出アフリカ時の現生人類社会
取り上げるのがたいへん遅れましたが、出アフリカ時の現生人類(Homo sapiens)社会についての研究(Moreno., 2011)を読みました。本論文は、現生人類アフリカ単一起源説を前提としています。現生人類アフリカ単一起源説では、非アフリカ系現代人の祖先集団の出アフリカは1回のみとの想定が有力視されています。その年代については、6万~5万年前頃との見解が有力視されていますが、もっとさかのぼるとする見解も提示されています。
出アフリカの起点については、アフリカ東部ということで見解はおおむね一致していますが、その経路については、紅海を渡ってアラビア半島へと海岸沿いに進出し、さらに東西へと進出したという沿岸仮説と、アフリカ北東部からレヴァントへと進出した後に、ヨーロッパとアジアに進出していった、とする北上仮説が提示されています。本論文は、現生人類集団が8万年前頃にアフリカ東部からアラビア半島を経てインド洋・東南アジアにまで進出し、さほど時間を要さずに(5000年ほど)オーストラリア(サフルランド)へと進出した、と想定しています。
本論文は、現代の世界各地の狩猟採集民集団の社会的特徴と、現代人のミトコンドリアDNAのハプログループの分類とを結びつけ、出アフリカ時の現生人類社会の特徴を推測しています。現代人のミトコンドリアDNAのハプログループは、まずL0系統とL1~6系統が分岐し、サハラ砂漠以南のアフリカには両者ともに見られます(関連記事)。その後、L1~6系統からL1系統→L5系統→L2系統→L6系統が分岐していき、最後にL3系統とL4系統が分岐します。L3系統はさらに細分化していくのですが、そのなかにM系統とN系統があり、非アフリカ系現代人は全員どちらかに属しています。M系統とN系統もさらに細分化していきます。
現代では、占有面積も人口も非アフリカ系がアフリカ系を圧倒しています。しかし、非アフリカ系現代人は、ミトコンドリアDNAのハプログループを基準にすると、アフリカ系現代人と比較して著しく多様性に乏しくなっています。出アフリカ時の現生人類集団の規模は、推定繁殖可能人数が1000人から1500人程度とされており、少人数だったと考えられています。本論文は、現代において占有面積でも人口でも小集団の子孫たる非アフリカ系が圧倒しているのはなぜか、という問題を検証し、出アフリカ時の現生人類集団の社会の特徴に理由があったのではないか、との仮説を提示しています。
本論文は、まず現代の狩猟採集民集団の社会の特徴を分析・比較します。出アフリカ時の現生人類集団も狩猟採集民だっただろうから、ということなのですが、これには問題のあることを本論文は率直に認めています。それは、現代の狩猟採集民集団が太古の状況を維持しているとは限らない、ということです。本論文は考古学的成果も参照しているので、そうした問題を回避できているところもありますが、根本的にこの問題を解決できているわけではありません。そうした限界を踏まえたうえで、以下に本論文の見解を取り上げていきます。
本論文は、紛争解決の手段としての儀式的戦いや戦争や殺人・自殺について、世界中の狩猟採集民集団の実態を調査します。本論文で調査の対象となった狩猟採集民集団のミトコンドリアDNAハプログループは、アフリカ系がL0・L1・L2系統、非アフリカ系がL3系統(から分岐したMもしくはN系統)となっています。本論文は、現代世界の狩猟採集民集団の社会において、紛争解決の手段としての戦争や儀式的戦いや殺人・自殺に関して、アフリカ系と非アフリカ系との間で大きな違いがあることを指摘し、非アフリカ系に共通する特徴は出アフリカ時の現生人類社会に由来するものであり、それが現生人類の拡散に重要な役割を果たしたのではないか、との仮説を提示しています。
アフリカ系狩猟採集民集団では、クン(!Kung)族において紛争解決のための戦争が起き得ることが知られており、過去の岩絵からも戦争の事例が窺えます。ただ本論文は、クン族の社会は一般的に平和だ、と指摘しています。その他の調査対象となったアフリカ系の狩猟採集民集団には、考古学的または民族誌学的に戦争をしていた証拠は確認されていません。一方、インド洋のアンダマン諸島やオーストラリアやアメリカ大陸といった広範な地域の狩猟採集民集団においては、その多くで戦争の証拠が確認されています。
紛争解決のための殺人・自殺についても同様で、アフリカ系狩猟採集民集団では、クン(!Kung)族も含めてそうした行動が一般的には認められないのにたいして、非アフリカ系狩猟採集民集団の多くでは、そうした行動が顕著に認められています。本論文はさらに、たとえばレスリングのような儀式的戦いについても調査し、全アフリカ系狩猟採集民集団では認められないのにたいして、非アフリカ系狩猟採集民集団では、解釈の難しい日本のアイヌ(Ainu)社会を除いて全集団で認められる、と指摘しています。
本論文は全死亡者における死因の割合も検証していますが、こちらは調査対象とした狩猟採集民集団においてデータが得られないことが多く、戦争や殺人・自殺や儀式的戦いと比較すると、信用度は低いと言えそうです。そうした限界も踏まえたうえで見ていくと、病死の割合は、アフリカのクン族やハザ(Hadza)族では85%、フィリピン諸島のアエタ(Aeta)族では75%、パラグアイのアチェ(Aché)族では20%、ベネズエラ・コロンビアのヒウィ(Hiwi)族では45%となります。死亡に占める暴力死の割合は、クン族やハザ族では3%、アエタ族では7%アチェ族では55%、ヒウィ族では30%、となっています。
本論文はこれらの調査結果から、アフリカ系狩猟採集民集団よりも非アフリカ系狩猟採集民集団の方が明らかに暴力的・好戦的だ、と指摘しています。さらに本論文は、調査対象とした非アフリカ系狩猟採集民集団の地理的範囲は熱帯から北極圏まで多様な気候下に及んでいるので、両者の社会的特徴の違いは環境に起因しているわけではなく、出アフリカ時の現生人類集団の社会が、アフリカに留まった現生人類集団の社会よりも好戦的であり、戦士であることや戦功に高い価値を認めていたのではないか、との見解を提示しています。
現生人類の出アフリカの要因としては、気候変動やそれとも大いに関連する食料事情の変化が指摘されています。本論文はそれらと共に、未知の領域を確保するための計画的行動だった可能性や、戦争で負けて敵から逃れようとしたという可能性を想定しています。また本論文は、出アフリカを果たした現生人類集団がそうした好戦的な文化を有していたために近隣の人類集団にたいして優位に立てたからこそ、エレクトス(Homo erectus)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)といったユーラシア各地の先住人類を駆逐して世界中に拡散できたのではないか、と推測しています。アフリカに留まったもっと平和的な現生人類集団に果たしてそれは可能だったのだろうか、というわけです。
さらに本論文は、出アフリカ現生人類集団の攻撃的な戦争文化が、アフリカからの現生人類の第二の移住を防いだのではないか、と推測しています。これは、現生人類の出アフリカは1回のみだった、との有力説の理由となるかもしれません。本論文は、好戦的な現生人類集団が「戦士の部族」として出アフリカを果たして世界中に拡散していき、「戦争文化」が現生人類の世界各地への拡散にさいして大きな影響力を及ぼしたのではないか、とまとめています。
以上、本論文の見解をざっとまとめてみました。現代の世界各地の狩猟採集民集団の社会的特徴を、攻撃性・好戦性という観点から比較し、壮大な仮説が提示されていると思います。しかしやはり、本論文でも認められているように、現代の狩猟採集民集団が太古の状況を維持しているとは限らない、という問題を軽視することはできないでしょう。私は現代の狩猟採集民集団の社会的特徴に疎いので、本論文が主張するように、現代の狩猟採集民集団においては、非アフリカ系の方がアフリカ系よりも好戦的・暴力的と言えるのか、今後少しずつ調べていこう、と考えています。
現生人類の世界各地の拡散にさいして、「戦争文化」が有利に働いた可能性はあります。しかし、現生人類がアフリカに留まっていた時点では、非アフリカ地域の人口密度は低かったでしょうから、現生人類が技術革新も含む社会的革新により人口を増大させる能力を有したとしたら、「戦争文化」に依存せずとも、他系統の人類にたいして優位に立ち、世界各地に拡散して他系統の人類を駆逐したり、交雑して吸収したりすることは比較的容易だったでしょう。また、「戦争文化」が近隣集団にたいする優位になるのだとしたら、それは非アフリカ地域のみならずアフリカにおいても同様だったはずで、好戦的な非アフリカ系現生人類集団と平和的なアフリカ系現生人類集団という図式が成立し得るのか、疑問が残ります。
率直に言って、本論文の見解にはあまり同意できません。現生人類(に限らずおそらくは他系統の人類も)にとって、暴力は常に有力な選択肢の一つではあるものの、それを行使するか抑制するかは、その時点での状況(集団の社会的構造や近隣集団との関係など)に左右されるのであり、各集団の社会規範・文化も、そうした状況の積み重ねで大きく違ってくるのだろう、と思います。その意味でも、いかに狩猟採集という観点では類似しているとはいっても、現代の狩猟採集民集団から過去の狩猟採集社会を推測することには慎重であるべきだろう、と考えています。
参考文献:
Moreno E.(2011): The society of our “out of Africa” ancestors (I)The migrant warriors that colonized the world. Communicative & Integrative Biology, 4, 2, 163–170.
http://dx.doi.org/10.4161/cib.4.2.14320
出アフリカの起点については、アフリカ東部ということで見解はおおむね一致していますが、その経路については、紅海を渡ってアラビア半島へと海岸沿いに進出し、さらに東西へと進出したという沿岸仮説と、アフリカ北東部からレヴァントへと進出した後に、ヨーロッパとアジアに進出していった、とする北上仮説が提示されています。本論文は、現生人類集団が8万年前頃にアフリカ東部からアラビア半島を経てインド洋・東南アジアにまで進出し、さほど時間を要さずに(5000年ほど)オーストラリア(サフルランド)へと進出した、と想定しています。
本論文は、現代の世界各地の狩猟採集民集団の社会的特徴と、現代人のミトコンドリアDNAのハプログループの分類とを結びつけ、出アフリカ時の現生人類社会の特徴を推測しています。現代人のミトコンドリアDNAのハプログループは、まずL0系統とL1~6系統が分岐し、サハラ砂漠以南のアフリカには両者ともに見られます(関連記事)。その後、L1~6系統からL1系統→L5系統→L2系統→L6系統が分岐していき、最後にL3系統とL4系統が分岐します。L3系統はさらに細分化していくのですが、そのなかにM系統とN系統があり、非アフリカ系現代人は全員どちらかに属しています。M系統とN系統もさらに細分化していきます。
現代では、占有面積も人口も非アフリカ系がアフリカ系を圧倒しています。しかし、非アフリカ系現代人は、ミトコンドリアDNAのハプログループを基準にすると、アフリカ系現代人と比較して著しく多様性に乏しくなっています。出アフリカ時の現生人類集団の規模は、推定繁殖可能人数が1000人から1500人程度とされており、少人数だったと考えられています。本論文は、現代において占有面積でも人口でも小集団の子孫たる非アフリカ系が圧倒しているのはなぜか、という問題を検証し、出アフリカ時の現生人類集団の社会の特徴に理由があったのではないか、との仮説を提示しています。
本論文は、まず現代の狩猟採集民集団の社会の特徴を分析・比較します。出アフリカ時の現生人類集団も狩猟採集民だっただろうから、ということなのですが、これには問題のあることを本論文は率直に認めています。それは、現代の狩猟採集民集団が太古の状況を維持しているとは限らない、ということです。本論文は考古学的成果も参照しているので、そうした問題を回避できているところもありますが、根本的にこの問題を解決できているわけではありません。そうした限界を踏まえたうえで、以下に本論文の見解を取り上げていきます。
本論文は、紛争解決の手段としての儀式的戦いや戦争や殺人・自殺について、世界中の狩猟採集民集団の実態を調査します。本論文で調査の対象となった狩猟採集民集団のミトコンドリアDNAハプログループは、アフリカ系がL0・L1・L2系統、非アフリカ系がL3系統(から分岐したMもしくはN系統)となっています。本論文は、現代世界の狩猟採集民集団の社会において、紛争解決の手段としての戦争や儀式的戦いや殺人・自殺に関して、アフリカ系と非アフリカ系との間で大きな違いがあることを指摘し、非アフリカ系に共通する特徴は出アフリカ時の現生人類社会に由来するものであり、それが現生人類の拡散に重要な役割を果たしたのではないか、との仮説を提示しています。
アフリカ系狩猟採集民集団では、クン(!Kung)族において紛争解決のための戦争が起き得ることが知られており、過去の岩絵からも戦争の事例が窺えます。ただ本論文は、クン族の社会は一般的に平和だ、と指摘しています。その他の調査対象となったアフリカ系の狩猟採集民集団には、考古学的または民族誌学的に戦争をしていた証拠は確認されていません。一方、インド洋のアンダマン諸島やオーストラリアやアメリカ大陸といった広範な地域の狩猟採集民集団においては、その多くで戦争の証拠が確認されています。
紛争解決のための殺人・自殺についても同様で、アフリカ系狩猟採集民集団では、クン(!Kung)族も含めてそうした行動が一般的には認められないのにたいして、非アフリカ系狩猟採集民集団の多くでは、そうした行動が顕著に認められています。本論文はさらに、たとえばレスリングのような儀式的戦いについても調査し、全アフリカ系狩猟採集民集団では認められないのにたいして、非アフリカ系狩猟採集民集団では、解釈の難しい日本のアイヌ(Ainu)社会を除いて全集団で認められる、と指摘しています。
本論文は全死亡者における死因の割合も検証していますが、こちらは調査対象とした狩猟採集民集団においてデータが得られないことが多く、戦争や殺人・自殺や儀式的戦いと比較すると、信用度は低いと言えそうです。そうした限界も踏まえたうえで見ていくと、病死の割合は、アフリカのクン族やハザ(Hadza)族では85%、フィリピン諸島のアエタ(Aeta)族では75%、パラグアイのアチェ(Aché)族では20%、ベネズエラ・コロンビアのヒウィ(Hiwi)族では45%となります。死亡に占める暴力死の割合は、クン族やハザ族では3%、アエタ族では7%アチェ族では55%、ヒウィ族では30%、となっています。
本論文はこれらの調査結果から、アフリカ系狩猟採集民集団よりも非アフリカ系狩猟採集民集団の方が明らかに暴力的・好戦的だ、と指摘しています。さらに本論文は、調査対象とした非アフリカ系狩猟採集民集団の地理的範囲は熱帯から北極圏まで多様な気候下に及んでいるので、両者の社会的特徴の違いは環境に起因しているわけではなく、出アフリカ時の現生人類集団の社会が、アフリカに留まった現生人類集団の社会よりも好戦的であり、戦士であることや戦功に高い価値を認めていたのではないか、との見解を提示しています。
現生人類の出アフリカの要因としては、気候変動やそれとも大いに関連する食料事情の変化が指摘されています。本論文はそれらと共に、未知の領域を確保するための計画的行動だった可能性や、戦争で負けて敵から逃れようとしたという可能性を想定しています。また本論文は、出アフリカを果たした現生人類集団がそうした好戦的な文化を有していたために近隣の人類集団にたいして優位に立てたからこそ、エレクトス(Homo erectus)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)といったユーラシア各地の先住人類を駆逐して世界中に拡散できたのではないか、と推測しています。アフリカに留まったもっと平和的な現生人類集団に果たしてそれは可能だったのだろうか、というわけです。
さらに本論文は、出アフリカ現生人類集団の攻撃的な戦争文化が、アフリカからの現生人類の第二の移住を防いだのではないか、と推測しています。これは、現生人類の出アフリカは1回のみだった、との有力説の理由となるかもしれません。本論文は、好戦的な現生人類集団が「戦士の部族」として出アフリカを果たして世界中に拡散していき、「戦争文化」が現生人類の世界各地への拡散にさいして大きな影響力を及ぼしたのではないか、とまとめています。
以上、本論文の見解をざっとまとめてみました。現代の世界各地の狩猟採集民集団の社会的特徴を、攻撃性・好戦性という観点から比較し、壮大な仮説が提示されていると思います。しかしやはり、本論文でも認められているように、現代の狩猟採集民集団が太古の状況を維持しているとは限らない、という問題を軽視することはできないでしょう。私は現代の狩猟採集民集団の社会的特徴に疎いので、本論文が主張するように、現代の狩猟採集民集団においては、非アフリカ系の方がアフリカ系よりも好戦的・暴力的と言えるのか、今後少しずつ調べていこう、と考えています。
現生人類の世界各地の拡散にさいして、「戦争文化」が有利に働いた可能性はあります。しかし、現生人類がアフリカに留まっていた時点では、非アフリカ地域の人口密度は低かったでしょうから、現生人類が技術革新も含む社会的革新により人口を増大させる能力を有したとしたら、「戦争文化」に依存せずとも、他系統の人類にたいして優位に立ち、世界各地に拡散して他系統の人類を駆逐したり、交雑して吸収したりすることは比較的容易だったでしょう。また、「戦争文化」が近隣集団にたいする優位になるのだとしたら、それは非アフリカ地域のみならずアフリカにおいても同様だったはずで、好戦的な非アフリカ系現生人類集団と平和的なアフリカ系現生人類集団という図式が成立し得るのか、疑問が残ります。
率直に言って、本論文の見解にはあまり同意できません。現生人類(に限らずおそらくは他系統の人類も)にとって、暴力は常に有力な選択肢の一つではあるものの、それを行使するか抑制するかは、その時点での状況(集団の社会的構造や近隣集団との関係など)に左右されるのであり、各集団の社会規範・文化も、そうした状況の積み重ねで大きく違ってくるのだろう、と思います。その意味でも、いかに狩猟採集という観点では類似しているとはいっても、現代の狩猟採集民集団から過去の狩猟採集社会を推測することには慎重であるべきだろう、と考えています。
参考文献:
Moreno E.(2011): The society of our “out of Africa” ancestors (I)The migrant warriors that colonized the world. Communicative & Integrative Biology, 4, 2, 163–170.
http://dx.doi.org/10.4161/cib.4.2.14320
この記事へのコメント