加藤博文「シベリアにおける中期旧石器の系統をめぐって ─デレヴャンコ仮説の検討─」
本報告は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2010-2014「ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相:学習能力の進化にもとづく実証的研究」(領域番号1201「交替劇」)研究項目A01「考古資料に基づく旧人・新人の学習行動の実証的研究」の2011年度研究報告書(研究項目A01研究報告書No.2)に所収されています。公式サイトにて本報告をPDFファイルで読めます。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。
本報告は、アルタイ地域の研究を30年近くにわたり牽引してきた、デレヴャンコ(Anatoly Panteleevich Derevianko)博士の仮説を検証しています。デレヴャンコ説の特徴は、上部旧石器(Upper Paleolithic、後期旧石器)時代初頭の石器群の起源は在地の中部旧石器(Middle Paleolithic、中期旧石器)時代の石器群にさかのぼると想定していることであり、中部旧石器時代から上部旧石器時代への石器製作技術の変化は連続的で緩やかであり、集団交替を伴うような急激なものではなかった、とされています。
こうした見解から容易に推測できるように、デレヴャンコ説は現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説に批判的です。その根拠としてまず、現生人類の出現は15万年前頃にまでさかのぼるとされているのに、上部旧石器的石器群が現生人類と有機的に結びついて出現するのが5万~4万年前頃まで遅れることと、ユーラシア各地の上部旧石器時代初頭の石器群には技術的にも型式学的にも類似性が見られない、ということが指摘されています。
次に、アフリカから世界各地への拡散行動の前提となるアフリカ内における人口増について、平均寿命が25才を超えないと想定される集団において、果たして現実的な推定なのか、と疑問が呈されています。また、現生人類集団のアフリカ各地での出現年代が、南部で4万年前頃・中央部や西部で3万年前頃・北部では5万年前頃以降なのに、オーストラリア大陸(当時はサフルランド)では6万~5万年前頃と突出して古いことにも疑問が呈されています。
さらに、現生人類アフリカ単一起源説が妥当ならば、東南アジアから東アジアにおいて8万~3万年前頃にかけて急激な石器製作伝統の交替が想定されねばならないのに、その時期の該当地域の石器群に変化は乏しい、と指摘されています。確かに、東南アジア島嶼部においては、現生人類とそれ以外の人類との間で石器製作技術を明確に区分しにくい、との見解も提示されています(関連記事)。
ただ、各地の石器製作技術の関係についての評価は難しいので、現状では判断を保留せざるを得ないとしても、上部旧石器的石器群の出現が現生人類の誕生よりもかなり遅れることは別に不思議ではないでしょうし、断片的な人骨なので評価に難しいところはあるにしても、アフリカ南部に10万年前頃には現生人類が存在していたことはほぼ確実でしょう。また、現生人類はレヴァントにも遅くとも10万年前頃には進出していました。さまざまな証拠から、現生人類アフリカ単一起源説の妥当性は基本的には今後も揺るがないだろう、と思います。
しかしデレヴャンコ説では、上記のような疑問点から、現生人類多地域進化説的な見解が採用されています。現生人類は20万~10万年前頃にアフリカからユーラシアにかけて出現し、それぞれ文化的にも生物学的にも異なる集団を起源としている、というわけです。デレヴャンコ説では、各地で現生人類の母胎となった人類集団は、エレクトス(Homo erectus)的な種だったのではないか、と推測されています。
文化的にも生物学的にも異なる各地域集団は、アフリカ、東アジアと東南アジアを含めたシノマレーシア地域、中東・西ヨーロッパ・バルカン地域・中央アジア・北アジアを含むユーラシアを横断する広大なベルト地帯の3地域に区分される、というのがデレヴャンコ説の見解です。各地域においてそれぞれ、エレクトス的な人類集団から現生人類が進化したため、文化的にも連続性が見られる、というわけです。このうち、山地アルタイ地域については、80万年前頃に人類が進出したものの、環境変化により撤退するか絶滅し、30万年前頃に新たな(エレクトス的な)古代型ホモ属の集団がルヴァロワ技術や平行剥離技術で特徴づけられるインダストリーを生み出した、と想定されています。
ここからさらに、シベリア南部に30万年前に出現したインダストリーについて、東アジアや東南アジアの同段階の石器群と技術形態学的に異なり、西アジアのインダストリーと比較できるのではないか、と指摘されています。ただ、現時点ではアルタイ地域とレヴァントとの中間地帯が資料的に空白であることも認められています。それでも、アルタイ地域の中部旧石器時代初頭の石器群の起源として、現時点では西アジアの後期アシューリアン(アシュール文化)を想定するのが妥当だろう、と主張されています。
この後シベリア南部では、デニソワ洞窟において10万~9万年前頃の層から上部旧石器的な石器が出現し始めます。この傾向は、同じく山地アルタイ地域の開地遺跡であるウスチカラコル1やカラボムでも確認されています。10万~9万年前頃の層から上層に向かうにつれて、中部旧石器的石器群と上部旧石器的石器群の比率とが逆転し、6万~5万年前頃以降には、石刃石核や細石刃石核の数が増加していきます。デレヴャンコ説では、この段階でルヴァロワ技術を基礎として押圧剥離技術の発達が確認される、と主張されています。
こうして南シベリアにおいて上部旧石器的文化が定着していくなかで、そのなかに中部旧石器のムステリアン様相の強い石器群が存在することも指摘されています。それはシビリャチーハ(Sibiryachikha、シビリチーハ)インダストリーです。比較的狭い領域内に中部旧石器的要素の強い石器群と上部旧石器初頭の石器群が「共存」していた状況の解釈として、場の機能の違いによるとする見解と、異なる人類集団の共存を想定する見解があります。デレヴャンコ説では後者が採用されており、上部旧石器の担い手は現生人類で、シビリャチーハインダストリーの担い手はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と想定されています。
なお本報告では、デレヴャンコ説というかロシアにおける旧石器考古学研究の問題点として、「インダストリー」という概念が「文化」や「様相」と混在して使用されることが多い、と指摘されています。そのため、各地における考古学的記載が共通の概念基盤に立っているのか個別に検討する必要がある、というわけです。さらに、旧石器研究において地域ごとに研究が深められることがあっても、地域を越えての比較研究の伝統がないため、距離的に離れた石器群の系統性や共通性の比較研究の障害になっている、とも指摘されています。
参考文献:
加藤博文(2012)「シベリアにおける中期旧石器の系統をめぐって ─デレヴャンコ仮説の検討─」『ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相:学習能力の進化にもとづく実証的研究 考古資料に基づく旧人・新人の学習行動の実証的研究2011年度研究報告書(No.2)』P25-31
本報告は、アルタイ地域の研究を30年近くにわたり牽引してきた、デレヴャンコ(Anatoly Panteleevich Derevianko)博士の仮説を検証しています。デレヴャンコ説の特徴は、上部旧石器(Upper Paleolithic、後期旧石器)時代初頭の石器群の起源は在地の中部旧石器(Middle Paleolithic、中期旧石器)時代の石器群にさかのぼると想定していることであり、中部旧石器時代から上部旧石器時代への石器製作技術の変化は連続的で緩やかであり、集団交替を伴うような急激なものではなかった、とされています。
こうした見解から容易に推測できるように、デレヴャンコ説は現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説に批判的です。その根拠としてまず、現生人類の出現は15万年前頃にまでさかのぼるとされているのに、上部旧石器的石器群が現生人類と有機的に結びついて出現するのが5万~4万年前頃まで遅れることと、ユーラシア各地の上部旧石器時代初頭の石器群には技術的にも型式学的にも類似性が見られない、ということが指摘されています。
次に、アフリカから世界各地への拡散行動の前提となるアフリカ内における人口増について、平均寿命が25才を超えないと想定される集団において、果たして現実的な推定なのか、と疑問が呈されています。また、現生人類集団のアフリカ各地での出現年代が、南部で4万年前頃・中央部や西部で3万年前頃・北部では5万年前頃以降なのに、オーストラリア大陸(当時はサフルランド)では6万~5万年前頃と突出して古いことにも疑問が呈されています。
さらに、現生人類アフリカ単一起源説が妥当ならば、東南アジアから東アジアにおいて8万~3万年前頃にかけて急激な石器製作伝統の交替が想定されねばならないのに、その時期の該当地域の石器群に変化は乏しい、と指摘されています。確かに、東南アジア島嶼部においては、現生人類とそれ以外の人類との間で石器製作技術を明確に区分しにくい、との見解も提示されています(関連記事)。
ただ、各地の石器製作技術の関係についての評価は難しいので、現状では判断を保留せざるを得ないとしても、上部旧石器的石器群の出現が現生人類の誕生よりもかなり遅れることは別に不思議ではないでしょうし、断片的な人骨なので評価に難しいところはあるにしても、アフリカ南部に10万年前頃には現生人類が存在していたことはほぼ確実でしょう。また、現生人類はレヴァントにも遅くとも10万年前頃には進出していました。さまざまな証拠から、現生人類アフリカ単一起源説の妥当性は基本的には今後も揺るがないだろう、と思います。
しかしデレヴャンコ説では、上記のような疑問点から、現生人類多地域進化説的な見解が採用されています。現生人類は20万~10万年前頃にアフリカからユーラシアにかけて出現し、それぞれ文化的にも生物学的にも異なる集団を起源としている、というわけです。デレヴャンコ説では、各地で現生人類の母胎となった人類集団は、エレクトス(Homo erectus)的な種だったのではないか、と推測されています。
文化的にも生物学的にも異なる各地域集団は、アフリカ、東アジアと東南アジアを含めたシノマレーシア地域、中東・西ヨーロッパ・バルカン地域・中央アジア・北アジアを含むユーラシアを横断する広大なベルト地帯の3地域に区分される、というのがデレヴャンコ説の見解です。各地域においてそれぞれ、エレクトス的な人類集団から現生人類が進化したため、文化的にも連続性が見られる、というわけです。このうち、山地アルタイ地域については、80万年前頃に人類が進出したものの、環境変化により撤退するか絶滅し、30万年前頃に新たな(エレクトス的な)古代型ホモ属の集団がルヴァロワ技術や平行剥離技術で特徴づけられるインダストリーを生み出した、と想定されています。
ここからさらに、シベリア南部に30万年前に出現したインダストリーについて、東アジアや東南アジアの同段階の石器群と技術形態学的に異なり、西アジアのインダストリーと比較できるのではないか、と指摘されています。ただ、現時点ではアルタイ地域とレヴァントとの中間地帯が資料的に空白であることも認められています。それでも、アルタイ地域の中部旧石器時代初頭の石器群の起源として、現時点では西アジアの後期アシューリアン(アシュール文化)を想定するのが妥当だろう、と主張されています。
この後シベリア南部では、デニソワ洞窟において10万~9万年前頃の層から上部旧石器的な石器が出現し始めます。この傾向は、同じく山地アルタイ地域の開地遺跡であるウスチカラコル1やカラボムでも確認されています。10万~9万年前頃の層から上層に向かうにつれて、中部旧石器的石器群と上部旧石器的石器群の比率とが逆転し、6万~5万年前頃以降には、石刃石核や細石刃石核の数が増加していきます。デレヴャンコ説では、この段階でルヴァロワ技術を基礎として押圧剥離技術の発達が確認される、と主張されています。
こうして南シベリアにおいて上部旧石器的文化が定着していくなかで、そのなかに中部旧石器のムステリアン様相の強い石器群が存在することも指摘されています。それはシビリャチーハ(Sibiryachikha、シビリチーハ)インダストリーです。比較的狭い領域内に中部旧石器的要素の強い石器群と上部旧石器初頭の石器群が「共存」していた状況の解釈として、場の機能の違いによるとする見解と、異なる人類集団の共存を想定する見解があります。デレヴャンコ説では後者が採用されており、上部旧石器の担い手は現生人類で、シビリャチーハインダストリーの担い手はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と想定されています。
なお本報告では、デレヴャンコ説というかロシアにおける旧石器考古学研究の問題点として、「インダストリー」という概念が「文化」や「様相」と混在して使用されることが多い、と指摘されています。そのため、各地における考古学的記載が共通の概念基盤に立っているのか個別に検討する必要がある、というわけです。さらに、旧石器研究において地域ごとに研究が深められることがあっても、地域を越えての比較研究の伝統がないため、距離的に離れた石器群の系統性や共通性の比較研究の障害になっている、とも指摘されています。
参考文献:
加藤博文(2012)「シベリアにおける中期旧石器の系統をめぐって ─デレヴャンコ仮説の検討─」『ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相:学習能力の進化にもとづく実証的研究 考古資料に基づく旧人・新人の学習行動の実証的研究2011年度研究報告書(No.2)』P25-31
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