勝浦令子『孝謙・称徳天皇 出家しても政を行ふに豈障らず』
ミネルヴァ日本評伝選の一冊として、ミネルヴァ書房より2014年10月に刊行されました。本書は、孝謙(称徳)天皇の誕生前の政治状況・皇位継承問題にも触れ、孝謙天皇がいかなる政治的立場で即位し、政治を運営していったのか、解説しています。即位前にもそれなりに分量が割かれており、皇太子(現時点では日本史上唯一の女性皇太子です)となった経緯や、どのような環境で育ち、どのような価値観を形成していったのか、解説されています。
孝謙の立太子と即位が、当時の支配層にとって「最善の道」ではなかったことは、よく知られていると思います。幼児の時点で死んだ同父同母弟が無事成長して男子を儲け、その後継者が即位できそうな年齢まで健在だったとしたら、孝謙の立太子も即位もあり得なかったことでしょう。本書を読んでも、皇太子時代から即位した後まで孝謙がその正当性を疑われており、孝謙の両親(聖武天皇と光明皇后)や大伯母の元正上皇らが懸念していたことが窺えます。当然、孝謙も皇太子時代からそのことを強く意識していたことでしょう。
両親の影響もあるのでしょうが、孝謙が仏教に傾倒してそこに正当性を求め、「崇仏天皇」として振る舞ったことも、そのためなのでしょう。ただ本書は、孝謙が仏教に傾倒しつつも、改元の事例などから、神祇への尊重・配慮を見せていた、と指摘しています。また本書は、孝謙は神祇だけではなく儒教にも配慮していた、と指摘しています。本書は孝謙の治世を「仏・神、儒、三教の政治」と表現しています。
本書の宇佐八幡宮神託事件に関する見解は、孝謙は主体的に道鏡を即位させようとしたものの、根強い反対を理解して断念した、というものです。孝謙は本気で道鏡を即位させたかった、というわけですが、本書のこの見解の前提となるのは、孝謙は重祚した後には、両親から叩き込まれた草壁皇統意識より脱却していたのではないか、との認識です。それ故に、生涯ずっと悩まされてきた皇位継承問題の解決策として、「皇統」に拘らず道鏡を即位させる決心をしたのではないか、というわけです。
本書はこの認識から、孝謙が草壁皇統への執着により白壁王(光仁天皇)を後継者とした(白壁王の息子で後に皇太子とされた他戸王の母方祖父が聖武天皇)、とする見解を否定し、吉備真備が推した文室浄三が孝謙の意中の後継者だったのだろう、との見解を提示しています。つまり、藤原百川・藤原永手らが孝謙の「遺宣」を捏造したのだろう、というわけです。おそらくこちらの方が通説的解釈なのだろう、と思います。
本書のこうした見解は、以前このブログでも取り上げた、同じような時代・主題を扱った瀧浪貞子『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』(関連記事)と大きく異なります。本文中ではとくに明示されていませんが、巻末の参考文献一覧に挙げられている『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』を意識した叙述だな、と思うところもありました。全体的には、本書の方が「穏当な」見解になっているように思います。
この他には、孝謙は母の光明子の教導なしでは天皇たり得なかったものの、光明子の方も、聖武没後には天皇の母という立場なしには政治的手腕を発揮できなかったとして、両者の共同行動を指摘した見解が興味深いものでした。本書は、孝謙の評伝として堅実な内容になっていると思います。ミネルヴァ日本評伝選を読んだのはこれが初めてなのですが、なかなかよかったので、他にも読んでいこう、と考えています。
孝謙の立太子と即位が、当時の支配層にとって「最善の道」ではなかったことは、よく知られていると思います。幼児の時点で死んだ同父同母弟が無事成長して男子を儲け、その後継者が即位できそうな年齢まで健在だったとしたら、孝謙の立太子も即位もあり得なかったことでしょう。本書を読んでも、皇太子時代から即位した後まで孝謙がその正当性を疑われており、孝謙の両親(聖武天皇と光明皇后)や大伯母の元正上皇らが懸念していたことが窺えます。当然、孝謙も皇太子時代からそのことを強く意識していたことでしょう。
両親の影響もあるのでしょうが、孝謙が仏教に傾倒してそこに正当性を求め、「崇仏天皇」として振る舞ったことも、そのためなのでしょう。ただ本書は、孝謙が仏教に傾倒しつつも、改元の事例などから、神祇への尊重・配慮を見せていた、と指摘しています。また本書は、孝謙は神祇だけではなく儒教にも配慮していた、と指摘しています。本書は孝謙の治世を「仏・神、儒、三教の政治」と表現しています。
本書の宇佐八幡宮神託事件に関する見解は、孝謙は主体的に道鏡を即位させようとしたものの、根強い反対を理解して断念した、というものです。孝謙は本気で道鏡を即位させたかった、というわけですが、本書のこの見解の前提となるのは、孝謙は重祚した後には、両親から叩き込まれた草壁皇統意識より脱却していたのではないか、との認識です。それ故に、生涯ずっと悩まされてきた皇位継承問題の解決策として、「皇統」に拘らず道鏡を即位させる決心をしたのではないか、というわけです。
本書はこの認識から、孝謙が草壁皇統への執着により白壁王(光仁天皇)を後継者とした(白壁王の息子で後に皇太子とされた他戸王の母方祖父が聖武天皇)、とする見解を否定し、吉備真備が推した文室浄三が孝謙の意中の後継者だったのだろう、との見解を提示しています。つまり、藤原百川・藤原永手らが孝謙の「遺宣」を捏造したのだろう、というわけです。おそらくこちらの方が通説的解釈なのだろう、と思います。
本書のこうした見解は、以前このブログでも取り上げた、同じような時代・主題を扱った瀧浪貞子『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』(関連記事)と大きく異なります。本文中ではとくに明示されていませんが、巻末の参考文献一覧に挙げられている『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』を意識した叙述だな、と思うところもありました。全体的には、本書の方が「穏当な」見解になっているように思います。
この他には、孝謙は母の光明子の教導なしでは天皇たり得なかったものの、光明子の方も、聖武没後には天皇の母という立場なしには政治的手腕を発揮できなかったとして、両者の共同行動を指摘した見解が興味深いものでした。本書は、孝謙の評伝として堅実な内容になっていると思います。ミネルヴァ日本評伝選を読んだのはこれが初めてなのですが、なかなかよかったので、他にも読んでいこう、と考えています。
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