『天智と天武~新説・日本書紀~』第55話「定恵帰国」

 『ビッグコミック』2015年1月10日号掲載分の感想です。前号では休載だったので、一ヶ月振りに最新話を読めることになり、今回までたいへん長く感じられました(笑)。前回は、大海人皇子の声望が高まり、すでに大海人皇子を殺せない状況になってしまったことに中大兄皇子と中臣鎌足(豊璋)が気づく、というところで終了しました。今回は、切歯扼腕している中大兄皇子を鎌足が宥めているところに、唐の軍艦が迫っている、との報告が届くところから始まります。

 鎌足の説明で、前年春に唐の辺境の役人が派遣してきた使者を追い返していたことが明らかにされます。作中ではこの時点で665年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)晩秋の頃だと思われますので、この使者とは、百済で鎮将を務めた唐の劉仁願から倭(日本)に派遣された郭務悰のことなのでしょう。ただ『日本書紀』によると、郭務悰は書状と献上品を携えており、鎌足が郭務悰に品物を贈り、饗応されたとありますので、倭政権が郭務悰を追い返したわけではないようです。

 今回派遣されてきた劉徳高は唐の高宗からの「正式な」使者であり、兵500人を伴っている、と中大兄皇子が明かすと、戦争が始まるのではないか、と群臣も女官(あるいは中大兄皇子の妻たち?)も動揺します。中大兄皇子は、攻めてくるとは書かれていないから鎮まれ、この宴は何のための祝いだ、守りは固いから案ずるな、そんな弱腰でどうするのだ、と群臣を一喝します。群臣はやや落ち着いたものの、不安は拭えないようです。中大兄皇子が、この使者を拒むわけにはいかないので、飛鳥京に入れざるを得ないだろう、と鎌足に言うと、鎌足も同意します。

 中大兄皇子はさらに、唐からの使者ら通訳を兼ねて随行している案内人が興味深い、と鎌足に話しかけます。それは、定恵(真人)という若い大和人の僧でした。唐に修行に行かせた息子ではないのか、と中大兄皇子に問われた鎌足は、息子なのか定かではない、と答えます。すると中大兄皇子は愉快そうに、確かめて息子であったなれば12年振りの再会でさぞ嬉しかろう、心ゆくまで語り合うがよい、と鎌足に言います。しかし鎌足の方は、憂鬱な表情を浮かべます。

 このやり取りを黙って見ていた大海人皇子は、自邸で鵲に自分の考えを打ち明けます。定恵は孝徳帝の御落胤かもしれないということで、中大兄皇子は警戒していました。中大兄皇子の猜疑心をよく知る鎌足は、大海人皇子の助けを得て定恵を出家させ、遣唐使の一員として唐で修行させることにより、中大兄皇子から愛息を守ろうとしました。大海人皇子の方は、中大兄皇子と鎌足の仲を引き裂くことができるかもしれないということで、定恵を唐に逃がしたのでした。

 鵲は、せっかく大海人皇子が唐に逃がした定恵が帰国したことを憂慮します。唐の使者を連れてきた案内役だから売国奴と言われかねない、と大海人皇子が言うと、中大兄皇子は笑って鎌足に息子との再会を許したのでは?と鵲が訪ねます。しかし大海人皇子は、それは中大兄皇子の本意ではなく、定恵を殺す気だ、と答えます。中大兄皇子は、鎌足が愛息の命を差し出すほどの忠臣手足となり得るのか、試すつもりなのだ、と大海人皇子は推測します。

 大海人皇子への対処を誤って声望を高めてしまい、殺せなくなったことで、中大兄皇子も鎌足も内心では穏やかではないところに、あるいは帝位を狙えるかもしれない定恵が帰国しました。中大兄皇子からすると定恵は邪魔者でしかなく、鎌足にとっても帰国されては困る存在なので、その厄介者たる定恵を生かしておけば、中大兄皇子と鎌足の間に亀裂が生じて疑心暗鬼に陥るだろう、と大海人皇子は計算していました。今回も定恵を助けて、中大兄皇子と鎌足の間に綻びを生じさせよう、というわけです。大海人皇子から真意を聞かされた鵲は、久々に底意地悪い本性が出た、と呟きます。

 同じ頃、中大兄皇子は自邸に百済からの亡命貴族である鬼室集斯を呼んでいました。鬼室集斯は鎌足(豊璋)に粛清された鬼室福信の同族と考えられていますが、作中では鬼室福信の息子とされています。父の敵を討ちたくはないか、と鬼室集斯に問いかけた中大兄皇子は、ただし鎌足は自分の手足なので今は殺してはならない、その代わりに最愛の息子を討てば鎌足に一生続く苦しみを与えられるだろう、と唆します。相変わらずの中大兄皇子の冷酷さがよく表れています。『藤氏家伝』によると、665年12月23日、定恵はその才能を妬んだ百済の士人により毒殺されました。豊璋と鎌足が同一人物であり、鬼室集斯が鬼室福信の息子である、という創作(後者は事実かもしれませんが)を上手くつなげて物語を作っているな、と思います。

 劉徳高たち唐から派遣された使者は、飛鳥の近くにまで来ていました。なお、『日本書紀』によると、このなかに前年も倭に派遣された郭務悰もいました。船上にて定恵は、唐には消息不明と伝わっている父の鎌足が自分を出迎えてくれるものだと確信していました。帰国することを心待ちにしていた定恵は、父に再会できるということで感無量のようです。定恵の登場はじつに第11話以来で、連載の間隔では2年弱振りとなります。私が本作の存在を知って読み始めたのがその直前だったので、もう2年近く経過したのか、と感慨深くもあります。

 定恵は劉徳高にしたがって飛鳥の後岡本宮に赴きます。定恵は、群臣の中に父の鎌足を探し、それらしい人物を見つけて一瞬喜びますが、よく見ると別人だったので、ぬか喜びに終わります。定恵は父を見つけることに気を取られてしまい、劉徳高の言上を訳すことが疎かになってしまったので、唐からの使者の一人に早く訳すよう促されます。定恵に注意したこの使者が、あるいは郭務悰なのかもしれません。郭務悰は後に天智(中大兄皇子)朝末年にも倭を訪れます。

 劉徳高は、唐の皇帝からの使者としてやって来て、中大兄皇子に拝謁できて光栄至極である、と伝えます。中大兄皇子は玉座?にて劉徳高たちを謁見しています。明示されていませんし、顔もはっきりとは描かれていないので断定はできないのですが、中大兄皇子の左側に控えているのが大海人皇子で、右側に控えているのが大友皇子のようです。今回、大友皇子らしき人物の発言はありませんでしたが、もし大友皇子だとすると、定恵ほど間隔が空いたわけではありませんが、こちらも第41話以来久々の登場となります。

 定恵が訳した劉徳高の言上では、「来年正月、唐の泰山にて(中略)帰国の参加を願いたく」とあります。おそらく、封禅の儀式のことなのでしょう。じっさい、高宗は666年に封禅の儀式を行なっています。謁見の儀が終わると、中大兄皇子は劉徳高と親しく話します。中大兄皇子は劉徳高に、飛鳥にはどれくらい滞在の予定なのか、と尋ねます。飛鳥は紅葉もよいが、雪もなかなかだ、というわけです。二人の会話は唐の言葉で行なわれており、唐の言葉が上手なので通訳は必要なかったようですね、と劉徳高は言います。中大兄皇子は唐の言葉を話せた、という設定のようです。作中では色々と無様なところを見せている中大兄皇子ですが、やはり優秀な頭脳の持ち主ということなのでしょう。

 すると中大兄皇子は、とても優秀な通訳だと感心しました、と答えます。相変わらず父を探すことに気を取られていた定恵は、お褒めに与ったぞ、と劉徳高から言われ、慌てて中大兄皇子に礼を申します。中大兄皇子は、自分にも優秀な側近がいるので紹介しましょう、と言って鎌足を呼びます。ついに父の鎌足と再会できた定恵は涙を浮かべて喜びますが、鎌足の方は厳しく冷酷な表情を浮かべています。その様子を見た定恵が不安な表情を浮かべるというところで、今回は終了です。


 今回は、定恵の帰国と、定恵を中大兄皇子が殺そうとし、鎌足がそれを察知して苦悩する一方で、大海人皇子が定恵を助けようとするところまで描かれました。ここまでは私の予想通りなのですが、今後、定恵が大海人皇子に匿われて生き延び、粟田真人として後半生を生きる、という私の予想通りの展開になるのか、それとも通説にしたがって定恵は殺されることになるのか、注目されます。私の予想通りになった場合、大宝律令制定直後の遣唐使の最高責任者(執節使)として定恵が唐で高く評価された様子も、どこかで挿入してもらいたいものです。

 おそらく、白村江の戦いの後に鎌足は行方不明になった、と唐には伝わっていたでしょうから、定恵は何としても父の安否を確認したくて、唐から倭への使者の一行に通訳として加わったのでしょう。定恵が父を案ずる気持は、今回よく描かれていたと思います。一方、愛息の定恵の身を案じる鎌足は、定恵と再会しても厳しく冷たい表情を浮かべたままです。次回を読んでみないと鎌足の意図は分かりませんが、唐側に自分が豊璋と同一人物だと悟られたくないということだけではなく、定恵は息子でないと主張して、定恵を中大兄皇子から守ろうとしているのかもしれません。

 大海人皇子が定恵を匿うとしたら、定恵の異母弟の史(不比等)の時と同じく、大海人皇子の父方祖父である蘇我毛人(あくまでも作中での設定ですが)が造った隠れ里でしょうか。鎌足は史がどこに匿われているのか、以前は知らなかったようですが、今はどうなのでしょうか。中大兄皇子は、朝鮮半島からの帰国の船中で史が大海人皇子に匿われていたことを初めて知りましたが、どこに匿われたかまでは知らないようです。ただ、中大兄皇子も鎌足も、「巡り物語」にて蘇我毛人が造った隠れ里のことを大海人皇子から聞いています。

 中大兄皇子のことですから、それがどこなのか、調べさせていることでしょう。665年秋の時点で、中大兄皇子がその場所を突き止められているのか、明かされていませんが、声望の高まった大海人皇子を殺すのは難しい、と中大兄皇子は判断していますから、たとえ隠れ里を突き止めていたとしても、襲撃はしないのかな、と思います。それにしても、大海人皇子が重要な手札とも言える隠れ里のことを中大兄皇子と鎌足に明かすという話は、どうも失敗だったのではないか、と改めて思います。大海人皇子の乙巳の変以降の動向を説明するのなら、回想か大海人皇子と鵲との会話でよかったのではないか、と思うのですが。

 劉徳高の発言からすると、中大兄皇子は通説と同様に665年後半の時点でまだ即位していないようですが、作中では今のところその理由は説明されていません。母の斉明帝(皇極帝、宝皇女)の喪は、作中設定ではすでに明けています(崩御後1年間)。防衛体制の構築などで多忙であり、中大兄皇子が積極的に進めた朝鮮半島への出兵が大惨敗に終わったことから、再度群臣の支持を得て政治的権威を回復するまで即位は難しいと判断した、ということなのでしょうか。

 その中大兄皇子(天智帝)の後継をめぐる話もそろそろ気になるところですが、作中で本格的に描かれるのは近江遷都と中大兄皇子の即位後でしょうか。今回は、大友皇子が大海人皇子と同等かそれに近い地位にあると描かれていたこと(中大兄皇子の左右に控えていたのが大海人皇子と大友皇子だとして)も注目されます。665年の時点である程度以上の年齢に達していた中大兄皇子の近親の男性となると、大海人皇子(作中設定では数え年34歳)と大友皇子(数え年18歳)くらいでしょうから、母の身分が低いとはいえ、大友皇子が重用されたという設定でもよいのではないか、と思います。

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