『岩波講座 日本歴史  第9巻 中世4』

 本書は『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店)の第9巻で、2015年2月に刊行されました。すでに『第6巻 中世1』(関連記事)・『第1巻 原始・古代1』(関連記事)・『第2巻 古代2』(関連記事)・『第10巻 近世1』(関連記事)をこのブログで取り上げました。各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようとすると、私の見識・能力ではかなり時間を要しそうなので、これまでと同じく、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。



●山田邦明「戦国の争乱」(P1~36)
 本論文は、明応の政変から足利義昭の京都よりの追放・三好本宗家の滅亡までの、およそ80年間の畿内情勢を中心に取り上げています。細川政元が妻帯しなかったことについて、実子では家の勢力拡大がさほど望めない一方で、実子がいなければ養子縁組によりさまざまな勢力との関係締結が可能になる、との見解は興味深いと思います。将軍・細川京兆家・伊勢氏・三好氏など、この時期の中央権力が並立していることは室町幕府の限界の表れではあるものの、それによって地域社会が活性化したという側面もあり、京都が政治の中心として卓越した地位を誇った時代は終わって、周辺地域が経済的にも台頭し、政治を動かすようになった、と本論文はまとめています。


●長谷川博史「国人一揆と大名家中」(P37~70)
 本論文は、国人一揆から大名家中の成立過程を、この問題に関して研究史で重要な役割を担ってきた毛利氏の事例を中心に検証しています。本論文の姿勢は慎重で、国人一揆から大名権力への内在的発展、といった単調な発展論に疑問を呈しています。本論文では、毛利氏の事例についても、普遍的というよりは個別の局面に対応したのではないか、との見解が提示されています。そのうえで本論文は、戦国期の時代像を全体的に把握し、政争の常態化・広域化の要因・結果に深く関わっていると思われる諸事象を検証していくことが必要だ、と提言しています。


●平井上総「検地と知行制」(P71~102)
 本論文は、中世~豊臣政権期の検地の方法と原理、さらにはそれらと知行制との関係を検証しています。中世~近世への移行期における土地支配の様相を取り上げているわけですが、戦国時代後期~豊臣政権期を中心に、中世前期も対象としているのが特徴です。本論文は、豊臣政権期における検地での飛躍を認めつつも、中世~近世への検地および知行制の連続性を指摘しています。また本論文は、豊臣政権期の石高制は、建前としての統一的知行制とは程遠かった、と指摘しています。貫高制~石高制の移行については、明から悪銭が流入し、その後に銭の流入そのものが途絶えるという、貨幣価値の不安定な状況のなかで、米が安定した取引手段となっていたことが、要因として挙げられています。


●市村高男「地域的統一権力の構想」(P103~138)
 本論文は、戦国期に多様な地域権力が分立し、地域の自立・個性が顕在化したと把握し、集権と分権の視点から戦国期の権力構造を考察しています。戦国の騒乱から織豊政権を経て徳川政権(江戸幕府)へといたる単線的な統一と発展史観を前提とせず、各地域の違いを重視しつつ、共通性も検証していく、というのが本論文の基本的な姿勢です。そうした地域権力の一つとして台頭した織田権力は、織田信長の晩年には統一政権へと転身していった、と本論文は評価しています。本論文は、戦国大名と近世との連続性を重視する見解が主流となっているなか、織田権力と戦国大名との等質性が強調されている、と指摘しつつも、戦国大名は幅広い概念である、と注意を喚起してもいます。


●湯浅治久「惣村と土豪」(P139~174)
 本論文は、中世後期における村落(惣村)の様相を、地域社会に密着した有力層たる土豪の役割に着目して、考古学的成果も参照しつつ検証しています。そうした惣村には自立的傾向が認められるものの、地域によりその性格には違いも見られます。そうした惣村の成立の前提となったのは集村化で、惣村の成立・維持には土豪が重要な役割を果たした、というのが本論文の見解です。本論文は、中世後期に成立していった惣村が、変容しつつも近世へと連続していったことを指摘していますが、一方で、惣村としての「自力」を確保できず、衰退したり他村に併呑されていったりする惣村もあり、消滅の危機にさらされていた多くの「非力の村」が存在していたことを忘れてはならない、と注意を喚起しています。


●仁木宏「宗教一揆」(P175~210)
 本論文は、一向一揆・法華一揆・キリシタン一揆という戦国時代の宗教一揆の要因をその社会構造から検証しています。こうした宗教一揆を政治史の文脈で検証する研究が近年では目立ち、それは大きな成果を挙げているものの、宗教一揆の背景となる社会構造や、宗教一揆と武家権力との対峙への目配りが疎かになってしまったのではないか、との問題意識が本論文にはあるようです。

 本論文は、村の経済・政治的力量の増大や流通の活性化などの戦国時代における社会変動が宗教一揆に結びつき、そこには宗教一揆と武家権力との対立的側面があった、との見解を提示しています。ただ一方で、たとえば「国家体制」に組み込まれた本願寺宗主は武家と妥協的だった、とも指摘しています。さらに本論文は、戦国時代における宗教一揆の在り様とその「終わり方」が、現代日本社会における宗教の在り様にも影響を及ぼしているのではないか、との見通しを提示しています。


●清水克行「戦国の法と習俗」(P211~242)
 本論文は、戦国時代の法意識について、呪術観念の希薄化、折中・中分の優越、職権主義の萌芽という三つの傾向に着目しています。呪術観念の希薄化については、大名権力側からのみではなく、全社会的な要請として展開した、と指摘されています。折中・中分の優越は、他者との関係のなかで双方の特質の均衡を図らねばならない、という強烈な意識に基づくもので、自身が受けた損害と相手の損害が同等になるまで、実力行使が続けられました。その延長線上に、係争地収公の原則が確立していきました。

 職権主義の萌芽は、法制度の受益者が奔走することでのみ発動されていた公権力の警察裁判権(当事者主義)からの変化となります。しかし、大名権力の側に職権主義的な法体制構築への志向があったことは窺えるものの、当事者主義からの転換には不充分な点が残りました。本論文はその要因として、対外戦争が恒常化し、大名も居城から離れることが多かったため、安定した職権主義的な法体制が構築されなかったことを挙げています。

 さらに本論文は、戦国時代の大名権力にとって、明確な分国法と法制度の整備よりも、軍事的勝利を続ける方が、その存続にとって決定的に重要だったことを指摘しています。じっさい、浩瀚な分国法を定め、領国内に精緻な法制度を整備した大内氏や今川氏は大名権力としては滅びています。さらに本論文は、結局のところ当事者主義的な姿勢を完全には脱却できなかった大名権力の側の法は、村法との棲み分けを認めざるを得なくなり、独自の文書行政体系が成立していった、と近世社会への見通しも提示しています。


●田村憲美「自然環境と中世社会」(P243~278)
 本論文は、中世の長期的な気候変動とそれが社会に及ぼした影響を中心に研究史を概観し、その到達点・問題点を整理しています。当然のことながら、この問題では自然科学の研究成果を取り入れることが必須となります。ただ、じゅうらいの気候復元は空間・時間的な分解能が低すぎたため、歴史学で用いられる史料と積極的に対応させることは困難だったので、充分な成果は得られていない、と本論文は指摘します。しかし、近年では高分解能の気候復元研究が進展したので、歴史学の側が従来よりもずっと気候復元データを活用できるのではないか、と本論文は今後の見通しを提示しています。


●桜井英治「中世の技術と労働」(P279~314)
 本論文は、この20年ほどの中世史研究においては、対外関係史や室町幕府研究などでめざましい進展が見られたものの、技術史や産業史では停滞が否めない、と指摘します。しかし本論文は、最近になってそうした停滞状況も多少変化してきたようだ、と指摘し、中世における技術と労働について、研究史と現時点での到達点を整理しています。

 本論文の提示する中世技術史像は、近世へと続くような革新的要素も少なからず見られるものの、農業分野などでの停滞も目立つ、というものです。とくに中世の農業に関しては、古代における到達点の高さと中世(とくに前期)の停滞という把握が現在では主流的見解になっている、とのことです。これと関連して、中世の農業における革新とされてきた二毛作にも、じゅうらい主張されていたような画期的な意味合いを見出せない、という見解(凶作への対応として始まり、表作である稲の減収を慢性化させた)が提示されていることが取り上げられています。

 中世の技術革新として有名なのは、戦国時代の銀の増産でしょう。これは、16世紀前半の灰吹法の導入によるものでした。採掘技術においても、じゅうらいは露天掘りだったのにたいして坑道掘りが始まり、灰吹法とともに銀の増産を可能としました。さらに中世には、銀だけではなく銅の増産も始まった、との見解が取り上げられています。中世中期に新たな銅の精錬技術がもたらされ、じゅうらいは地表近くの酸化銅しか利用できなかったのに、硫化銅も新たに利用できるようになった、とのことです。

 中世の労働には暢気なところがあった、とする本論文は、その背景として労働力の商品化が進んでいなかったことを指摘しています。それと関連して本論文は、古代には知られていた時間給の観念が中世になって消えてしまい、中世後期になって復活することを指摘しています。本論文は、中世から近世への移行期は時間観念のうえでも画期であり、労働時間や時間給の観念の復活の背景にはそうした変化があったのではないか、と推測しています。

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