Steven Pinker『暴力の人類史』上・下

 スティーブン=ピンカー(Steven Pinker)著、幾島幸子・塩原通緒訳で、青土社より2015年2月に刊行されました。原書の刊行は2011年です。本書は、広範な分野の研究成果と膨大なデータを参照し、人類史において暴力が減少する傾向にあることを指摘して、その傾向をもたらした要因について検証しています。大部の本書で提示された論点は多岐に亘り、その洞察は深いと言えるでしょう。著者の学識と努力には敬意を払わねばならず、人類の暴力について考察するにさいして、本書は長きにわたって必読文献となり、後には古典となることでしょう。

 それだけに、私の見識・能力では的確にまとめることは難しく、参考になる見解を備忘録的に述べていくとすると、どれだけの字数と時間が必要になるのか、考えると恐ろしくなるくらいです。そこで、本書の「はじめに」で述べられている本書の概要を簡潔にまとめて、若干の感想を付け加える程度にしておきます。本書は、今後たびたび再読していかねばならないでしょうし、このブログに掲載する記事を執筆するさいに、参照することも多々あるでしょう。

 本書は、広範な分野の研究成果と膨大なデータを参照し、長い歳月の間に人類の暴力は減少していき、現在人類は地上に出現して以来もっとも平和な時代に暮らしているかもしれない、と指摘します。これは、現在の少なからぬ人々にとって意外な見解かもしれません。キリスト教や仏教がそうですが、人間は原初・太古と比較して堕落している、との観念は人間社会では珍しくないようです。また、近代になって人間社会の暴力性が増大し、むしろ「野蛮な」時代を迎えたのだ、とする近代批判論も根強いものがあるようです。

 そうした文脈においては、ナチスも近代の産物であると強調されることがあります。しかし本書は、ナチスのイデオロギーは同時代の国粋主義・ロマン主義的軍国主義・共産主義の運動と同様に、19世紀の反啓蒙主義の所産だったのであり、古典的な自由主義・啓蒙主義に連なる思想系列の一端ではなかった、と指摘します。ナチズムは科学の皮を被っていただけの疑似科学であり、ホロコーストは啓蒙主義の所産ではなかった、というのが本書の見解です。

 「野蛮な近代」との見解を主張する人には、家族内・地域内・異なる部族や武装集団間・国家間にいたるまで、さまざまな規模における暴力が人類史において減少してきている、とする本書の見解は的外れのように思われるかもしれません。しかし本書は、前近代やさらにさかのぼっていわゆる先史時代の人間社会が、現代と比較して暴力に満ちたものであったことを、広範な分野の研究成果と膨大なデータを参照して指摘していきます。人口あたりの暴力による死者の割合は、現代においては過去においてよりも減少している、というわけです。本書のこの見解は、基本的には妥当なものだろう、と思います。

 本書はさらに、暴力が減少していることを認識すると、世界の見え方が変わってくる、と指摘します。過去はそれほど無垢ではなく、現在はそれほど邪悪で暗いわけではないと思えてくる、というわけです。また、現代人の祖先にとっては非現実的な夢でしかなかった共存の恵みを、ありがたいものとして評価できるようになる、とも本書では指摘されています。著者が意図的にそうしているところもあるのでしょうが、本書は全体的に楽観的と言えそうです。ただ本書は、そうした暴力の減少が状況(環境)依存的であることを指摘しているので、今後も人類社会における暴力を減少させていくためには、私も含めてその構成員の不断の努力が必要になるでしょう。

 では、そのような暴力の減少はなぜ起きたのかということを、6つの動向・5つの内なる悪魔・4つの善なる天使・5つの歴史的な力という観点から本書は検証していきます。6つの動向とは歴史的な傾向で、5つの内なる悪魔・4つの善なる天使とは、人間を暴力または協力的で平和的な関係へと向かわせる認知メカニズムです。人間の心は脳で実行される認知能力と感情的能力の複雑なシステムであり、その基本的設計は進化のプロセスに負っている、というのが本書の見解です。5つの歴史的な力とは、暴力を減少させてきた外生的な力です。


 まずは6つの動向についてです。これは以下の通りとなります。

(1)紀元前5000年頃から数千年単位で起きた変化で、人類史の大半を占める狩猟採集を基盤とする統治機構のない社会から、都市や統治機構を有する農耕社会への移行です。この変化により、人々を原始的な状態にとどめていた日常的な襲撃や争いが減少し、暴力的な死を遂げる人数が1/5ほどに減りました。本書では「平和化のプロセス」と呼ばれています。ただ本書は、そうした初期統治機構が暴君や聖職者や「泥棒政治家」による抑圧をもたらすこともあり、その問題が現在でも世界の大部分において解決されていないことも指摘しています。

(2)500年以上にわたって起きた変化で、ヨーロッパで顕著に見られます。中世後半から20世紀の間に、ヨーロッパでは殺人の発生率が1/10~1/50に減少しました。これは、寄せ集め的に存在していた封建領土が大きな王国に統合され、中央集権的な統治と商業の社会基盤ができあがったことに起因する、と説明されています。本書では「文明化のプロセス」と呼ばれています。

(3)17~18世紀の理性・ヨーロッパ啓蒙主義の時代に始まる数世紀で、専制政治・奴隷制・拷問・迷信による殺人・残虐な刑罰・動物への残虐行為など、社会的に認められた暴力形態を廃止するための組織的運動が起き、初めて系統的な平和主義の動きが見られました。本書では「人道主義革命」と呼ばれています。

(4)第二次世界大戦後から2010年までの2/3世紀において、超大国と先進国の大部分が互いに戦争をすることをやめました。本書では「長い平和」と呼ばれています。

(5)1989年の冷戦終結後、あらゆる種類の組織的な紛争や戦闘(内戦・ジェノサイド・独裁政権による弾圧・テロ攻撃)は世界中で減少しています。この動向はまだ暫定的なので、本書では「新しい平和」と呼ばれています。

(6)第二次世界大戦後、とくに1948年の世界人権宣言以後に見られるもので、少数民族・女性・子供・同性愛者・動物などに向けられる小規模な暴力にたいする嫌悪感の増大です。1950年代末以降、公民権・女性や子供や同性愛者や動物の権利を擁護する運動が次々と起きており、本書では「権利革命」と呼ばれています。

 人類史の大半を占める狩猟採集を基盤とする統治機構のない社会について、本書は暴力的であった可能性が高いことを指摘します。最初期(チンパンジーおよびボノボとの共通祖先から分岐した直後)の人類社会について、ボノボはチンパンジーより攻撃性は低いものの、まだ観察例が少ないため、つねに平和的なのか、確証は得られていない、と指摘する本書は、ボノボがかなり特殊化した霊長類であることから、ボノボおよびチンパンジーと人間の共通祖先は、ボノボのような「平和型」ではなく、チンパンジーや人間のように「攻撃的」だった可能性の方が高いのではないか、と推測しています。

 また本書は、ヨーロッパにおける時代がくだるにつれての暴力の減少(その指標は人口10万人あたりの年間殺人件数の低下)が、当初は社会下層よりも社会上層において、さらには非近縁間において著しかったことを指摘しています。一方で本書は、ヨーロッパとアメリカ合衆国において、たんに時代がくだるにつれて暴力が減少していったわけではなく、1960年代に人口10万人あたりの年間殺人件数が上昇していったことも指摘しています。

 これについて本書は、第二次世界大戦後のベビーブーマー世代が、どのような社会でもおおむね殺人加害者率の高い若者に成長し、テレビを中心とするマスメディアの発達によって、老人・権力者との縦のつながりが弱まって、同世代の連帯感が強くなったことを一因として挙げています。脱形式化のプロセスが進み、社会制度への信頼が下落していった、というわけです。自己表現が重んじられ、抑制への反逆が美徳となるなかで、暴力があたかも反体制運動の一形態であるかのように賞賛されたこともありました。しかし、1960年代に上昇した欧米の殺人率は、1990年代になって下降し始めます。本書はこれを「再文明化」のプロセスと呼んでいます。

 本書は全体的に、「派手な動向」は暴力を減少させるよりも増大させることがある、として急進的な歴史的動向には否定的です。したがって、フランス革命にも冷ややかな視線が向けられています。即時の独立・天然資源・革命的マルキシズム(有効である場合)・選挙による民主主義(有効でない場合)など、一見派手でエキサイティングなものは暴力死を増加させる可能性があり、反対に、有能な警察・世界経済への開放性・国連平和維持活動など、どちらかというと地味で退屈なものこそが、暴力死を減少させる可能性を有している、と本書は指摘しています。


 次に5つの内なる悪魔についてです。人間には内的な攻撃衝動(死の本能あるいは血への渇望)があり、その衝動はしだいに高まるため一定期間ごとに放出する必要があるという、いわゆる暴力の「水圧モデル」が多くの人に信じられているかもしれませんが、暴力の心理に関する現代科学の知見はそれとはかけ離れている、と本書は指摘します。攻撃は何か単一の動機により行なわれるものではなく、内的衝動の高まりによるものでもない、というわけです。攻撃はいくつかの心理学的システムによって生み出され、それぞれ異なる環境要因・内的論理・神経生物学的基盤・社会的分布を有します。5つの内なる悪魔とは以下の通りです。

(1)捕食的または道具的暴力で、単純に何らかの目的のための実際的手段として行なわれます。

(2)ドミナンス、すなわち名声・栄誉・権力などを求める衝動で、人間関係におけるマッチョな態度として現れることもあれば、人種的・民族的・宗教的・ナショナル的な集団間の覇権争いとして現れることもあります。

(3)リベンジで、仕返し・懲罰・正義のための道徳的衝動を増幅させます。

(4)サディズムで、他人の苦しみから快楽を得ます。

(5)イデオロギーで、ある人々の間で共有される信念体系であり、通常何らかのユートピア構想をともない、無制限の善を追及するために無制限の暴力を行使することが正当化されます。

 人間は進化の過程で、自己を過大評価し、未来の危険性を過小評価するような認知メカニズムを獲得した(肯定的幻想)、と本書は指摘します。政治家や軍人が「無謀な戦争」を決断するのも、兵士たちが勇ましく出征することがあるのも、戦争が長引いて被害が甚大になってしまうことがあるのもそのためだ、というわけです。この問題に関しては性差が認められる、ということも本書は指摘しています。


 次に4つの善なる天使についてです。これは、本来的には善でも悪でもない人間に生まれながら備わっている、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機です。4つの善なる天使とは以下の通りです。

(1)共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じとり、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きです。ただし、得られる情報の不足などにより、人類史上において共感の適用範囲は狭い時期が長かったので、これが自集団への結束を強める一方で、他者・他集団への暴力行使につながることも珍しくありませんでした。共感には、公平さを損なうなどといった負の側面もある、というわけです。

(2)セルフコントロール(自己抑制)は、衝動に基づいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きです。これが、社会の安定化により長期的視点での生存戦略が可能となったため、強く発現するようになった可能性を本書は指摘しています。

(3)道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正統と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的・権威主義的または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばあります。

(4)理性の機能は、人間を偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促し、より良い状態になるにはどうすべきか考えさせ、人間性の他の「天使」たちを活用する方向へ人間を導きます。本書は、現生人類(Homo sapiens)が、最近ゲノムの変化という生物学的な意味で文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性も検証していますが、その主眼はあくまで、真に環境的な変容、つまり固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化です。


 次に5つの歴史的な力についてです。本書は、どのような外生的な力が平和を好む人間の動機を支持し、複数の面において暴力の減少を促進したか検証することにより、人間の心理と歴史の結びつきを試みます。5つの歴史的な力とは以下の通りです。

(1)リヴァイアサン、すなわち合法的な力の行使を独占する国家と司法制度です。これは搾取的攻撃への衝動を鎮め、復讐への衝動を抑制し、あらゆる当事者に自分は天使の側にいると信じ込ませる独善的な偏見を阻止します。

(2)通商です。これはすべての人が勝つことも可能なプラスサムゲームです。科学技術の進歩により、商品やアイデアの交換がそれまでより遠距離間で、また規模の大きい取引相手同士で可能になるにつれて、「他の人々」は死んでいるよりも生きている方の価値が高くなるとともに、悪魔扱いしたり非人間的に扱ったりする対象にはなりにくくなります。

(3)女性化で、さまざまな文化が女性の利益や価値を尊重する方へと向かってきたプロセスです。暴力はおおむね男性の気晴らしであるため、女性に力を与える社会は暴力の美化を避ける傾向にあり、社会的な足場を持たない若い男たちの危険なサブカルチャーを生み出すことも少なくなります。

(4)コスモポリタニズムで、読み書き能力や移動性の向上やマスメディアの発達(地理的・社会的な流動性)により、人々は自分とは異なる人々の視点に立ち、そうした人々を認める共感の領域を広げることができるようになります。本書は、本をはじめとする印刷物の増加と識字能力の向上こそ、人道主義革命の契機となった最大の外生的要因だろう、と指摘します。世界は五感を通して把握され、情報は唯一のコンテンツプロバイダーの教会から与えられるだけだった、それまでの小さな村たる部族社会から、さまざまな人や場所、多様な文化やアイデアが次々に通り過ぎる走馬灯のような体験を通じて、精神の拡大が人々の感情や信念に人道主義的要素を吹き込んだのではないか、というわけです。また、権利革命の最大の外生的要因として、本書はテレビ・長距離電話・コピー機・インターネット・携帯電話など、アイデアと人をますます流動的にした技術を挙げています。

(5)理性のエスカレーターで、知識や合理性を人間に関する事柄に適用する度合が高まるにしたがって、人々は暴力の連鎖がいかに不毛か認識し、自分の利益を他人の利益より優先する考え方を改め、暴力を勝つための争いではなく、解決すべき問題と把握し直すことを余儀なくされます。


 本書は最後に、「わたしたちの人生にどれほどの苦難があろうとも、そしてこの世界にどれほどの問題が残っていようとも、暴力の減少は一つの達成であり、私たちはこれをありがたく味わうとともに、それを可能にした文明化と啓蒙の力をあらためて大切に思うべきだろう」と締めくくっています。皮相的な反近代・反啓蒙主義・反欧米は、さまざまな理不尽・苦悩を味わっている非欧米地域の現代人にとって魅力的ではありますが、それを安易に支持してはならない、と改めて思います。

 本書の問題点としては、世界中の地域が対象となり言及されてはいるものの、基本的にはヨーロッパと北アメリカ大陸が分析対象になっている、ということが挙げられるでしょう。しかし、それが本書の価値・説得力を大きく減じていることはないだろう、と思います。また、いわゆる先史時代、とくに更新世以前の人類社会の攻撃性・暴力志向については、現代もしくは民族誌学的記録に依拠して推測するところが多分にあるので、どこまで的確に推測できるのか、疑問も残ります。つまり、人口密度が気候の安定した完新世以降と比較してずっと低かっただろう更新世の狩猟採集社会は、現代もしくは民族誌学的記録に残る狩猟採集社会とは様相がかなり違っていた可能性があるのではないか、というわけです。

 ただ、現生人類は更新世後期~末期の狩猟採集社会において基本的には現代人のような認知メカニズムを獲得していたでしょうから、完新世以降と比較すると、更新世の人類社会が、少なくとも現代の大半の地域より暴力的なものだった可能性は高いだろう、と思います。人類にとって暴力は状況次第で安易に発動され得るものであり続けており、人口密度の低さなどに起因して、更新世の人類社会における他者認識にはかなりの限界があり、交易もずっと貧弱で、他集団との交流も密ではなかっただろう、ということを考えると、暴力を抑制する力が働きにくかったのではないか、というわけです。


参考文献:
Pinker S.著(2015)、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史』上・下(青土社、原書の刊行は2011年)

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