落合淳思『殷 中国史最古の王朝』
中公新書の一冊として、中央公論新社から2015年1月に刊行されました。本書は、『史記』などの後世の文献ではなく、同時代の甲骨文字を重視して殷王朝の実態を解明していこうとします。『史記』などの後世の文献による物語的な殷王朝史・殷周交代史でまず歴史に馴染んだ私からすると、本書の叙述にはどこかで違和感が残ります。とはいえ、成人以降に何冊か一般向け概説書を読んでいたので、受け入れられないというほどの違和感ではありませんし、専門家による新書が本書のような方針で執筆されるのは、基本的には歓迎すべきだろう、と思います。
門外漢の私には、本書で提示された甲骨文字の解釈や暦の復元やそれに基づく殷王朝史がどこまで妥当なのか、的確な判断はできませんが、大きく外しているようなことはないだろう、というのが第一印象です。本書によると、殷は首都の商(大邑商)付近を直接統治し、遠方は「侯」などと称される地方領主を通じて間接的に統治して、戦争においては敵対勢力に近い領主しか動員しない(できない)という、緩やかな(脆弱な)支配体制の王朝でした。また、周代とは異なり、殷王と地方領主との血縁関係は見られないそうです。
そうした殷王朝は、中期の混乱と再興、その後の安定を経て、次第に反乱に苦しむようになり、ついには滅亡します。本書は、強い敵対勢力が出現するという新たな状況下で、殷は王権や軍事力の強化で対処しようとしたところ、一旦は成功するものの、結局は集権化に反発する内部勢力からの反乱により滅亡したのではないか、と推測しています。本書は殷の滅亡を「合理性の衝突」と把握しています。地方領主の権限が大きく、分権的な「合理的」支配体制だった殷が、新たな状況に対応して急速な集権化という別の「合理性」を選択したところ、旧来の「合理性」と衝突してしまったのではないか、というわけです。
本書はこの殷周の交代を、分権的で不安定な支配体制だった初期の王朝から、安定した貴族政社会へと転換していく過程と把握しています。さらに本書は、春秋時代・戦国時代に貴族層が衰退し、成文法・官僚制などの成立により君主独裁制が進展していった、との見通しを提示しています。なお、副題にもあるように、殷が「中国史最古の王朝」とされていますから、著者は「夏王朝の実在」が「証明された」とする見解に批判的です。この点では、著者の以前の著書『古代中国の虚像と実像』(関連記事)と変わらないようです。
門外漢の私には、本書で提示された甲骨文字の解釈や暦の復元やそれに基づく殷王朝史がどこまで妥当なのか、的確な判断はできませんが、大きく外しているようなことはないだろう、というのが第一印象です。本書によると、殷は首都の商(大邑商)付近を直接統治し、遠方は「侯」などと称される地方領主を通じて間接的に統治して、戦争においては敵対勢力に近い領主しか動員しない(できない)という、緩やかな(脆弱な)支配体制の王朝でした。また、周代とは異なり、殷王と地方領主との血縁関係は見られないそうです。
そうした殷王朝は、中期の混乱と再興、その後の安定を経て、次第に反乱に苦しむようになり、ついには滅亡します。本書は、強い敵対勢力が出現するという新たな状況下で、殷は王権や軍事力の強化で対処しようとしたところ、一旦は成功するものの、結局は集権化に反発する内部勢力からの反乱により滅亡したのではないか、と推測しています。本書は殷の滅亡を「合理性の衝突」と把握しています。地方領主の権限が大きく、分権的な「合理的」支配体制だった殷が、新たな状況に対応して急速な集権化という別の「合理性」を選択したところ、旧来の「合理性」と衝突してしまったのではないか、というわけです。
本書はこの殷周の交代を、分権的で不安定な支配体制だった初期の王朝から、安定した貴族政社会へと転換していく過程と把握しています。さらに本書は、春秋時代・戦国時代に貴族層が衰退し、成文法・官僚制などの成立により君主独裁制が進展していった、との見通しを提示しています。なお、副題にもあるように、殷が「中国史最古の王朝」とされていますから、著者は「夏王朝の実在」が「証明された」とする見解に批判的です。この点では、著者の以前の著書『古代中国の虚像と実像』(関連記事)と変わらないようです。
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