田嶋信雄「日本から見たドイツの戦争」
2013年「回顧と展望」日本・近現代
https://sicambre.seesaa.net/article/201409article_3.html
で取り上げた論文です。初出は『平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書』です。
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/04.pdf
本論文は、1943年以降、日本の政府ないし軍部が、ドイツの軍事的力量ないし国内統合力をどのように評価し、またそれに対処しようとしたか、論じています。本論文の前提となるのが、1941年12月11日にベルリンで締結された日独伊三国単独不講和条約です。この条約により、三国は「相互の完全なる了解に依るにあらざれば、アメリカ合衆国および英国のいずれとも休戦または講和をなさざるべきこと」とされました。
しかし、これは連合国に対する「勝利の講和」か、せいぜい「対等の講和」を暗黙の前提としたものだったので、日独伊三国同盟側の敗色が濃くなるにつれて、条約当事国の継戦意志に対する三国の間での相互の疑心暗鬼が生じることとなりました。本論文は、第二次世界大戦における転機になったとされる、スターリングラードの戦いにおけるドイツ軍の敗北(1943年1月)直前以降の、ドイツの継戦能力にたいする日本政府・軍部の評価の変遷をたどっています。
スターリングラードの戦いでのドイツの敗勢が明らかになっていた1943年1月21日、帰国したばかりのドイツ駐在陸軍武官の坂西一良中将が大本営で報告しましたが、参謀本部は、「ドイツは長期持久戦に入るも不敗の態勢既に整いたるを以って断じて敗北することなし」との確信を表明していました。その半年後のクルスクの戦いでドイツ軍の攻勢がソ連軍に食い止められると、それ以降は独ソ戦でドイツ軍が主導権を握ることはありませんでした。クルスクの戦い直後の大本営陸軍部戦争指導班の戦況把握は、ソ連軍の「乾坤一擲の大作戦」による戦果は認めつつも、今後のドイツ軍の作戦によってはソ連軍殲滅戦の展開は可能だとし、ドイツ軍の反撃に期待をつないでいるものでした。
しかし、その少し前の地中海戦線における同盟側の劣勢を受けて、すでに日本政府・軍部はドイツ軍の継戦能力への疑念を深めつつありました。1943年5月上旬、地中海戦線ではドイツ・イタリア軍がチュニスから撤退し、転機を迎えていました。5月13日、東条英機首相と重光葵外相はこの情勢変動について検討しています。その結果、日独共同軍事作戦が不可能となったこと、(東部戦線に対する)第二戦線の可能性が生じてきたことからドイツの継戦能力に疑問がもたれること、さらにはドイツが連合国と単独講和する懸念が共通認識となりました。
東条は、アジアとヨーロッパの戦線統一のために、対ソ参戦すら示唆しますが、さすがに重光はこれに反対します。このやり取りを読むと、東条英機には人の上に立てるだけの器量がなかったのだなあ、と痛感します。ドイツの単独講和を懸念する東条と重光は、「ドイツとの関係をも幾分犠牲に」しても、「ソ連関係の調整に速やかに乗り出す」ことも検討しています。日本の指導者にとって、すでにこの段階で三国単独不講和条約は実質的な意味を失っていた、というわけです。
1943年7月25日、イタリアではムッソリーニが失脚し、バドリオ内閣が成立します。日本政府はこの事態をまったく予期していなかったため、大きな衝撃を受けました。日本の首脳陣は、これによりドイツのヒトラー体制の崩壊も懸念するようになりました。さらに、ドイツの単独講和のみならず、三国単独不講和を口実に、ドイツが日本に英米に対する日独同時の講和ないし敗北を求めてくる可能性も、日本では懸念されるようになりました。日本の首脳陣は、この情勢変化を受けて対ソ関係の改善を図ろうとします。重光葵は、イタリアの勢力圏要求を犠牲にして、新たな勢力圏分割を前提とした日独ソ三国の同盟関係を創出しようとさえします。しかしこれは、対ソ戦をイデオロギー的・人種的絶滅戦争と位置づけて戦うヒトラーには、受け入れる余地のないものでした。
1944年6月6日、ノルマンディーの戦いが始まり、ヨーロッパでも対ドイツ第二戦線が形成されました。しかし、6月15日のサイパンにおけるアメリカ軍の上陸と7月7日の日本軍の玉砕、6月19日のマリアナ沖海戦における日本海軍の壊滅的敗北といった太平洋における事態の悪化とほぼ並行していたため、日本の首脳部はヨーロッパ戦線の情勢にただちに対処する能力と余裕をほとんど失っていた、とのことです。7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も、東条内閣の倒壊とほぼ同時だったため、日本の指導層には直接的に大きな注目を引き起こすことはなかったそうです。しかし、すでに日本の指導層は、ドイツの国内的統合力にも、また継戦能力にもほとんど期待を失っていたようです。こうした情勢の変動を受けて、1944年9月21日の最高戦争指導会議では、以下の四つのシナリオが想定されました。
(1)ドイツが単独不講和条約を遵守し、和平に関し日本に連絡してくる。
(2)ドイツが英米ソ三国と単独講和(屈服)する。
(3)ドイツが英米と単独講和をして対ソ戦を継続する。
(4)ドイツとソ連が講和する。
日本政府は、それぞれの場合の対応を以下のように決めました。
(1)ドイツの意図を確認し、できる限り独ソ間の妥協を図り、対米英戦争継続の方向にドイツを誘導する。
(2)一切の対ドイツ戦争協力を停止する。
(3)ソ連との提携を強化し、可能であれば英米に対する日ソ同盟を締結する。
(4)ドイツとの連携を強化するとともに、ソ連との提携も強化し、できれば英米にたいする日独ソ同盟を締結する。
1945年4月24日、ヒムラーは英米側に単独講和を申し入れ、さらに4月30日のヒトラーの自殺を受けて成立したデーニッツ政権は、対英米降伏を暗黙の前提としつつ、対ソ戦争の継続を強調しました。上記(3)の事例が現実のものになりそうになったわけです。日本政府はソ連との関係改善に努めますが、それが実現困難であることも認識していました。日本政府にとってドイツの降伏は大前提となりましたが、もはや日本に現実的な選択肢はほとんど残されておらず、ドイツ降伏にともなう日本国内の動揺を緩和することに意識は向けられていました。日本の首脳陣は、ソ連軍が東方に移動しつつある、との情報も得ていたものの、有効な対策は打てず、一部に非現実的な希望的観測を持ちながら、敗戦を迎えることになりました。
https://sicambre.seesaa.net/article/201409article_3.html
で取り上げた論文です。初出は『平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書』です。
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/04.pdf
本論文は、1943年以降、日本の政府ないし軍部が、ドイツの軍事的力量ないし国内統合力をどのように評価し、またそれに対処しようとしたか、論じています。本論文の前提となるのが、1941年12月11日にベルリンで締結された日独伊三国単独不講和条約です。この条約により、三国は「相互の完全なる了解に依るにあらざれば、アメリカ合衆国および英国のいずれとも休戦または講和をなさざるべきこと」とされました。
しかし、これは連合国に対する「勝利の講和」か、せいぜい「対等の講和」を暗黙の前提としたものだったので、日独伊三国同盟側の敗色が濃くなるにつれて、条約当事国の継戦意志に対する三国の間での相互の疑心暗鬼が生じることとなりました。本論文は、第二次世界大戦における転機になったとされる、スターリングラードの戦いにおけるドイツ軍の敗北(1943年1月)直前以降の、ドイツの継戦能力にたいする日本政府・軍部の評価の変遷をたどっています。
スターリングラードの戦いでのドイツの敗勢が明らかになっていた1943年1月21日、帰国したばかりのドイツ駐在陸軍武官の坂西一良中将が大本営で報告しましたが、参謀本部は、「ドイツは長期持久戦に入るも不敗の態勢既に整いたるを以って断じて敗北することなし」との確信を表明していました。その半年後のクルスクの戦いでドイツ軍の攻勢がソ連軍に食い止められると、それ以降は独ソ戦でドイツ軍が主導権を握ることはありませんでした。クルスクの戦い直後の大本営陸軍部戦争指導班の戦況把握は、ソ連軍の「乾坤一擲の大作戦」による戦果は認めつつも、今後のドイツ軍の作戦によってはソ連軍殲滅戦の展開は可能だとし、ドイツ軍の反撃に期待をつないでいるものでした。
しかし、その少し前の地中海戦線における同盟側の劣勢を受けて、すでに日本政府・軍部はドイツ軍の継戦能力への疑念を深めつつありました。1943年5月上旬、地中海戦線ではドイツ・イタリア軍がチュニスから撤退し、転機を迎えていました。5月13日、東条英機首相と重光葵外相はこの情勢変動について検討しています。その結果、日独共同軍事作戦が不可能となったこと、(東部戦線に対する)第二戦線の可能性が生じてきたことからドイツの継戦能力に疑問がもたれること、さらにはドイツが連合国と単独講和する懸念が共通認識となりました。
東条は、アジアとヨーロッパの戦線統一のために、対ソ参戦すら示唆しますが、さすがに重光はこれに反対します。このやり取りを読むと、東条英機には人の上に立てるだけの器量がなかったのだなあ、と痛感します。ドイツの単独講和を懸念する東条と重光は、「ドイツとの関係をも幾分犠牲に」しても、「ソ連関係の調整に速やかに乗り出す」ことも検討しています。日本の指導者にとって、すでにこの段階で三国単独不講和条約は実質的な意味を失っていた、というわけです。
1943年7月25日、イタリアではムッソリーニが失脚し、バドリオ内閣が成立します。日本政府はこの事態をまったく予期していなかったため、大きな衝撃を受けました。日本の首脳陣は、これによりドイツのヒトラー体制の崩壊も懸念するようになりました。さらに、ドイツの単独講和のみならず、三国単独不講和を口実に、ドイツが日本に英米に対する日独同時の講和ないし敗北を求めてくる可能性も、日本では懸念されるようになりました。日本の首脳陣は、この情勢変化を受けて対ソ関係の改善を図ろうとします。重光葵は、イタリアの勢力圏要求を犠牲にして、新たな勢力圏分割を前提とした日独ソ三国の同盟関係を創出しようとさえします。しかしこれは、対ソ戦をイデオロギー的・人種的絶滅戦争と位置づけて戦うヒトラーには、受け入れる余地のないものでした。
1944年6月6日、ノルマンディーの戦いが始まり、ヨーロッパでも対ドイツ第二戦線が形成されました。しかし、6月15日のサイパンにおけるアメリカ軍の上陸と7月7日の日本軍の玉砕、6月19日のマリアナ沖海戦における日本海軍の壊滅的敗北といった太平洋における事態の悪化とほぼ並行していたため、日本の首脳部はヨーロッパ戦線の情勢にただちに対処する能力と余裕をほとんど失っていた、とのことです。7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も、東条内閣の倒壊とほぼ同時だったため、日本の指導層には直接的に大きな注目を引き起こすことはなかったそうです。しかし、すでに日本の指導層は、ドイツの国内的統合力にも、また継戦能力にもほとんど期待を失っていたようです。こうした情勢の変動を受けて、1944年9月21日の最高戦争指導会議では、以下の四つのシナリオが想定されました。
(1)ドイツが単独不講和条約を遵守し、和平に関し日本に連絡してくる。
(2)ドイツが英米ソ三国と単独講和(屈服)する。
(3)ドイツが英米と単独講和をして対ソ戦を継続する。
(4)ドイツとソ連が講和する。
日本政府は、それぞれの場合の対応を以下のように決めました。
(1)ドイツの意図を確認し、できる限り独ソ間の妥協を図り、対米英戦争継続の方向にドイツを誘導する。
(2)一切の対ドイツ戦争協力を停止する。
(3)ソ連との提携を強化し、可能であれば英米に対する日ソ同盟を締結する。
(4)ドイツとの連携を強化するとともに、ソ連との提携も強化し、できれば英米にたいする日独ソ同盟を締結する。
1945年4月24日、ヒムラーは英米側に単独講和を申し入れ、さらに4月30日のヒトラーの自殺を受けて成立したデーニッツ政権は、対英米降伏を暗黙の前提としつつ、対ソ戦争の継続を強調しました。上記(3)の事例が現実のものになりそうになったわけです。日本政府はソ連との関係改善に努めますが、それが実現困難であることも認識していました。日本政府にとってドイツの降伏は大前提となりましたが、もはや日本に現実的な選択肢はほとんど残されておらず、ドイツ降伏にともなう日本国内の動揺を緩和することに意識は向けられていました。日本の首脳陣は、ソ連軍が東方に移動しつつある、との情報も得ていたものの、有効な対策は打てず、一部に非現実的な希望的観測を持ちながら、敗戦を迎えることになりました。
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