮王家はどのような設定になっているのか、法隆寺は誰が創建したのか、本来は蘇我入鹿のことを指していた聖徳太子がなぜ厩戸皇子のこととされたのか、といった謎は解決してもらいたいものですが。
中大兄皇子は大君(天皇)への即位を宣言し、斉明帝の崩御後7年近くの称制期間を経て、ついに即位することになります(天智帝)。唐からの使者(特定のモデルがいるのではなく、モブキャラのようです)は、皇帝(高宗)からの祝いの品々を献上し、天智帝に挨拶します。礼を述べた天智帝は、そろそろ悲願の高句麗討伐が叶うのではありませんか、唐の次の標的はどこですか、と唐の使者に探りを入れます。とぼける唐の使者にたいして天智帝は、新羅を討伐した後は我が国でしょうか、それは勘弁してもらいたいものです、とさらに探りを入れます。唐の使者は如才なく、めでたい席にあさわしい話題にしましょう、と言って天智帝の長男の大友皇子が結婚したことを話題に出します。天智帝が、やや離れた場に座っている大友皇子とその后の十市皇女を紹介すると、絵のように美しい似合いの夫婦だ、と唐の使者は言い、天智帝の長期の在位を願いつつ自席に戻っていきます。
この即位式にはもちろん大海人皇子(天武帝)もおり、額田王が近づいて酒を注ごうとします。その様子を見た周囲の人々は、噂の二人だ、即位式の最中なのに天智帝もコケにされたものだが、こんな時世に贅沢をしているくらいだから、何も見えていないのだろう、と小声で話しています。このことから、天智帝の強引な治政への反感が根強くあることが窺われます。周囲の人々の反応を見た中臣鎌足(豊璋)が大海人皇子に近づくと、鎌足殿はこれから一層忙しくなるでしょうが、大君(天智帝)をよろしくお願いします、と大海人皇子は暢気に言います。鎌足は大海人皇子に、不用意な行動は大君の評判に関わるので、行動に気をつけるよう忠告します。
すると大海人皇子はとぼけた様子で、不用意とは何のことだ、と鎌足に尋ねます。鎌足は冷静でありながらも言いにくそうに、額田王との艶聞を指摘しますが、大海人皇子はわざとらしく、誰との艶聞ですか、と鎌足に尋ねます。こうして挑発しているところからは、鵲がたまに指摘する大海人皇子の性格の悪さが窺えます。鎌足はイラっとしたようで、額田王です、と大声で答えます。大海人皇子と鎌足とのやり取りに興味を持ったのか、鎌足が大声を出したので気づいたのか、天智帝がやって来て、それは真実なのか、と尋ねます。
鎌足は自分の失態に気づいたのか、やや恥じ入った様子でごまかしますが、大海人皇子は平然と、真実だったらどうしますか、と挑発するように異父兄の天智帝に尋ねます。すると天智帝は大笑し、お前は熟女が好みなのか、額田王は年増盛りだから無理もない、と大海人皇子をからかいます。大海人皇子は作中設定ではこの時点で満年齢35歳(年末には36歳)で、額田王は同年代かやや上といった感じですから、この時点では30代後半といったところでしょうか。さらに天智帝は、大海人皇子を嘲笑するような表情で、自分はもう額田王の歌の才にしか興味は持てない、と言います。
天智帝は冷たく余裕のある表情を浮かべ、自分はもう大君でお前とは立場が違うのだから、自分の機嫌ひとつでお前の首をひねり潰せるのだ、と言って笑います。それを承知で女と遊ぶなら構わないが、と言う天智帝にたいして、滅相もありません、どうかお目こぼしを、と大海人皇子は答えます。すると天智帝は、やや驚きつつも、許しを乞うのか、情けない男だ、と言って愉快そうに大笑します。その様子を、柱の物陰から額田王が見ていました。
上機嫌な天智帝は、許す代わりに余興をしろ、と大海人皇子に命じます。自分のためにこの宴を盛り上げろ、というわけです。得意の笛でもよいが、額田王じきじきに手ほどきを受けた歌のひとつでも詠め、と天智帝は大海人皇子に命じます。この様子を、鎌足は冷静に観察していました。天智帝は上機嫌に、額田王を呼ぶよう配下に命じ、祝いの歌を詠ませてようとします。すると額田王が現れ、早く舞台上で歌を詠め、と天智帝に命じられます。額田王は承知し、舞台に上がります。
舞台に上がろうとする額田王と大海人皇子の視線が交差したことに気づいた鎌足は、何か嫌な予感がする、と天智帝に伝えます。しかし天智帝は暢気で、額田王と大海人皇子に何ができるのだ、と言います。額田王は天智帝の即位を祝い、神々しい姿を見ていたら初めて会った時のときめきを思い出した、今も恋多き女の自分は冷めない情熱を歌う、と言います。額田王はすでに歌人として名声を確立しているようで、その場の人々は熟田津の歌を思い出し(第33話)、期待します。
ここで額田王が詠んだのが、有名な「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる」の歌でした。この歌は、天智帝即位後の668年5月の蒲生野での遊猟のことを詠んだとされていますが、作中では、蒲生野での遊猟はその前年の667年5月のこととされており、前回描かれました。その場の人々は、これは祝いの歌ではなく恋の歌であり、その相手は天智帝ではないのでは、などと噂しています。さすがに天智帝の顔色も変わり、余裕のある表情が消えます。鎌足もこの状況に茫然としているようです。そこへ、大海人皇子が立ち上がり、及ばずながら自分も歌を返さねばならない、と宣言したところで今回は終了です。
今回は、本作の主題とも言える天智帝と大海人皇子との心理戦が描かれ、そこに額田王が深く関わっていました。本作では額田王の扱いが本当に大きいのだな、と改めて思います。額田王についてはもう歌の才にしか興味がないと天智帝が言ったのは、おそらく本音だろうと思います。額田王の登場当初から、天智帝には額田王への執着が感じられず、大海人皇子に精神的打撃を与えられそうだということで、天智帝は額田王を大海人皇子から奪ったのでしょう。
額田王の歌に天智帝の顔色が変わったのは、額田王と大海人皇子との間にまだ愛情関係があることへの嫉妬ではなく、即位式で自分を愚弄しようとする額田王と大海人皇子の意図に気づいたからではないかな、と思います。天智帝にとってあくまでも最大の関心は、異父弟の大海人皇子とその父で大海人皇子と容貌が酷似している蘇我入鹿(あくまでも作中での設定ですが)であり、額田王への関心も執着も、大海人皇子・入鹿の父子と比較したらずっと低いということなのでしょう。
天智帝の大海人皇子への感情は複雑なものであり、大海人皇子が今回自分に従順な態度を見せると上機嫌になりましたから、大海人皇子を屈服させたい、との願望があるのは間違いないでしょう。しかし一方で、大海人皇子が本当に天智帝に従順な存在になってしまったら、それはそれで天智帝にとって物足りないのではないかな、とも思います。天智帝の崩御まで4年をきったわけで、この異父兄弟の関係がどう決着するのか、楽しみでもあり、寂しくもあります。
今回、大友皇子と十市皇女はすでに結婚していることが明かされました。十市皇女が扱いの大きい額田王の娘ということもありますし、この二人の関係はわりと丁寧に描かれそうな気がします。二人の間の息子の葛野王は、さすがに大きく取り上げられることはないかもしれませんが、その誕生は描かれることになるでしょう。人物相関図では、大友皇子と十市皇女が近くなり、次回からは夫婦関係を示す線が引かれることになりそうです。
今回の人物相関図では、唐や新羅の人物や有間皇子が退場し、新たな人物は登場しませんでした。このところずっとそうなのですが、今回も掲載順序が悪いように思われるので、打ち切りが決定して69話~70話(単行本での掲載話数からの推測)で完結させるために進行を速めたのではないか、と心配になります。唐や新羅の情勢はもう詳しく描かれることはなく、完結してしまうのでしょうか。則天武后(武則天)はキャラが立っていたので、再登場してもらいたかったのですが。人物相関図から消えた蘇我赤兄は、さすがに再登場すると思うのですが・・・。
予告は、「大胆な不倫(?)の歌に大海人皇子はどう返す!?兄弟の憎悪が炸裂、大波瀾必至の次号へ!!」となっています。次回は、大海人皇子の返歌に天智帝がどう反応するのか、たいへん楽しみです。上述したように天智帝の崩御が近づいてきましたが、その前に、天智帝・大海人皇子とともにもう一人の主人公とも言える鎌足の死が描かれることでしょう。さらにその前には、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という『藤氏家伝』の有名な逸話も描かれそうですが、それは即位式のこととして次回描かれるのでしょうか。
結局、大海人皇子と鎌足は、作中では和解しそうでしていないわけですが、大海人皇子は鎌足の娘二人(氷上娘・五百重娘)を妻としていますし、死の前日の鎌足を訪ねたのは大海人皇子ですから、上述した『藤氏家伝』の逸話とも絡めて、大海人皇子と鎌足との関係も変わってくるのではないか、とも思います。ただ、本作では間人皇女でさえ未登場なので、話を分かりやすくするために氷上娘・五百重娘も登場しないのかもしれません。
上述したように、69話~70話で完結してしまうのではないか、と最近不安なのですが、せめて80話くらいまでは続いて、鎌足と天智帝の死や壬申の乱は詳しく描いてもらいたいものです。できれば、これまで2回描かれた奈良時代初期の『日本書紀』編纂の場面だけではなく、薬師寺創建や草壁皇子と大津皇子との関係や藤原不比等(史)の台頭など、天武朝や持統朝や文武朝の様子も「未来編」として時々挿入してもらいたいものですが、さすがにそれは無理でしょうか。せめて、作中では上宮王家はどのような設定になっているのか、法隆寺は誰が創建したのか、本来は蘇我入鹿のことを指していた聖徳太子がなぜ厩戸皇子のこととされたのか、といった謎は解決してもらいたいものですが。
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