本村凌二『愛欲のローマ史』(追記有)
講談社学術文庫の一冊として、2014年5月に講談社より刊行されました。本書の親本『ローマ人の愛と性』は、講談社現代新書の一冊として1999年に講談社より刊行されました。ローマ帝国は平和と繁栄のなかで飽食・性的放縦など堕落・退廃していき、それが滅亡の要因となった、との通俗的見解は今でも一般には根強いように思います。本書で重要な史料として取り上げられている諷刺詩からも、そのように解釈できるように思われます。しかし本書は、ローマ人の性愛意識・行動に関してそうした通俗的見解に疑問を呈し、変わったのはローマ社会における人々の眼差し・心性ではないか、と指摘します。
本書は、ローマ帝国の知識人(しばしば政治家としても重要な役割を果たします)の残した諸文献から、帝政の成立より100年ほどでローマ帝国の住民の意識が大きく変わったのではないか、と推測します。本書はそうした意識の変容を探る手がかりとして、ホラティウス(紀元前65年~紀元前8年)・マルティアリス(紀元後40年頃~紀元後104年頃)・ユウェナリス(紀元後60年頃~紀元後130年頃)の3人の諷刺詩を取り上げています。ローマの諷刺詩は身辺の題材を好んで取り上げたので、ローマ社会の心性の変容を探るには適しているのではないか、というわけです。
本書は、ホラティウスに「冷笑の感性」を、マルティアリスに「嘲笑の感性」を、ユウェナリスに「義憤の感性」を見出します。この変遷は一見すると、ローマ帝国の堕落・退廃の根拠にもなり得ます。しかし本書は、良風美俗が蘇生してきた、とするタキトゥス(紀元後55年頃~紀元後120年頃)の証言から、単純にローマ社会の堕落・退廃と考えてよいのか、と疑問を呈します。本書は、変わったのはむしろ人々の性に関する意識であり、それは心性の変化と考えられるのではないのか、と提言します。
その心性の変化を探る手がかりとして、本書は夫婦・結婚に関する意識の変容を取り上げます。共和政期ローマの上層では、結婚は夫婦愛に基づくものではなく、家の名誉を尊重することで成り立っていました。家の名誉の尊重は、帝政期以降のローマでも変わりません。しかし、夫婦関係には変容が見られました。2世紀初頭には、ローマ社会上層で夫婦愛が見られるようになり、それと結婚が結びつくようになります。ローマ社会下層でも、財産継承にしか意味がない結婚ではなく内縁・同棲といった自由な男女間の結びつきが一般的だったのに、次第に結婚という形態が選択されるようになっていきます。
本書はこれを、単純化すると「家名を尊重する家族」から「夫婦愛に基づく家族」への変化と把握できるだろう、と指摘しています。その背景にあるのは、「自己の対象化」や「自己の内面化」だ、というのが本書の見解です。それは「道徳の内面化・普遍化」として結実し、人類史上重大な意義を持っていたのではないか、というのが本書の見通しです。こうした変化が禁欲的な心性を強めていき、性に関する視線が厳しくなった要因ではないか、というわけです。性愛面(だけではありませんが)でのローマ社会の堕落・退廃とは、人々の視線の変化に基づくものだったのではないか、と本書は指摘します。
このようなローマ社会における心性の変化をもたらした背景として、ローマが可視的な都市国家から不可視的な世界帝国へと拡大し、空前の平和に伴う世界観・世界認識の転換があったのではないか、と本書は指摘します。この背景のもと、識字率の向上や異なる人々・文化との出会いなどがあり、ローマ社会の心性が変化していったのではないか、というわけです。さらに本書は、こうしたローマ社会の変容がキリスト教を受け入れる基盤となり、キリスト教は禁欲的な心性をさらに強める役割を果たしたのではないか、との見通しを提示しています。
著者の本村氏は、本書こそ「自称最高傑作」だ、と述べています。専門家でない私には、本書の詳細で的確な評価は無理ですが、ひじょうに魅力的な歴史像が提示されていると思います。解説も分かりやすく、一般向けの読みやすさ・面白さもあります。確かに、「自称最高傑作」と述べるだけの出来になっていると思います。本村氏にはこの他にも一般向け著書が多数あり、近年は期待外れ(これは期待値が高いからなのですが)が多い感もあるのですが、全体的には水準がきわめて高いと思います。本書を読んで、本村氏の他の一般向け著書をまた読み直していきたくなりました。この機会に、これまでこのブログで取り上げてきた本村氏の著書(共著を含む)を以下にまとめてみました。
本村凌二『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_13.html
本村凌二『古代ポンペイの日常生活』第4刷
https://sicambre.seesaa.net/article/201112article_18.html
本村凌二『ローマ人に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201204article_18.html
本村凌二『古代ローマとの対話 「歴史感」のすすめ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201210article_5.html
本村凌二『世界史の叡智 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201309article_6.html
本村凌二、中村るい『古代地中海世界の歴史』
https://sicambre.seesaa.net/article/201309article_20.html
本村凌二『世界史の叡智 悪役・名脇役篇 辣腕、無私、洞察力の51人に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201406article_16.html
本村凌二『はじめて読む人のローマ史1200年』
https://sicambre.seesaa.net/article/201409article_2.html
渡部昇一、本村凌二『国家の盛衰─3000年の歴史に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201409article_26.html
追記(2017年5月20日)
この記事以降で本村氏の著書を取り上げた場合、随時追記していきます。
本村凌二『ローマ帝国 人物列伝』
https://sicambre.seesaa.net/article/201611article_1.html
本村凌二『競馬の世界史 サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで』
https://sicambre.seesaa.net/article/201612article_23.html
本村凌二『教養としての「世界史」の読み方』第3刷
https://sicambre.seesaa.net/article/201705article_21.html
桜井万里子、本村凌二『集中講義!ギリシア・ローマ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201804article_22.html
本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』第3刷
https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_22.html
本村凌二『独裁の世界史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202101article_29.html
本村凌二、高山博『衝突と共存の地中海世界』
https://sicambre.seesaa.net/article/202110article_9.html
本村凌二『剣闘士 血と汗のローマ社会史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_31.html
本書は、ローマ帝国の知識人(しばしば政治家としても重要な役割を果たします)の残した諸文献から、帝政の成立より100年ほどでローマ帝国の住民の意識が大きく変わったのではないか、と推測します。本書はそうした意識の変容を探る手がかりとして、ホラティウス(紀元前65年~紀元前8年)・マルティアリス(紀元後40年頃~紀元後104年頃)・ユウェナリス(紀元後60年頃~紀元後130年頃)の3人の諷刺詩を取り上げています。ローマの諷刺詩は身辺の題材を好んで取り上げたので、ローマ社会の心性の変容を探るには適しているのではないか、というわけです。
本書は、ホラティウスに「冷笑の感性」を、マルティアリスに「嘲笑の感性」を、ユウェナリスに「義憤の感性」を見出します。この変遷は一見すると、ローマ帝国の堕落・退廃の根拠にもなり得ます。しかし本書は、良風美俗が蘇生してきた、とするタキトゥス(紀元後55年頃~紀元後120年頃)の証言から、単純にローマ社会の堕落・退廃と考えてよいのか、と疑問を呈します。本書は、変わったのはむしろ人々の性に関する意識であり、それは心性の変化と考えられるのではないのか、と提言します。
その心性の変化を探る手がかりとして、本書は夫婦・結婚に関する意識の変容を取り上げます。共和政期ローマの上層では、結婚は夫婦愛に基づくものではなく、家の名誉を尊重することで成り立っていました。家の名誉の尊重は、帝政期以降のローマでも変わりません。しかし、夫婦関係には変容が見られました。2世紀初頭には、ローマ社会上層で夫婦愛が見られるようになり、それと結婚が結びつくようになります。ローマ社会下層でも、財産継承にしか意味がない結婚ではなく内縁・同棲といった自由な男女間の結びつきが一般的だったのに、次第に結婚という形態が選択されるようになっていきます。
本書はこれを、単純化すると「家名を尊重する家族」から「夫婦愛に基づく家族」への変化と把握できるだろう、と指摘しています。その背景にあるのは、「自己の対象化」や「自己の内面化」だ、というのが本書の見解です。それは「道徳の内面化・普遍化」として結実し、人類史上重大な意義を持っていたのではないか、というのが本書の見通しです。こうした変化が禁欲的な心性を強めていき、性に関する視線が厳しくなった要因ではないか、というわけです。性愛面(だけではありませんが)でのローマ社会の堕落・退廃とは、人々の視線の変化に基づくものだったのではないか、と本書は指摘します。
このようなローマ社会における心性の変化をもたらした背景として、ローマが可視的な都市国家から不可視的な世界帝国へと拡大し、空前の平和に伴う世界観・世界認識の転換があったのではないか、と本書は指摘します。この背景のもと、識字率の向上や異なる人々・文化との出会いなどがあり、ローマ社会の心性が変化していったのではないか、というわけです。さらに本書は、こうしたローマ社会の変容がキリスト教を受け入れる基盤となり、キリスト教は禁欲的な心性をさらに強める役割を果たしたのではないか、との見通しを提示しています。
著者の本村氏は、本書こそ「自称最高傑作」だ、と述べています。専門家でない私には、本書の詳細で的確な評価は無理ですが、ひじょうに魅力的な歴史像が提示されていると思います。解説も分かりやすく、一般向けの読みやすさ・面白さもあります。確かに、「自称最高傑作」と述べるだけの出来になっていると思います。本村氏にはこの他にも一般向け著書が多数あり、近年は期待外れ(これは期待値が高いからなのですが)が多い感もあるのですが、全体的には水準がきわめて高いと思います。本書を読んで、本村氏の他の一般向け著書をまた読み直していきたくなりました。この機会に、これまでこのブログで取り上げてきた本村氏の著書(共著を含む)を以下にまとめてみました。
本村凌二『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_13.html
本村凌二『古代ポンペイの日常生活』第4刷
https://sicambre.seesaa.net/article/201112article_18.html
本村凌二『ローマ人に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201204article_18.html
本村凌二『古代ローマとの対話 「歴史感」のすすめ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201210article_5.html
本村凌二『世界史の叡智 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201309article_6.html
本村凌二、中村るい『古代地中海世界の歴史』
https://sicambre.seesaa.net/article/201309article_20.html
本村凌二『世界史の叡智 悪役・名脇役篇 辣腕、無私、洞察力の51人に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201406article_16.html
本村凌二『はじめて読む人のローマ史1200年』
https://sicambre.seesaa.net/article/201409article_2.html
渡部昇一、本村凌二『国家の盛衰─3000年の歴史に学ぶ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201409article_26.html
追記(2017年5月20日)
この記事以降で本村氏の著書を取り上げた場合、随時追記していきます。
本村凌二『ローマ帝国 人物列伝』
https://sicambre.seesaa.net/article/201611article_1.html
本村凌二『競馬の世界史 サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで』
https://sicambre.seesaa.net/article/201612article_23.html
本村凌二『教養としての「世界史」の読み方』第3刷
https://sicambre.seesaa.net/article/201705article_21.html
桜井万里子、本村凌二『集中講義!ギリシア・ローマ』
https://sicambre.seesaa.net/article/201804article_22.html
本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』第3刷
https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_22.html
本村凌二『独裁の世界史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202101article_29.html
本村凌二、高山博『衝突と共存の地中海世界』
https://sicambre.seesaa.net/article/202110article_9.html
本村凌二『剣闘士 血と汗のローマ社会史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_31.html
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