門脇誠二『ホモ・サピエンスの起源とアフリカの石器時代 ムトングウェ遺跡の再評価』

 名古屋大学博物館より2014年3月に刊行されました。著者の門脇様がわざわざ送ってくださったので、読むことができました。この場を借りまして、改めてお礼申し上げます。本書は、名古屋大学博物館において2014年3月4日~2014年7月12日にかけて開催された特別展「人類史上画期的な石器―名大のアフリカ考古学と南山大の旧石器コレクション―」の関連図書とのことです。

 このブログでは著者の論文を何度か取り上げてきました。刊行順として古い方から、「アフリカの中期・後期石器時代の編年と初期ホモ・サピエンスの文化変化に関する予備的考察」(関連記事)、「アフリカと西アジアの旧石器文化編年からみた現代人的行動の出現パターン」(関連記事)、「アフリカの中期・後期石器時代の編年と初期ホモ・サピエンスの文化変化に関する予備的考察」(関連記事)となります。本書はこれらの論文より後に刊行されており、研究内容・見解が若干更新されています。以下、本書の内容についてまとめていきます。



 本書は、現生人類(Homo sapiens)のアフリカ単一起源説を前提として、現生人類が出アフリカを果たした時期やその要因の手がかりとなり得る考古記録を概観しています。この場合の現生人類アフリカ単一起源説とは、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)やデニソワ人(種区分未定)など他系統の人類との低頻度の交雑も想定したものです。

 現生人類が出アフリカを果たしてユーラシア大陸へ、さらにはオセアニアやアメリカ大陸など世界各地へと進出する過程で、他系統の先住人類を(同化吸収も含めて)絶滅に追いやった要因として、技術・行動の違いがしばしば指摘されます。他系統の先住人類を絶滅に追いやった要因になったかもしれない、彼らとは異なると考えられている現生人類の技術・行動は「現代人的行動」と言われていますが、その概念はヨーロッパでの考古記録に由来し規定されていることには注意が必要です。こうした技術・行動の差には、現生人類と他系統の人類との間に潜在的な認知能力の違いがあったことが、明示的に指摘されるか、暗黙の前提となることがしばしばあります。

 本書は、現在の古人類学において熱心に議論されている、現生人類と他系統の人類との間の潜在的な認知能力の違いの有無・程度については直接論じず、考古学的証拠から出アフリカ時の現生人類の行動・技術の様相を復元していき、(他系統の人類の絶滅を伴う)現生人類の世界規模での拡散の要因を考古学的に検証する手がかりを提示していこうとします。

 本書の姿勢は基本的に慎重なので、既知の考古記録から現生人類と他系統の人類との技術・行動の違いを強調し、前者の繁栄と後者の絶滅の要因を「派手に」論じることはありません。「派手な」議論を期待する人はやや物足りなく感じるかもしれませんが、現生人類と他系統の人類との「交替劇」を考察するさいの考古記録を着実に検証・整理していこうとする本書の姿勢は堅実であり、良いと思います。本書は石器技術と象徴行動の観点から考古記録を概観していきます。

 現生人類の出アフリカ時の技術・行動の様相を考古学的に検証するさいに本書が対象としているのは、地域的にはおもにアフリカとレヴァントであり、一部でアラビア半島も含む西アジア全体やヨーロッパにも言及されています。これらの地域は、レヴァント、アフリカ北部のマグレブ・キレナイカ・サハラ・ナイル渓谷、アフリカ東部、アフリカ中央部、アフリカ西部、アフリカ中南部、アフリカ南部に区分されています。また、アフリカおよびレヴァントとの比較対象として、南アジアや南ヨーロッパなどが取り上げられています。

 年代的には、20万年前頃~4万年前頃までが対象とされています。サハラ砂漠以南では中期石器時代(Middle Stone Age)~後期石器時代(Later Stone Age)、ヨーロッパ・西アジアなどサハラ砂漠以北では中部旧石器時代(Middle Palaeolithic)~上部旧石器時代(Upper Palaeolithic)におおむね相当します。本書はこの期間を以下の5期に区分しています。

●約20万~13万年前の第1期・・・アフリカにおいて初期現生人類が出現。

●約13万~8.5万年前の第2期・・・アフリカ内における現生人類の拡大、レヴァントにおける現生人類の居住。

●約8.5万~4.5万/5万年前の第3期・・・レヴァントにおけるネアンデルタール人の居住(現生人類の分布縮小?)。

●約4.5万/5万~4万年前の第4期・・・レヴァントとヨーロッパへ現生人類が拡散し始めた可能性。

●約4万年前以降の数千年間の第5期・・・レヴァントとヨーロッパにおける現生人類の居住とネアンデルタール人の消滅。


 第1期には調整石核技法が広く見られるようになります。アフリカ東部では、ルヴァロワ石核からの剥片製作を主体とするインダストリーが見られ、ハンドアックス(握斧)を伴う場合もあります。大型の両面加工石器やピックが特徴的なサンゴアン(Sangoan)とルペンバン(Lupemban)は、アフリカ中央部・中央南部・東部・北部の一部と広範に存在し、森林も草原も含まれていたのではないか、と考えられています。ルペンバンでは最古級の組み合わせ道具(「現代人的行動」の指標とする見解もあります)が確認されていますが、その規格度は後のインダストリーよりも低いようです。

 アフリカ南部ではピナクルポイント13B(Pinnacle Point 13B)の石器群が詳しく報告されており、円盤型やルヴァロワ石核からの剥片剥離がアフリカ東部と共通します。しかし、アフリカ東部と異なり、両面加工のポイントやハンドアックスは見られません。また、石刃が見られるのも特徴です。西アジアでは、レヴァントからコーカサス地域にかけて広範にタブン(Tabun)D型が分布します。これは、ルヴァロワ方式や石刃システムによる石刃製作を特徴とします。

 第1期には明確な象徴行動の痕跡が見当たりません。ヘルトボウリ(Herto Bori)で発見された最古級の現生人類の頭蓋骨にはカットマーク・擦痕・研磨痕が確認されており、死者儀礼との関連の可能性が指摘されています。ツインリバーズ(Twin Rivers)やピナクルポイント13Bではオーカー塊が発見されていますが、身体装飾・石器着柄の接着剤・ビーズの着色など、さまざまな可能性が推測されているものの、どのように使われたのか、決定的な証拠はまだ得られていません。


 第2期にはレヴァントへの現生人類の進出が見られます。この時期のレヴァントでは現生人類の人骨に伴ってタブンC型石器群が見られます。タブンC型ではタブンD型よりも石刃の比率が減少しています。アラビア半島では同時期のアフリカの石器と類似しているとされる石器群が見られ、現生人類のアラビア半島への進出の証拠との見解もありますが、人骨は共伴していません。

 アフリカ北東部ではルヴァロワ石核からのポイント製作を特徴とするヌビア複合前期(Early Nubian Complex)が見られます。ヌビア複合後期(Late Nubian Complex)と比較すると、木葉形両面加工石器が伴うことと、ヌビア技術1型の頻度が低いのが特徴です。アフリカ北部では145000年前頃に、有茎ポイントや両面加工の木葉形ポイントを特徴とするアテリアン(Aterian)が始まります。アテリアンは第3期まで存続したようで、そうだとすると、長期間継続したことになります。

 アフリカ東部では、タンザニアのムンバ(Mumba)洞窟で確認されたサンザンコ(Sanzanko)が13万年前頃とされており、大型で幅広の削器や小型の両面加工石器が含まれ、尖頭器は少ないのが特徴です。なお、ムンバ洞窟の同層では現生人類とされる人骨が発見されています。アドゥマ(Aduma)遺跡群では10万~8万年前頃の黒曜石製の片面もしくは両面加工の小型尖頭器やルヴァロワ製品が発見されていますが、真正の石刃・細石刃・幾何学形石器は確認されていません。ここでも現生人類とされる人骨が発見されています。

 アフリカ南部では、調整石核から縦長剥片・石刃などを剥離する技術を特徴とするインダストリーが確認されます。これはMSA(Middle Stone Age)ⅠとMSAⅡとされてきました。二次加工の頻度が低い大型の石刃がルヴァロワ角錐石核から剥離される技術を特徴とするMSAⅠにたいして、MSAⅡでは、石刃が小型化し、単方向収束調整のルヴァロワ石核から短いルヴァロワ様のポイントが剥離される技術が特徴となります。近年では、両者の技術に違いが見られることと、名称の混同を避ける目的から、MSAⅠをクラシーズリヴァー(Klasies River)、MSAⅡをモッセルベイ(Mossel Bay)という新たな名称で呼ぼうとする提案もなされています。

 第2期には明確な象徴行動の痕跡が確認されており、象徴行動の痕跡と解釈できそうな事例も、第1期よりも増えています。レヴァントのスフール(Skhul)とカフゼー(Qafzeh)では現生人類の人骨に副葬品が伴っており、オーカーやオーカーの付着した穿孔された海産貝が確認されています。アフリカ北部でも、オーカーやオーカーの付着した穿孔された海産貝(ビーズとして用いられた可能性が指摘されています)が確認されています。アフリカ東部で注目されるのは、ムンバ遺跡で確認された、約320kmになる石材の遠距離移動です。


 第3期は、現生人類の出アフリカの時期である可能性が高いということで、注目されます。西アジアでは現生人類の居住が第2期から継続した証拠が現時点では確認されていない一方で、ネアンデルタール人の居住が複数の遺跡で確認されています。これらネアンデルタール人の石器としては、石核が単軸収束方向に調整されることが多く、幅広の基部を有するポイントや石刃が多く製作され、削器の比率が高いことなどを特徴とするタブンB型が知られています。タブンB型には上部旧石器的器種もわずかに含まれます。

 アフリカ南部では、両面加工の木葉形ポイントを特徴とするスティルベイ(Stillbay)伝統が出現します。その後、小型平坦打面の石刃を素材とした幾何学形石器を特徴とするハウィソンズプールト(Howieson’s Poort)伝統が出現します。近年では、ハウィソンズプールト伝統の存続期間は中期石器時代のインダストリーにしては短めの65000~60000年前の間だった、とされます。ただ、ハウィソンズプールトの下層で類似した石器群が発見された、とも報告されています。

 「現代人的行動」が見られ「先進的」なところがあるとされるハウィソンズプールトは、そのまま後期石器時代に継続するのではなく、後ハウィソンズプールト(Post-Howeson’s Poort)という中期石器文化伝統が続きます。後ハウィソンズプールトは、シブドゥ(Sibudu)遺跡では58500年前頃との年代測定値が得られています。シブドゥ遺跡では、後ハウィソンズプールトの上層の後期MSAの年代が47000年前頃とされています。ボーダー洞窟の後ハウィソンズプールトの年代は放射性炭素年代測定法で56000年前頃(非較正)であり、後期石器時代の始まりは、暦年代で44200~43000年前とされています。

 アフリカ東部では、ケニアのエンカプネヤムト(Enkapune ya Muto)遺跡でエンディンギ(Endingi)からナサンポライ(Nasampolai)への移行が5万年前頃に起き、これをアフリカ最古の中期石器時代~後期石器時代への移行とする見解も提示されています。タンザニアのムンバ遺跡では、サンザンコ伝統の後に(空白期間を挟んで)キセレ(Kisele)伝統が確認されており、その年代は73600~63400年前と推定されています。その上層では刃潰し加工による幾何学形石器を特徴とするムンバ伝統が確認されており、その年代は56900~49100年前とされています。ムンバ伝統は、後期石器時代となる上層のナセラ(Nasera)伝統との類似が指摘されています。

 エチオピアのポークエピック(Porc Epic)洞窟やモチェナボラゴ(Mochena Borago)岩陰では、幾何学形細石器が確認されています。前者はルヴァロワ石核や円盤型石核からの剥片隔離技術が主体的なのに対して、後者はそれらが僅かで単打面もしくは複数打面の石核がほとんどであることが、違いとなっています。ポークエピック洞窟の人類の居住年代は7万~6万年前頃とされています。アフリカ東部では、7万~6万年前頃に幾何学形石器が増え始め、アフリカ南部とは異なり、そのまま後期石器時代へと連続した可能性が指摘されています。

 アフリカ北東部のナイル川流域では、ヌビア複合後期の後にタラムサン(Taramsan)やナイル下流複合(Lower Nile Valley Complex)が続きます。タラムサン伝統はルヴァロワ方式の石核調整を土台としつつ、対方向剥離により両設打面から石刃が連続的に剥離されることと、作業面が強い凸状であることが特徴となっています。ナイル下流複合伝統には、より古典的な求心方向の調整によるルヴァロワ剥片を主体とする、さまざまな石器群が含まれます。

 第3期は、アフリカ南部・東部・北東部における石器技術の顕著な変化とは対照的に、レヴァントのネアンデルタール人の所産と考えられるタブンB型が大きくは変化していないことが特徴となっています。これは、初期現生人類とネアンデルタール人との文化変化パターンの違いかもしれませんが、アフリカ北部のアテリアン伝統が14万~6万年前頃まで長期間継続した可能性を考慮すると、現生人類とネアンデルタール人の石器技術の変化の速度に違いがあると、まだ断定できる段階ではなさそうです。

 第3期には骨器も確認されており、アフリカ南部のスティルベイやハウィソンズプールトでは、錐や尖頭器と思われる骨器が発見されています。アフリカ中央部では骨製のポイントが発見されており、一部には逆棘がついています。アフリカ北部でも骨器が発見されていますが、まだ類例は少ないようです。この時期のヨーロッパにはネアンデルタール人のみが居住していたと考えられていますが、ドイツのザルツギッターレーベンシュテット(Salzgitter-Lebemstedt)やフォーゲルヘルト(Vogelherd)では骨製の尖頭器が発見されています。

 象徴行動の痕跡については、第3期においても、アフリカ北部ではアテリアンに伴って穿孔された海産貝が発見されています。しかし、現生人類の人骨の発見された第2期にはビーズと思われる海産貝が発見されているレヴァントでは、ネアンデルタール人の人骨が発見されている第3期には、そうしたものが発見されていません。アフリカ南部では、スティルベイで見られた海産貝のビーズがハウィソンズプールトでは見られなくなる一方で、線刻模様のある遺物はスティルベイからハウィソンズプールトを経て後ハウィソンズプールトまで継続して見られます。

 アフリカ東部では、ムンバ伝統において49000年前頃とされるダチョウの卵殻製ビーズが発見されています。レヴァントではクネイトラで線刻のついた石器が発見されていますが、人骨は共伴していません。クネイトラの石器群の分類は確定していないのですが、タブンC型との類似が指摘されています。ヨーロッパでは、フランスのラフェラシー(La Ferrasie)で70000~65000年前頃のネアンデルタール人の埋葬に伴う石版や線刻模様付きの骨が発見されています。スペインのキュエヴァアントン(Cueva Antón)やキュエヴァデロスアヴォイネス(Cueva de los Aviones)では、穿孔されたオーカーの付着した5万年前頃の海産貝が発見されています(関連記事)。


 第4期には石器技術や象徴行動で顕著な変化が見られ、現生人類の拡散過程とその要因の解明にとって重要な時期となります。ただ、この時期の人骨標本は少なく、その年代と形質の分類(現生人類なのか、それともネアンデルタール人なのか、あるいは両者の交雑した個体なのか、といった判断)について評価が一致していないこともあるので、現生人類の拡散過程とその要因についての考察が難しくなっています。

 レヴァントでは、タブンB型の後に上部旧石器時代初頭(Initial UpperPalaeolithic)またはエミラン(Emiran)と呼ばれる石器伝統が出現しました。その特徴は、角錐状石核から剥離される遠端部尖頭形の石刃ですが、後の上部旧石器時代の石刃と比較すると、打面が大きく、しばしば打面調整される点で異なっており、中部旧石器時代のルヴァロワ製品と似ています。年代は、放射性炭素年代測定法で47000~33000年前頃(非較正)とされています。エミランは、小打面の石刃技術を特徴とする前期アハマリアン(Early Ahmarian)へと連続します。アハマリアンの上限年代については、放射性炭素年代測定法の較正年代で47000年前にさかのぼるとの報告もありますが、同様の石器群の年代が較正年代で41000~39000年前になる、との報告もあり、はっきりしません。

 ヨーロッパでは地域ごとに特徴的な石器伝統が出現します。東ヨーロッパでは、セレッティアン(Szeletian)や、レヴァントのエミランに類似したバチョキリアン(Bachokirian)やボフニチアン(Bohunician)といった石器製作技術が出現します。セレッティアンとボフニチアンには、両面加工の木葉形ポイントが伴います。イタリアやギリシアといった南ヨーロッパでは、半月形や台形の細石器を特徴とするウルツィアン(Ulzzian)が出現します。フランス南西部~スペイン北東部にかけては、石刃素材の湾曲背付きナイフを特徴とするシャテルペロニアン(Châtelperronian)が出現します。ヨーロッパのこうした石器伝統は技術的に多様で、中部旧石器時代終末~上部旧石器時代初頭の限定的な期間に出現するため、「移行期インダストリー/文化」とまとめられています。

 アフリカでは、この時期にレヴァントやヨーロッパのような石器技術の顕著な変化は見られません。アフリカ北東部のナイル流域では、第3期後半に出現したタラムサンやナイル下流複合が第4期末まで継続します。アフリカ東部では、エンカプネヤムト遺跡でナサンポライからサクティエク(Sakutiek)への変化が放射性炭素年代測定法の非較正年代で4万年前頃に起きた、と報告されていますが、エンカプネヤムト遺跡での画期は、その前のエンディンギからナサンポライへの移行の方だとされています。

 アフリカ南部では、この時期に後ハウィソンズプールトから後期石器文化へと変わっていきます。ただ、そうした後期石器時代への移行がアフリカ南部で一様に進行したのか、同時期のヨーロッパの「移行期インダストリー」のように地域的に多様だったかについては、今後の検証が必要なようです。たとえば、ボーダー洞窟では後ハウィソンズプールトから後期石器文化への変化が56000~43000年前頃に起きていますが、シブドゥ洞窟では、58500年前頃の後ハウィソンズプールト→47700年前頃の後期MSA→38600年前頃の終末期MSAと変化していきます。

 上述したように、この時期には象徴行動の痕跡で顕著な変化が見られます。この時期のヨーロッパでは、その担い手にまだ不明瞭なところのある「移行期インダストリー」においても、骨角器技術や装飾品の発達が認められます。穿孔されたり溝彫りがなされたりした歯牙や骨、さらには顔料・骨製錐などが発見されています。また、イベリア半島北部のエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟では、遅くとも40800年前頃になる壁画が発見されています(関連記事)。

 レヴァントでは、エミランや前期アハマリアンで先端の尖っている骨器や穿孔された海産貝が発見されています。アフリカ東部では、エンカプネヤムト遺跡でサクティエク石器群とともにダチョウ卵殻製ビーズが発見されています。南アフリカのボーダー洞窟では、後期石器時代の最初期(放射性炭素年代測定法の較正年代で44200~43000年前頃)になって、海産貝やダチョウ卵殻製ビーズが出現します。


 第5期には、ヨーロッパやレヴァントにおいても現生人類が広範に拡散していった、と考えられています。ヨーロッパでは、初期オーリナシアン(Aurignacian)が出現します。レヴァントでは前期アハマリアンが分布しています。これらは現生人類が担い手と一般には認められており、ネアンデルタール人の消滅(現生人類への同化吸収も想定されます)よりも後の時期になるか、その最後の過程と考えられます。アフリカでは東部でも南部でもLSA的石器文化が分布します。アフリカ北部では、ルヴァロワ方式ではなく角錐状石核からの石刃製作を特徴とする石器群が出現します。

 第5期のヨーロッパにおいて、象徴行動の痕跡と考えられる、骨角器・装飾品・楽器・彫刻品・壁画などが顕著に発達します。これを「創造の爆発」として把握し、「上部旧石器革命」と位置づける見解も提示されています。一方、レヴァントの前期アハマリアンやアフリカ北部では、そうした象徴行動の考古学的痕跡が希薄です。アフリカの東部と南部では、第4期に出現したLSA的伝統に伴うビーズや骨器が継続します。



 本書はこのように、アフリカとレヴァントを中心に20万~4万年前頃までの石器技術や象徴行動の変遷を概観しています。それを踏まえたうえで本書は、現生人類が出アフリカを果たして世界各地へと進出する過程で、他系統の先住人類を(同化吸収も含めて)絶滅に追いやった要因としてよく指摘される技術・行動の違いを、どこまで考古学的に証明できるのか、検証しています。

 現生人類の出アフリカは中期石器時代のことと推測されているため、中期石器時代の石器技術・社会構造・象徴行動が注目されてきました。この20年ほどの発掘・研究の進展により、アフリカにおける「技術や行動の先行性」が盛んに主張されるようになりました。それらは、ユーラシアに先行する組み合わせ道具・複雑な骨器技術や、石材の広域分布や多様な食資源に示される社会行動や、顔料・ビーズなどの象徴行動の痕跡といったものです。これらは「現代人的行動」と解釈されるものであり、現生人類の起源は生物学的にも文化的にもアフリカに求められる、というわけです。

 しかし本書は、そうした見解が現生人類とネアンデルタール人という異なる2集団を想定し、それぞれの概略的特徴を比較していることに問題があるのではないか、と指摘します。両者ともに時空間的には広範に存在していたわけですから、各集団内での変異が大きいのではないか、というわけです。たとえば、ネアンデルタール人にも象徴行動の痕跡や多様な食資源の利用が認められますし、「現代人的行動」の特徴が当てはまらない現生人類の文化は、地理的にも年代的にも広範に存在していました。

 また、「先進的」とされるアフリカの中期石器時代の諸要素にしても、そのまま継続した事例は少ないので、中期石器時代の現生人類の文化・行動を、そのまま現生人類の世界各地への拡散の要因と考えることは難しいのではないか、というわけです。ただ、アフリカの初期現生人類とネアンデルタール人などユーラシアの先住人類との間に行動・文化面で違いがあって当然とも言えるので、重要なのは、現生人類が出アフリカを果たしてそうした先住人類と遭遇した時に、どのような行動・文化だったのかということと、それらが先住人類とどう違っていたのか、ということです。

 そこで重要となるのが、アフリカ東部の中期石器時代後半~後期石器時代初頭です。上述した石器技術の事例のように、アフリカ東部では、中期石器時代の「現代人的行動」と解釈される行動が、後期石器時代まで連続していたことが確認されています。また、アフリカ東部における後期石器時代の始まりは、アフリカ南部よりも早いと推定されています。遺伝学でも、非アフリカ系現代人のミトコンドリアDNAの系統は、アフリカ東部で8万~6万年前頃に出現したと推定されているハプログループL3から派生したことから、現生人類の拡散に関しては中期石器時代のアフリカ東部が注目されます。

 この時期のアフリカ東部のインダストリーであるムンバ伝統やナサンポライ伝統に類似した非アフリカ地域のインダストリーとしては、南アジアの細石器群があります。これらの年代は、45000年以上前までさかのぼる、とも言われています(関連記事)。また、南アジアではダチョウ卵殻や貝のビーズも確認されており、石器技術と装身具の両側面において、アフリカのムンバ伝統やハウィソンズプールトとの類似性が指摘されています。

 こうした南アジアの細石器技術と装身具は、突如として出現したように見えます。そのため、在来技術の発展形というより、アフリカ東部からの伝播と考えるほうがよいかもしれません。ただ、南アジアとアフリカ東部との間に類似した考古記録が確認されていないことが問題となります。これは、現生人類が海岸沿いにアフリカから南アジア、さらには東南アジアへと進出したと考えると、現在ではその経路は海面下にあるということで、説明可能になると言えるかもしれません。

 しかし、そうだとしても、この時期のイラン南西部には、中部旧石器文化~上部旧石器文化へと続く(ザグロスムステリアン~前期バラドスティアンなど)、アフリカ東部や南アジアとは異なる石器伝統が存在するので、細石器技術を携えた現生人類がアフリカ東部から南アジアへと進出したとしても、その範囲は狭かったと考えられます。ヨーロッパ南部のウルツィアン伝統を特徴づける三日月形や台形の背付石器は、アフリカ東部の中期石器時代後半~後期石器時代の石器と類似する、とも指摘されています。しかしここでも、両地域の広範な中間地帯には異なる石器伝統が存在する、という問題があります。なお、ウルツィアンの担い手については、まだ議論が続いているようです。

 このように、中期石器時代~後期石器時代の移行期にかけて、アフリカ東部から南アジアや南ヨーロッパへと現生人類が進出した可能性が指摘されています。しかし、そうだとしても、それは現生人類の非アフリカ地域への拡散の一部かもしれません。アフリカ東部からアラビア半島を経て南アジアなど東方へと移住する経路とともに、アフリカ北東部からシナイ半島を経てレヴァントへと移住する経路も想定され得ます。またそもそも、現生人類の拡散には多様な環境への適応が伴っていたはずですから、移住元の文化が移住先に継承されているような拡散は一部なのかもしれない、とも考えられます。ただ、本書は、考古記録の広域比較や文化伝播論の意義をはじめから否定するのは、角を矯めて牛を殺すようなものだ、と指摘しています。


 現生人類の拡散の起源やその要因の解明にさいして、アフリカ東部の中期石器時代~後期石器時代の移行期は重要だと考えられますが、現時点ではその考古記録が限定されていることも確かなので、新たな遺跡調査とこれまでの考古記録の再評価が必要になります。そこで本書は、ケニアの東海岸に位置するムトングウェ(Mtongwe)遺跡の考古記録を検証していきます。ムトングウェ遺跡では、名古屋大学により、1975年~1989年にかけて8回の考古・地質調査が行なわれました。

 ムトングウェ遺跡では3つの文化層が確認されています。最下層となる第1インダストリーは、ハンドアックス・大型剥片・削器・石核削器を含んでおり、アシューリアン(アシュール文化)の中期~後期とされています。その上層の第2インダストリーは、小型化した両面調整石器・ルヴァロワ石核および剥片・円盤型石核を含んでおり、アシューリアン後期~その「発展形態の一様相」とされています。

 第3インダストリーは、ルヴァロワ石核・剥片や、石刃・細石刃およびその石核や、細石刃を素材とした幾何学形細石器や背付細石刃を含みます。この第3インダストリーでは、ルヴァロワ石核・剥片の比率が高い下層から、石刃・細石刃や背付細石刃・幾何学形細石器の比率の高い中層・上層への変化が確認されています。この層位的変化は、アフリカ東部における中期石器時代から後期石器時代への石器技術の変化の一部と整合的です。このように、第3インダストリーは石器技術的には中期石器時代後半~後期石器時代初頭に相当すると考えられ、地質学的見地とも整合的です。

 細石刃製作を土台とする背付石器や幾何学形石器が製作されていることを特徴とするムトングウェ遺跡第3インダストリーと類似した石器群には、上述した南アジアの細石器群や南ヨーロッパのウルツィアンがあります。ただ、南アジアの細石器群や南ヨーロッパのウルツィアンに見られるビーズや骨器に関しては、アフリカ東部においては、エンカプネヤムト遺跡やムンバ遺跡でダチョウ卵殻製のビーズが発見されているものの、骨器は報告されていません。しかしこれに関しては、保存条件の影響が検討されなければなりません。

 近年の古気候の研究では、55000~50000年前頃、アフリカ南部・北部が乾燥していたのに対して、アフリカ東部は比較的湿潤だった、との見解が提示されています。この時期に石器技術の変化が起きていたとすれば、好適環境下において人口が増え、技術や文化の革新と定着が促進されるという文化進化モデルに合うようにも見えます。またムトングウェ遺跡では水産資源の利用も可能であり、高い人口密度を維持する潜在力のある地域の一部と見込まれる、との見解もあります。このように、現生人類の出アフリカの解明にあたって、ムトングウェ遺跡の研究は重要な役割を果たすと期待されます。



 本書は最後に、現生人類はアフリカで誕生した当初から他地域の人類よりも適応的な技術や行動を有しており、それらが出アフリカ集団へと継承された、ということを示す明らかな証拠は現時点ではない、とまとめています。それ故に、現生人類の出アフリカの起源・要因を解明するには、それに直接関わる時期・場所の行動と文化を調べることが重要だ、と提言する本書は、アフリカ東部の中期石器時代後半~後期石器時代初頭の諸遺跡の重要性を指摘しています。

 上述したように、本書は現生人類の出アフリカの起源・要因について、「派手な」議論を展開するわけではなく、その検証のための考古記録の整理・検証におおむね徹している、と言えるでしょう。これは地味な作業と言えるかもしれませんが、必須であることも間違いありません。すでに著者の他の論文も何本か読んでいたとはいえ、広範な地域・年代を対象とする本書を読んで改めて情報を整理できたところが多々あり、たいへん有益でした。

 私は、何事にたいしてもなるべく客観的な見方を貫こうと心掛けてはいるものの、勉強不足と心の弱さもあり、つい特定の見解に傾いてしまうことが多々あります。現生人類の出アフリカに関しても、正直なところ、アフリカにおける「技術や行動の先行性」を強調する見解にかなり惹かれており、このブログでもそうした見解を前面に出してきたことは否定できません。本書を読み、自身の偏りと勉強不足を改めて痛感した次第です。現生人類の出アフリカは、私にとってとくに関心の高い問題でもあるので、今後もできるだけ研究動向を追いかけていくつもりです。



参考文献:
門脇誠二(2014A)『ホモ・サピエンスの起源とアフリカの石器時代 ムトングウェ遺跡の再評価』(名古屋大学博物館)

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