現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性

 レヴァントにおける中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行、およびそれとアラビア半島との関連についての研究(Rose, and Marks., 2015)が報道されました。この研究については、当ブログのコメントにて以前ご教示いただいていたのですが、私の力不足により、なかなか見つけられませんでした。報道されてやっと見つけられたのですが、まだ要約しか読んでいません。この記事では、本論文の要約と報道から、備忘録的に簡潔に感想を述べておきます。

 本論文は、レヴァントにおいて上部旧石器時代開始の指標もしくは中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期的インダストリーとされる、エミラン(Emiran)の起源を検証しています。最古のエミランはレヴァント南部において確認されています。エミランの特徴は角錐状石核から剥離される遠端部尖頭形の石刃ですが、後の上部旧石器時代の石刃と比較すると、打面が大きくてしばしば打面調整される点で異なっており、中部旧石器時代のルヴァロワ石器との類似が指摘されています(関連記事)。

 本論文は、レヴァントの近隣地域であるアフリカ北東部やアラビア半島の石器群を比較対象として、エミランが地域的な発展だったのか、文化的・人口的置換の結果だったのか、在地と外来の石器伝統の融合であったのか、検証しています。本論文はその結果、アフリカ北東部ナイル渓谷のヌビア複合前期(the Early Nubian Complex)の担い手が、13万~10万年前頃にアラビア半島へと進出してその技術を発達させるとともに、75000~50000年前頃にアラビア半島北部へと進出し、ヌビア複合由来のインダストリーがレヴァント南部のムステリアンと融合することにより、エミランが形成された、との見解を提示しています。

 上記報道によると、ヌビア複合由来のアラビア半島のインダストリーとして、11万~5万年前頃のオマーンのドファール地方のドファールヌビアン(the Dhofar Nubian)とオマーンのナジュド高原のムダイヤン(the Mudayyan)が挙げられています。ドファールヌビアンからムダイヤンにいたるまで、尖頭器は時間と共に小さく細長くなり、エミランにより近い形状になっていった、と上記報道では指摘されています。これは、気候が乾燥化していって食料の調達が難しくなるにつれ、俊敏な小動物を捕獲するためにより先の尖った道具を使う必要があったからだろう、と推測されています。

 75000年前頃にアラビア半島の気候が乾燥化した一方で、レヴァントでは6万年前頃より気候が湿潤化し、人間も含めて動物がアラビア半島を北上したのではないか、と推測されています。上記報道では、ここで1個の石核から複数の石刃を連続して剥離する画期的な石器製作技術が開発され、それがエミランへと続いていったのではないか、との見解が提示されています。アラビア半島の人間集団が北上してレヴァント南部との境界に進出し、レヴァントのムステリアンの担い手と接触して技術的融合が生じたことで、エミランが成立したのではないか、というわけです。

 本論文の著者二人は、ヌビア複合由来のインダストリーの担い手である現生人類(Homo sapiens)が、気候の乾燥化によりアラビア半島を北上してレヴァント南部へと進出し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のムステリアンに影響を受けた可能性を想定しています。また上記報道では、55000年前頃のレヴァントに現生人類が存在したことを示し、この時期にネアンデルタール人と現生人類がレヴァントで共存していたことを明らかにした最近の研究(関連記事)にも言及し、本論文の著者二人の見解との符合を示唆しています。

 しかし上記報道では、エミランにネアンデルタール人の影響を認めない研究者の見解も取り上げています。じっさい、レヴァントにおける中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行期の人骨は少なく、各インダストリーとその担い手との関係については、まだ不明瞭なところが多々ある、と考えるのが妥当なところでしょう。しかし、エミランの起源として、アラビア半島へと進出したヌビア複合由来のインダストリーを想定する見解はたいへん興味深いと思います。

 ただ、そのインダストリーとレヴァントのムステリアンの融合によりエミランが形成されたのだとしても、レヴァントのムステリアンの担い手にはネアンデルタール人だけではなく現生人類もいたことを考慮しなければならないでしょう。現時点では、石器製作技術に関して、エミランはネアンデルタール人から現生人類への文化的伝播の事例の確たる根拠にはならないだろう、と思います。これに限らず、ネアンデルタール人から現生人類への文化伝播に関してはまだ確たる証拠のない事例がほとんどだと思いますが、骨角器ではその証拠となるかもしれない事例が報告されています(関連記事)。

 10万~5万年前頃のレヴァントは、中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行と、現生人類の出アフリカという重要な問題を検証するためにきわめて重要な地域と言えるでしょうが、現時点ではこの時期のレヴァントの人骨は少ないので、断定的なことはまだほとんど言えないだろう、と思います。ただ、今後もこの時期の新たな人骨の発見例が劇的に増加することはないでしょうから、石器群の分類と年代の確定が大きな役割を担うことになるでしょう。

 また、15万~5万年前頃にかけての初期現生人類(かもしれない人間集団)のアラビア半島への進出に関しては、異なるインダストリーを携えた複数の系統の現生人類集団が担い手だった可能性(関連記事)も考慮しなければならないでしょう。遺伝学的には、現生人類の出アフリカは1回のみだった、との見解が有力視されていますが、現生人類の出アフリカの様相はかなり複雑だった可能性が高いのではないか、と思います。もっとも、この場合の現生人類出アフリカ1回説とは、「成功」した、つまり非アフリカ系現代人の主要な遺伝子源となっている現生人類集団の出アフリカということでしょうから、複数回説と矛盾するものではないと思いますが。


参考文献:
Rose IR, and Marks AE.(2014): “Out of Arabia” and the Middle-Upper Palaeolithic transition in the southern Levant. Quartär, 61, 49–85.
http://dx.doi.org/10.7485/QU61_03

この記事へのコメント

kurozee
2015年03月03日 15:04
本論文を読んだ印象として、レヴァントのムステリアンには現生人類もかかわっていたと感じています(確実な証拠はないですが)。また、ネアンデルタールと現生人類との間の混血で生まれた子どもが現生人類のなかで育てられたということは、互いに異族ではあっても当時はそれほどかけ離れた存在ではなかったのではないかと想像します。また、石器制作技術にしても、実はそれほど大差がなかった可能性も考えられます。
この辺りのことを考えるためにも、門脇誠二氏が「交代劇」で公表されたアフリカ~レバントの文化編年表に、ぜひともアラビア半島を加えた研究をしていただきたいというのが私の今の希望です。これにより出アフリカの複雑な様相がもうすこし見えてくるように思います。そのあとようやく、出レヴァント、出アラビアの新しいシナリオ探求が課題になるでしょう。
2015年03月03日 21:34
西アジアのネアンデルタール人は西ヨーロッパの「古典的」ネアンデルタール人ほどには派生的特徴を有していなかった、ということは以前から言われていますね。西アジアでは、ネアンデルタール人と現生人類との違いがさほど大きくなかったのかもしれません。西アジアにおけるネアンデルタール人と初期現生人類という二分法的な分類を見直そう、という動きもありますし。

中部旧石器時代後期~上部旧石器時代にかけてのアラビア半島の様相はかなり複雑なようですが、確かに、この状況がある程度整理されたら、出アフリカの複雑な様相も次第に見えてくるのではないか、と期待されます。

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