『天智と天武~新説・日本書紀~』第54話「吮疽の仁」
『ビッグコミック』2014年12月10日号掲載分の感想です。たいへん残念なことに、次号は休載となります(とくに告知はありませんでしたが、次号予告に掲載されていなかったので、休載だと思います)。次回を読めるのが一ヶ月先とは、心理的には随分待たされるといった感じです。単行本第6集の表紙が公開され、粗い画像なのではっきりとは見えませんでしたが、どうも中大兄皇子・大海人皇子兄弟のようです。第6集で初めて、単行本の表紙の人物が服を着ていることになりそうです。やはり、裸の人物の表紙は評判が悪かったのでしょうか。
前回は、中臣鎌足は厄介な手足になりそうだ、と大海人皇子が懸念しているところで終了しました。今回は、664年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)春、蘇我石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により新羅の仏師が制作した蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)の前で、大海人皇子が決意を表明する場面から始まります。仏像は洞窟に安置されているようで、鵲が洞窟の入り口で見張っています。
大海人皇子は仏像の前で、無事に生還できたことを父の入鹿に感謝します。大海人皇子は、父母をともに殺した憎むべき敵のる中大兄皇子を殺せず、中大兄皇子はその大海人皇子の心を見透かして嘲笑しました。大海人皇子は、わずかな繋がりでも求めようとした自分が愚かだったと語り、もう迷わない、そうした未練は金輪際断ち切って復讐に邁進するので見ていてください、と父を模した仏像の前で決意します。その時、近くの木に雷が落ち、大海人皇子は迷いを吹き払った迫力のある表情を浮かべます。
665年秋、後岡本宮では、長門に続いて大野と椽にも山城が完成したとの報告を受けた中大兄皇子が、唐からの攻撃があってもひとまずかわすことでできるな、と言って上機嫌です。前年には対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、烽(狼煙)に加えて水城も完成したので、筑紫の防衛体制は万全といっても過言ではない、と官人は報告します。中大兄皇子は、おもに亡命百済貴族など工事に尽力した者たちに労いと褒美を与えるよう、指示します。
すると大海人皇子が、白村江の戦いに続いての労役で負担の計り知れない地方豪族の民にも恩恵を与えてしかるべきだ、と中大兄皇子に進言します。すると中大兄皇子は、まだ防衛拠点を築かねばならず労役は続くのに、いちいち木端まで褒美を与えていては金がいくらあっても足りない、と言って大海人皇子の進言を一蹴します。中大兄皇子はつい、今いる都こそ危ないのだ、と呟いてしまいます。これは約一年半後の近江遷都の伏線でしょうか。
ともかくそこまで手が回らないのだから、それほどまでに言うのなら、お前が資材を投じて何なりと与えればよいではないか、と中大兄皇子は大海人皇子を突き放します。すると大海人皇子は、承知いたしました、と言ってとくに反論することもなく引き下がります。中大兄皇子は、筑紫の要塞の完成を祝って翌日宴を開く、と伝えて会議を終了させます。群臣は、宴は何年振りだろう、と言って浮かれています。中大兄皇子に食い下がるでもなく退出する大海人皇子を、中臣鎌足(豊璋)は鋭く観察していました。
鎌足は中大兄皇子を呼び止め、二人きりで話そうとします。我々は大海人皇子のことを見誤ったかもしれない、と鎌足は中大兄皇子に言います。しかも、すでに手遅れかもしれない、と鎌足は言います。防衛計画を優先するあまり、大海人皇子を便利に使いすぎたので、このままでは大海人皇子を呉起にしてしまう、というわけです。ここで鎌足は、今回の表題にもなっている『史記』「孫子呉起列伝第五」の呉起の故事「吮疽の仁」を説明します。
衛出身の呉起(紀元前5世紀後半?~紀元前4世紀前半の人)は魯で仕官したものの解任され、魏に赴いて文侯に仕え、軍功をあげます。呉起は将軍でありながら兵士と衣食・寝所を同じくし、徒歩で行軍して自分の兵糧は自ら携帯し、兵士と苦労を分かち合った、と伝わっています。また、この時の逸話として、兵士の疽(腫れ物)を吸(吮)って膿を出してやった、というものがあります。この逸話は、呉起に膿を吸ってもらった兵士の母親が泣いた、と続きます。その兵士の父親も呉起に疽を吸ってもらって感激し、奮戦して討ち死にしたので、息子も呉起のためにどこかで討ち死にするだろう、と思って母親は嘆いたわけです。
呉起はこの後、魏の宰相の策略により文侯の後継者となった武侯に疑われて魏を去り、楚の悼王に仕えて功績をあげたものの、悼王の死後に呉起を恨んでいた有力者たちに殺害された、と伝わっています。呉起に関しては、たいへん酷薄な性格を示す逸話も伝わっていますが、正直なところ、かなり誇張されているか、創作である可能性も高いように思います。呉起は後世になって、孫子(孫武・孫臏)と共に代表的な兵家とされました。
「吮疽の仁」は究極の人心掌握術だ、と指摘する鎌足は、このまま大海人皇子を地方豪族の不満処理に使うのは、まるで呉起が兵士の膿を吸い出すかのような結果をもたらすので、即刻止めてください、と中大兄皇子に強く進言します。鎌足が警戒したように、大海人皇子の人望は高まりつつありました。瀬戸内のある村の長は、そんな大海人皇子の評判を聞きつけ、わざわざ都に出てきて、度重なる労役に病人・死人が絶えないので、せめて祈りの場があれば心の救いとなる、と懇願します。そんな村長にたいして、大海人皇子は慈悲深そうな表情を浮かべながら、寺院建立の実現のため力を貸しましょう、と約束します。
大海人皇子は資金援助をしているだけではなく、造営技術の提供や工人の派遣も行なっているようで、技術提供には亡命百済人が協力している、と鎌足は中大兄皇子に伝えます。しかし中大兄皇子は鎌足の忠告を軽く受け止めているようで、布教活動に余念がないとはさすが入鹿の息子だ、余裕の表情で冷笑します。しかし鎌足はなおも食い下がり、白村江の戦いから戻って以来、大海人皇子はどこか人が違ったように見えるので、処分するなら工事も一段落した今しかない、と中大兄皇子に進言します。
しかし中大兄皇子は鎌足の進言に冷淡で、何を焦っているのだ、殺すことはいつでもできる、防衛計画が整備されるまでの辛抱だ、と答えます。やらねばならないことが山積みなのだから煩わせるな、と言って中大兄皇子は鎌足に退出を促します。鎌足も、これ以上は無駄と判断したのか、引き下がりますが、そのさいに一言だけ忠告を付け加えます。声望が高まれば高まるほど殺しにくくなる、というわけです。しかし中大兄皇子は、それに応えようとはせず、黙って鎌足が退出するのを見ているだけでした。
翌日、宴が開かれ、中大兄皇子も群臣も上機嫌のようです。中大兄皇子の妻らしき女性の一人(それなりに身分が高そうなので、阿倍内麻呂の娘か蘇我赤兄の娘かもしれません)が、筑紫の大野城は立派とのことなので一度見てみたい、と言うと、見るのはよいが、それを使わなければならなくなると笑ってなどいられないぞ、と中大兄皇子は上機嫌で言います。まあ怖い、とその女性が言うと、やはり中大兄皇子の妻の一人らしい女性が、怖いと言えば難工事で逃げ出す役夫も多かったそうで、と言います。
そこへ額田王が現れ、その難局を大海人皇子が乗り切ったと聞いている、と言います。額田王は第33話以来久々の登場となります。役夫たちの心を鎮める寺院建立を陰ながら支えたそうで、さすがですわ、と額田王が言うと、中大兄皇子は不機嫌になり、そんな話をどこで聞いたのだ、と問い質します。すると額田王は、この宮殿を一歩出れば民の声が美しい歌のように聞こえてきます、と答えます。その歌とは、次のようなものでした。
東宮(大海人皇子)は生き神さまじゃ、われらの行く手を照らしてくださる、慈しみと寛容の御心で、民を見守り導いてくださる、あのお方は聖徳の神の御子じゃ、(誰かさんとえろう違うて!)
中大兄皇子は、声望が高まれば高まるほど殺しにくくなる、という鎌足の前日の忠告を思い出し、憎悪に満ちた表情を浮かべて大海人皇子を睨みます。すると、その中大兄皇子の視線に気づいた大海人皇子は、不敵な笑みを中大兄皇子に向けます。中大兄皇子は立ち上がって剣を抜こうとしますが、祝いの席だから、と言って鎌足が制止します。大海人皇子は何もかも計算して利用されていたのだ、と中大兄皇子が言い、我々はしてやられた、気づくのが遅すぎた、大海人皇子の声望は、もはや殺せないほどに高まっていたのだ、と鎌足が言うところで今回は終了です。
今回は、大海人皇子がこれまでの甘さを捨てて再度復讐に邁進する決意を固め、この作品の主題である「兄弟喧嘩」の新たな展開が始まりましたから、転機と言えるように思います。大海人皇子は、中大兄皇子との間にわずかなつながりを求めようとしたことは愚かだと気づいた、と述べています。大海人皇子は、父の入鹿存命時には異母兄の中大兄皇子に会いたがっていましたし、白村江の戦いの前に朝鮮半島に赴いて復興百済軍と新羅との講和を試みたものの失敗し、帰国して朝廷要人の前で報告したさいに、中大兄皇子のことを身内と言っていましたから(中大兄皇子の方は、大海人皇子を身内と思ったことはない、と言っていました)、中大兄皇子とは兄弟として互いに認め合いたい、という気持ちがずっとあったのだろう、と思います。
大海人皇子はそれを甘さ・愚かさとして切り捨て、中大兄皇子に復讐すると改めて強く誓ったわけですが、それが中大兄皇子(天智帝)の死まで続くのかというと、まだ紆余曲折がありそうな気がします。とくに気になるのは、大海人皇子にとってもう一人の復讐対象である鎌足との関係です。白村江の戦いの後、中大兄皇子と鎌足は、乙巳の変直前~大海人皇子が二人の前に現れるまでのように、再び強固な主従関係を築いたように思われます。ただ、中大兄皇子が鎌足(豊璋)に操られている感の否めなかった初期と比較すると、現在では、中大兄皇子が主導権を握っているように思われます。これが、中大兄皇子が「怪物」に成長した、ということなのでしょう。もっとも、宴で大海人皇子を殺そうとして鎌足に止められるところを見ると、中大兄皇子はあまり成長していないのかな、とも考えたくなります。
しかし予告は、「復讐を再決断!次号、大海人が鎌足最大の泣き所につけ込み・・・!?」となっているので、大海人皇子が強固な中大兄皇子と鎌足の関係を崩そうと画策するのではないか、と思います。そうすると、中大兄皇子と鎌足を対象とする大海人皇子の復讐も、また様相が変わってくるのかもしれません。鎌足最大の泣き所につけ込むということは、鎌足の息子の定恵(真人)・史(不比等)のことで大海人皇子が鎌足を脅すというか、子供に関することで子煩悩な鎌足と取引をするのではないか、と思います。
現在大海人皇子が直接生殺与奪権を握っているのは史ですから、史のことで大海人皇子が鎌足を脅迫するか揺さぶるのかもしれません。しかし、大海人皇子が史を匿っていることを承知しているはずの鎌足が、今回は大海人皇子を殺すよう、中大兄皇子に積極的に進言しているのですから、史のことで大海人皇子が鎌足を脅すような話にはならないのかな、とも思います。史の生殺与奪権を大海人皇子に握られている鎌足が、躊躇することなく大海人皇子に敵対的姿勢をとったのはやや不思議だったのですが、大海人皇子は自分を殺すことはあっても、自分の子供まで殺すことはない、と鎌足は大海人皇子を信用しているということでしょうか。
鎌足のもう一人の息子の定恵は665年秋に帰国していますから、次回描かれる「鎌足最大の泣き所」とは、定恵のことかもしれません。665年、唐は劉徳高・郭務悰ら254人を倭(日本)に派遣します。唐の使者は9月20日に筑紫に到着し、11月13日に供応され、12月に帰国しています。定恵は劉徳高一行の船で帰国したとされていますから、665年10月には都に帰還したのでしょう。『藤氏家伝』によると、665年12月23日、定恵はその才能を妬んだ百済の士人により毒殺されたそうです。
しかし作中では、定恵は大海人皇子に匿われて生き延び、粟田真人として後半生を生きるのではないか、と私は予想しています。作中での定恵(真人)の名前・人物像・出家して唐に渡ったという経歴は、粟田真人と重なります。次回、帰国した定恵は孝徳帝の御落胤かもしれないということで中大兄皇子に警戒され、殺されそうになるものの、大海人皇子が鎌足に何らかの条件を提示して定恵を匿う、というのが私の予想です。大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝(中大兄皇子)が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という有名な逸話も、そうした文脈で描かれるのではないか、と思います。
今回は前回の663年初冬から一気に665年秋まで進みました。防衛体制の構築に絡めて「兄弟喧嘩」が描かれたのは、歴史漫画としてなかなかよかったと思います。白村江の戦いでの惨敗により、復興百済軍救援を強硬に主張していた中大兄皇子の政治的権威が低下する一方で、終始慎重論を主張していた大海人皇子の政治的権威が上昇し、中大兄皇子も大海人皇子を政治的に無視・軽視できなくなって、大海人皇子が確固たる政治基盤を築いていき、甲子の宣もその文脈で描かれるのではないか、と私は予想していました。そのような流れで、壬申の乱での大海人皇子の勝利も描かれるのではないか、というわけです。
しかし今回は、防衛体制の構築のなかで人々の不満が募っていき、中大兄皇子がその処理に大海人皇子を起用することで、大海人皇子の声望が高まっていく、という流れになっていました。これは、歴史漫画としてなかなか上手い創作になっていたと思います。大海人皇子には天性の明るさ・優しさがあり、乙巳の変~斉明帝即位の頃までは庶民に近い生活を送っていたこともあってか、民に負担をかけるような政策にはたびたび反対してきました。地方豪族・民の苦境を救ったのは、もちろん大海人皇子の政治的計算でもあるのでしょうが、これまでに描かれてきた大海人皇子の人物像を活かしたものにもなっており、物語としての繋がりがしっかりしていてよかったのではないか、と思います。作中の大海人皇子は、政治家として確たる地位を築くことに成功した、と言えそうです。
ただ、一気に665年秋まで進んだため、甲子の宣が省略されたのは残念でした。また、665年秋ということは、間人皇女はすでに死んでいるわけで、間人皇女はついにまったく言及されることがありませんでした(大田皇女の埋葬のさいに、言及されるかもしれませんが)。間人皇女は中大兄皇子の同父同母妹というだけではなく、孝徳帝の皇后(大后)でもあったので、登場を希望していたのですが。この作品に間人皇女が登場しないのは、物語を分かりやすくするために人物を省略し、中大兄皇子の「禁断の関係」を入鹿(と大海人皇子)に絞るためなのでしょうか。もっとも、中大兄皇子と間人皇女との「禁断の関係」が事実だという確証はありませんが。
今回が665年秋ということは、667年2月以前の大田皇女の死も近いわけで、作中ではとくに病弱設定ではなく、むしろ健康そうな大田皇女の早い死がどう描かれるのか、注目されます。姉がいる限り自分は「第二の妻」に甘んじるしかない、と考えた妹の鸕野讚良皇女(持統天皇)が姉を毒殺する、といった展開になると嫌な感じですが・・・。現時点では、鸕野讚良皇女の人物像はあまり明らかになっていませんが、勝気ではあるものの、夫の大海人皇子・姉の大田皇女・祖母の斉明帝(皇極帝、宝皇女)から愛されて信頼されているようですから、姉を毒殺するといった展開にはならないかな、とは思うのですが。
今回注目されるのは、大海人皇子を慕う民の歌です。大海人皇子は東宮(皇太子)と歌われていますが、この時点ではまだ即位していない中大兄皇子が皇太子とされており、大海人皇子が皇太子となるのは中大兄皇子が即位した後のことです。もっとも、この時代に皇太子制が確立していたのか、疑わしいと言えるでしょうし、仮にすでに実質的な皇太子制が機能していたとしても、天智朝に大海人皇子が皇太子的な地位にいたのか、疑問が残ります。今回の描写は、中大兄皇子はすでに実質的な大君(天皇)なのだから、中大兄皇子の次に有力な皇族(王族)である大海人皇子は民の間で皇太子とみなされていた、ということなのだと思います。
今回の民の歌でもう一つ注目されるのは、大海人皇子が「聖徳の神の御子」とされていることです。作中ではまだ明示されていませんが、本来は入鹿こそが聖徳太子とされていた、という設定が核の一つになっていると思います。壬申の乱で大海人皇子が勝利して天皇に即位したにも関わらず、その入鹿が乙巳の変~天智朝までの時のように逆賊として『日本書紀』に描かれたのは、これまでの描写からして、鎌足の息子の不比等の意向が大きかったようです。
入鹿は奈良時代初期には官人たちの間で聖人とみなされていましたし、生前の言動からも、聖人としてみなされるのは不思議ではありません。その入鹿が「聖徳」と呼ばれる契機となったのが、この民の歌なのかもしれません。大海人皇子は「聖徳の神の御子」なのですから、その父の入鹿は「聖徳の神」ということになります。大海人皇子が即位後に神とも崇められるようになった契機は壬申の乱以前にあった、という設定なのでしょうか。もっとも、入鹿は「太子」ではありませんので、「聖徳太子」という呼称は、入鹿の聖者としての人物像を厩戸王に振り替えた結果として成立した、という設定なのかもしれません。
『日本書紀』には「聖徳太子」という表記こそありませんが、「敏達紀(巻廿)」には「東宮聖徳」、「推古紀(巻廿二)」には「上宮太子」とあります。「聖徳太子」の初見は8世紀半ば頃成立の『懐風藻』のようですが、『日本書紀』成立の頃には、「聖徳太子」という表記が用いられる要素は出そろっていた、と言えそうです。作中の設定では、そもそも入鹿が「聖徳」と呼ばれており、その聖人としての性格を『日本書紀』編纂時に厩戸王に振り替えたため、『日本書紀』で厩戸王は「東宮聖徳」とも表記された、ということなのかもしれません。
ここで問題となるのは、入鹿を聖人ではなく逆賊とした理由は上述のように推測できるとしても、なぜその聖人としての性格を厩戸王に付与したのか、ということです。そもそも作中では、厩戸王や山背大兄王など上宮王家が存在したのか、はっきりしません。上宮王家襲撃事件の首謀者は入鹿とも皇極帝とも言われていますが、作中での人物像からすると、作中世界で上宮王家襲撃事件が起きていたとしても、入鹿や皇極帝が主導したとは考えにくいところがあります。この問題は、時々挿入されるだろう奈良時代初期の『日本書紀』編纂の場面で描かれるのでしょうが、現時点では、上宮王家をめぐる問題が作中最大の謎と言えそうです。
中大兄皇子の妻らしき女性が二人登場したのも注目されますが、あるいは妻ではないのかもしれません。どちらにしても、二人ともモブキャラのようだったので、今回だけの登場となり、とくに人物設定はされていなさそうです。古人大兄皇子の娘で天智帝の皇后(大后)となった倭姫王の登場をずっと願っているのですが、今回の描写を見ていると、中大兄皇子の女性関係は遠智媛と額田王に集約され、他の妻はモブキャラとしてたまに登場するだけなのかな、とも思います。
前回は、中臣鎌足は厄介な手足になりそうだ、と大海人皇子が懸念しているところで終了しました。今回は、664年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)春、蘇我石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により新羅の仏師が制作した蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)の前で、大海人皇子が決意を表明する場面から始まります。仏像は洞窟に安置されているようで、鵲が洞窟の入り口で見張っています。
大海人皇子は仏像の前で、無事に生還できたことを父の入鹿に感謝します。大海人皇子は、父母をともに殺した憎むべき敵のる中大兄皇子を殺せず、中大兄皇子はその大海人皇子の心を見透かして嘲笑しました。大海人皇子は、わずかな繋がりでも求めようとした自分が愚かだったと語り、もう迷わない、そうした未練は金輪際断ち切って復讐に邁進するので見ていてください、と父を模した仏像の前で決意します。その時、近くの木に雷が落ち、大海人皇子は迷いを吹き払った迫力のある表情を浮かべます。
665年秋、後岡本宮では、長門に続いて大野と椽にも山城が完成したとの報告を受けた中大兄皇子が、唐からの攻撃があってもひとまずかわすことでできるな、と言って上機嫌です。前年には対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、烽(狼煙)に加えて水城も完成したので、筑紫の防衛体制は万全といっても過言ではない、と官人は報告します。中大兄皇子は、おもに亡命百済貴族など工事に尽力した者たちに労いと褒美を与えるよう、指示します。
すると大海人皇子が、白村江の戦いに続いての労役で負担の計り知れない地方豪族の民にも恩恵を与えてしかるべきだ、と中大兄皇子に進言します。すると中大兄皇子は、まだ防衛拠点を築かねばならず労役は続くのに、いちいち木端まで褒美を与えていては金がいくらあっても足りない、と言って大海人皇子の進言を一蹴します。中大兄皇子はつい、今いる都こそ危ないのだ、と呟いてしまいます。これは約一年半後の近江遷都の伏線でしょうか。
ともかくそこまで手が回らないのだから、それほどまでに言うのなら、お前が資材を投じて何なりと与えればよいではないか、と中大兄皇子は大海人皇子を突き放します。すると大海人皇子は、承知いたしました、と言ってとくに反論することもなく引き下がります。中大兄皇子は、筑紫の要塞の完成を祝って翌日宴を開く、と伝えて会議を終了させます。群臣は、宴は何年振りだろう、と言って浮かれています。中大兄皇子に食い下がるでもなく退出する大海人皇子を、中臣鎌足(豊璋)は鋭く観察していました。
鎌足は中大兄皇子を呼び止め、二人きりで話そうとします。我々は大海人皇子のことを見誤ったかもしれない、と鎌足は中大兄皇子に言います。しかも、すでに手遅れかもしれない、と鎌足は言います。防衛計画を優先するあまり、大海人皇子を便利に使いすぎたので、このままでは大海人皇子を呉起にしてしまう、というわけです。ここで鎌足は、今回の表題にもなっている『史記』「孫子呉起列伝第五」の呉起の故事「吮疽の仁」を説明します。
衛出身の呉起(紀元前5世紀後半?~紀元前4世紀前半の人)は魯で仕官したものの解任され、魏に赴いて文侯に仕え、軍功をあげます。呉起は将軍でありながら兵士と衣食・寝所を同じくし、徒歩で行軍して自分の兵糧は自ら携帯し、兵士と苦労を分かち合った、と伝わっています。また、この時の逸話として、兵士の疽(腫れ物)を吸(吮)って膿を出してやった、というものがあります。この逸話は、呉起に膿を吸ってもらった兵士の母親が泣いた、と続きます。その兵士の父親も呉起に疽を吸ってもらって感激し、奮戦して討ち死にしたので、息子も呉起のためにどこかで討ち死にするだろう、と思って母親は嘆いたわけです。
呉起はこの後、魏の宰相の策略により文侯の後継者となった武侯に疑われて魏を去り、楚の悼王に仕えて功績をあげたものの、悼王の死後に呉起を恨んでいた有力者たちに殺害された、と伝わっています。呉起に関しては、たいへん酷薄な性格を示す逸話も伝わっていますが、正直なところ、かなり誇張されているか、創作である可能性も高いように思います。呉起は後世になって、孫子(孫武・孫臏)と共に代表的な兵家とされました。
「吮疽の仁」は究極の人心掌握術だ、と指摘する鎌足は、このまま大海人皇子を地方豪族の不満処理に使うのは、まるで呉起が兵士の膿を吸い出すかのような結果をもたらすので、即刻止めてください、と中大兄皇子に強く進言します。鎌足が警戒したように、大海人皇子の人望は高まりつつありました。瀬戸内のある村の長は、そんな大海人皇子の評判を聞きつけ、わざわざ都に出てきて、度重なる労役に病人・死人が絶えないので、せめて祈りの場があれば心の救いとなる、と懇願します。そんな村長にたいして、大海人皇子は慈悲深そうな表情を浮かべながら、寺院建立の実現のため力を貸しましょう、と約束します。
大海人皇子は資金援助をしているだけではなく、造営技術の提供や工人の派遣も行なっているようで、技術提供には亡命百済人が協力している、と鎌足は中大兄皇子に伝えます。しかし中大兄皇子は鎌足の忠告を軽く受け止めているようで、布教活動に余念がないとはさすが入鹿の息子だ、余裕の表情で冷笑します。しかし鎌足はなおも食い下がり、白村江の戦いから戻って以来、大海人皇子はどこか人が違ったように見えるので、処分するなら工事も一段落した今しかない、と中大兄皇子に進言します。
しかし中大兄皇子は鎌足の進言に冷淡で、何を焦っているのだ、殺すことはいつでもできる、防衛計画が整備されるまでの辛抱だ、と答えます。やらねばならないことが山積みなのだから煩わせるな、と言って中大兄皇子は鎌足に退出を促します。鎌足も、これ以上は無駄と判断したのか、引き下がりますが、そのさいに一言だけ忠告を付け加えます。声望が高まれば高まるほど殺しにくくなる、というわけです。しかし中大兄皇子は、それに応えようとはせず、黙って鎌足が退出するのを見ているだけでした。
翌日、宴が開かれ、中大兄皇子も群臣も上機嫌のようです。中大兄皇子の妻らしき女性の一人(それなりに身分が高そうなので、阿倍内麻呂の娘か蘇我赤兄の娘かもしれません)が、筑紫の大野城は立派とのことなので一度見てみたい、と言うと、見るのはよいが、それを使わなければならなくなると笑ってなどいられないぞ、と中大兄皇子は上機嫌で言います。まあ怖い、とその女性が言うと、やはり中大兄皇子の妻の一人らしい女性が、怖いと言えば難工事で逃げ出す役夫も多かったそうで、と言います。
そこへ額田王が現れ、その難局を大海人皇子が乗り切ったと聞いている、と言います。額田王は第33話以来久々の登場となります。役夫たちの心を鎮める寺院建立を陰ながら支えたそうで、さすがですわ、と額田王が言うと、中大兄皇子は不機嫌になり、そんな話をどこで聞いたのだ、と問い質します。すると額田王は、この宮殿を一歩出れば民の声が美しい歌のように聞こえてきます、と答えます。その歌とは、次のようなものでした。
東宮(大海人皇子)は生き神さまじゃ、われらの行く手を照らしてくださる、慈しみと寛容の御心で、民を見守り導いてくださる、あのお方は聖徳の神の御子じゃ、(誰かさんとえろう違うて!)
中大兄皇子は、声望が高まれば高まるほど殺しにくくなる、という鎌足の前日の忠告を思い出し、憎悪に満ちた表情を浮かべて大海人皇子を睨みます。すると、その中大兄皇子の視線に気づいた大海人皇子は、不敵な笑みを中大兄皇子に向けます。中大兄皇子は立ち上がって剣を抜こうとしますが、祝いの席だから、と言って鎌足が制止します。大海人皇子は何もかも計算して利用されていたのだ、と中大兄皇子が言い、我々はしてやられた、気づくのが遅すぎた、大海人皇子の声望は、もはや殺せないほどに高まっていたのだ、と鎌足が言うところで今回は終了です。
今回は、大海人皇子がこれまでの甘さを捨てて再度復讐に邁進する決意を固め、この作品の主題である「兄弟喧嘩」の新たな展開が始まりましたから、転機と言えるように思います。大海人皇子は、中大兄皇子との間にわずかなつながりを求めようとしたことは愚かだと気づいた、と述べています。大海人皇子は、父の入鹿存命時には異母兄の中大兄皇子に会いたがっていましたし、白村江の戦いの前に朝鮮半島に赴いて復興百済軍と新羅との講和を試みたものの失敗し、帰国して朝廷要人の前で報告したさいに、中大兄皇子のことを身内と言っていましたから(中大兄皇子の方は、大海人皇子を身内と思ったことはない、と言っていました)、中大兄皇子とは兄弟として互いに認め合いたい、という気持ちがずっとあったのだろう、と思います。
大海人皇子はそれを甘さ・愚かさとして切り捨て、中大兄皇子に復讐すると改めて強く誓ったわけですが、それが中大兄皇子(天智帝)の死まで続くのかというと、まだ紆余曲折がありそうな気がします。とくに気になるのは、大海人皇子にとってもう一人の復讐対象である鎌足との関係です。白村江の戦いの後、中大兄皇子と鎌足は、乙巳の変直前~大海人皇子が二人の前に現れるまでのように、再び強固な主従関係を築いたように思われます。ただ、中大兄皇子が鎌足(豊璋)に操られている感の否めなかった初期と比較すると、現在では、中大兄皇子が主導権を握っているように思われます。これが、中大兄皇子が「怪物」に成長した、ということなのでしょう。もっとも、宴で大海人皇子を殺そうとして鎌足に止められるところを見ると、中大兄皇子はあまり成長していないのかな、とも考えたくなります。
しかし予告は、「復讐を再決断!次号、大海人が鎌足最大の泣き所につけ込み・・・!?」となっているので、大海人皇子が強固な中大兄皇子と鎌足の関係を崩そうと画策するのではないか、と思います。そうすると、中大兄皇子と鎌足を対象とする大海人皇子の復讐も、また様相が変わってくるのかもしれません。鎌足最大の泣き所につけ込むということは、鎌足の息子の定恵(真人)・史(不比等)のことで大海人皇子が鎌足を脅すというか、子供に関することで子煩悩な鎌足と取引をするのではないか、と思います。
現在大海人皇子が直接生殺与奪権を握っているのは史ですから、史のことで大海人皇子が鎌足を脅迫するか揺さぶるのかもしれません。しかし、大海人皇子が史を匿っていることを承知しているはずの鎌足が、今回は大海人皇子を殺すよう、中大兄皇子に積極的に進言しているのですから、史のことで大海人皇子が鎌足を脅すような話にはならないのかな、とも思います。史の生殺与奪権を大海人皇子に握られている鎌足が、躊躇することなく大海人皇子に敵対的姿勢をとったのはやや不思議だったのですが、大海人皇子は自分を殺すことはあっても、自分の子供まで殺すことはない、と鎌足は大海人皇子を信用しているということでしょうか。
鎌足のもう一人の息子の定恵は665年秋に帰国していますから、次回描かれる「鎌足最大の泣き所」とは、定恵のことかもしれません。665年、唐は劉徳高・郭務悰ら254人を倭(日本)に派遣します。唐の使者は9月20日に筑紫に到着し、11月13日に供応され、12月に帰国しています。定恵は劉徳高一行の船で帰国したとされていますから、665年10月には都に帰還したのでしょう。『藤氏家伝』によると、665年12月23日、定恵はその才能を妬んだ百済の士人により毒殺されたそうです。
しかし作中では、定恵は大海人皇子に匿われて生き延び、粟田真人として後半生を生きるのではないか、と私は予想しています。作中での定恵(真人)の名前・人物像・出家して唐に渡ったという経歴は、粟田真人と重なります。次回、帰国した定恵は孝徳帝の御落胤かもしれないということで中大兄皇子に警戒され、殺されそうになるものの、大海人皇子が鎌足に何らかの条件を提示して定恵を匿う、というのが私の予想です。大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝(中大兄皇子)が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という有名な逸話も、そうした文脈で描かれるのではないか、と思います。
今回は前回の663年初冬から一気に665年秋まで進みました。防衛体制の構築に絡めて「兄弟喧嘩」が描かれたのは、歴史漫画としてなかなかよかったと思います。白村江の戦いでの惨敗により、復興百済軍救援を強硬に主張していた中大兄皇子の政治的権威が低下する一方で、終始慎重論を主張していた大海人皇子の政治的権威が上昇し、中大兄皇子も大海人皇子を政治的に無視・軽視できなくなって、大海人皇子が確固たる政治基盤を築いていき、甲子の宣もその文脈で描かれるのではないか、と私は予想していました。そのような流れで、壬申の乱での大海人皇子の勝利も描かれるのではないか、というわけです。
しかし今回は、防衛体制の構築のなかで人々の不満が募っていき、中大兄皇子がその処理に大海人皇子を起用することで、大海人皇子の声望が高まっていく、という流れになっていました。これは、歴史漫画としてなかなか上手い創作になっていたと思います。大海人皇子には天性の明るさ・優しさがあり、乙巳の変~斉明帝即位の頃までは庶民に近い生活を送っていたこともあってか、民に負担をかけるような政策にはたびたび反対してきました。地方豪族・民の苦境を救ったのは、もちろん大海人皇子の政治的計算でもあるのでしょうが、これまでに描かれてきた大海人皇子の人物像を活かしたものにもなっており、物語としての繋がりがしっかりしていてよかったのではないか、と思います。作中の大海人皇子は、政治家として確たる地位を築くことに成功した、と言えそうです。
ただ、一気に665年秋まで進んだため、甲子の宣が省略されたのは残念でした。また、665年秋ということは、間人皇女はすでに死んでいるわけで、間人皇女はついにまったく言及されることがありませんでした(大田皇女の埋葬のさいに、言及されるかもしれませんが)。間人皇女は中大兄皇子の同父同母妹というだけではなく、孝徳帝の皇后(大后)でもあったので、登場を希望していたのですが。この作品に間人皇女が登場しないのは、物語を分かりやすくするために人物を省略し、中大兄皇子の「禁断の関係」を入鹿(と大海人皇子)に絞るためなのでしょうか。もっとも、中大兄皇子と間人皇女との「禁断の関係」が事実だという確証はありませんが。
今回が665年秋ということは、667年2月以前の大田皇女の死も近いわけで、作中ではとくに病弱設定ではなく、むしろ健康そうな大田皇女の早い死がどう描かれるのか、注目されます。姉がいる限り自分は「第二の妻」に甘んじるしかない、と考えた妹の鸕野讚良皇女(持統天皇)が姉を毒殺する、といった展開になると嫌な感じですが・・・。現時点では、鸕野讚良皇女の人物像はあまり明らかになっていませんが、勝気ではあるものの、夫の大海人皇子・姉の大田皇女・祖母の斉明帝(皇極帝、宝皇女)から愛されて信頼されているようですから、姉を毒殺するといった展開にはならないかな、とは思うのですが。
今回注目されるのは、大海人皇子を慕う民の歌です。大海人皇子は東宮(皇太子)と歌われていますが、この時点ではまだ即位していない中大兄皇子が皇太子とされており、大海人皇子が皇太子となるのは中大兄皇子が即位した後のことです。もっとも、この時代に皇太子制が確立していたのか、疑わしいと言えるでしょうし、仮にすでに実質的な皇太子制が機能していたとしても、天智朝に大海人皇子が皇太子的な地位にいたのか、疑問が残ります。今回の描写は、中大兄皇子はすでに実質的な大君(天皇)なのだから、中大兄皇子の次に有力な皇族(王族)である大海人皇子は民の間で皇太子とみなされていた、ということなのだと思います。
今回の民の歌でもう一つ注目されるのは、大海人皇子が「聖徳の神の御子」とされていることです。作中ではまだ明示されていませんが、本来は入鹿こそが聖徳太子とされていた、という設定が核の一つになっていると思います。壬申の乱で大海人皇子が勝利して天皇に即位したにも関わらず、その入鹿が乙巳の変~天智朝までの時のように逆賊として『日本書紀』に描かれたのは、これまでの描写からして、鎌足の息子の不比等の意向が大きかったようです。
入鹿は奈良時代初期には官人たちの間で聖人とみなされていましたし、生前の言動からも、聖人としてみなされるのは不思議ではありません。その入鹿が「聖徳」と呼ばれる契機となったのが、この民の歌なのかもしれません。大海人皇子は「聖徳の神の御子」なのですから、その父の入鹿は「聖徳の神」ということになります。大海人皇子が即位後に神とも崇められるようになった契機は壬申の乱以前にあった、という設定なのでしょうか。もっとも、入鹿は「太子」ではありませんので、「聖徳太子」という呼称は、入鹿の聖者としての人物像を厩戸王に振り替えた結果として成立した、という設定なのかもしれません。
『日本書紀』には「聖徳太子」という表記こそありませんが、「敏達紀(巻廿)」には「東宮聖徳」、「推古紀(巻廿二)」には「上宮太子」とあります。「聖徳太子」の初見は8世紀半ば頃成立の『懐風藻』のようですが、『日本書紀』成立の頃には、「聖徳太子」という表記が用いられる要素は出そろっていた、と言えそうです。作中の設定では、そもそも入鹿が「聖徳」と呼ばれており、その聖人としての性格を『日本書紀』編纂時に厩戸王に振り替えたため、『日本書紀』で厩戸王は「東宮聖徳」とも表記された、ということなのかもしれません。
ここで問題となるのは、入鹿を聖人ではなく逆賊とした理由は上述のように推測できるとしても、なぜその聖人としての性格を厩戸王に付与したのか、ということです。そもそも作中では、厩戸王や山背大兄王など上宮王家が存在したのか、はっきりしません。上宮王家襲撃事件の首謀者は入鹿とも皇極帝とも言われていますが、作中での人物像からすると、作中世界で上宮王家襲撃事件が起きていたとしても、入鹿や皇極帝が主導したとは考えにくいところがあります。この問題は、時々挿入されるだろう奈良時代初期の『日本書紀』編纂の場面で描かれるのでしょうが、現時点では、上宮王家をめぐる問題が作中最大の謎と言えそうです。
中大兄皇子の妻らしき女性が二人登場したのも注目されますが、あるいは妻ではないのかもしれません。どちらにしても、二人ともモブキャラのようだったので、今回だけの登場となり、とくに人物設定はされていなさそうです。古人大兄皇子の娘で天智帝の皇后(大后)となった倭姫王の登場をずっと願っているのですが、今回の描写を見ていると、中大兄皇子の女性関係は遠智媛と額田王に集約され、他の妻はモブキャラとしてたまに登場するだけなのかな、とも思います。
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