渡部昇一、本村凌二『国家の盛衰─3000年の歴史に学ぶ』

 祥伝社新書の一冊として、祥伝社より2014年9月に刊行されました。本書は、序章で国家の繁栄と覇権の条件について包括的に述べた後、第1章~第6章にかけて各国を個別に取り上げ、その盛衰を論じます。第1章はローマ(世界帝国の典型)、第2章はスペインとオランダ(海上覇権と貿易)、第3章はイギリス(工業技術による産業立国)、第4章はアメリカ(実験国家、人口国家の活力)、第5章は中国(覇権国家になりうるか)、第6章は日本(これから歩むべき道)です。各章の項目単位で二人の著者が相互に見解を述べていく対話形式となっていますが、二人の著者がじっさいに執筆しているのか、編集者が著者二人の対談を読みやすいように文章にまとめたのか、判断に悩むところです。

 本村氏の著書ということで購入して読んでみましたが、もう一方の著者が渡部昇一氏ということで、読む前にはかなり不安でした。しかし、懸念していたよりはずっと良かったかな、というのが率直な感想です。もちろん、渡部氏の見解で引っかかるところは多くあったのですが(本村氏の見解で引っかかるところも当然あるわけですが)、祥伝社新書への期待値ということで考えると、とくに驚くことはありませんでした。私の関心・知識の問題から、中国と日本についての記述でとくに引っかかるところが多かったのですが、さすがに逐一取り上げるだけの気力はありませんので、いくつか言及するに止めておきます。

●P24~25
 新書ということで詳細な解説は無理なのでしょうが、「シナ大陸」の強大な国家とその周辺地域との関係を、「冊封体制」で整理してしまうのは乱暴なように思われます。また、「シナ大陸」の国家から冊封された日本列島の勢力は九州にあった、とする見解も気になるところです。渡部氏のことですから、九州王朝的な見解というよりは、江戸時代の国学者的な見解に近いのではないか、と思います。

●P41~42
 周の民族は消えたとか、現在の漢民族と周の人々とに民族的つながりはない、とかいった見解が提示されています。民族がそもそも(他者を鏡としての)自意識だと考えれば、安易に連続性と断絶を論じることは難しいように思います。また、そもそも、前近代の歴史を民族という概念で把握することの妥当性も問われなければならないでしょう。

●P85
 これは本村氏の見解なのですが、「日本の戦国時代でも、農民を兵に徴用し、農閑期にしか戦争できなかった戦国大名が、家臣を城下に住まわせ軍団を形成(兵農分離)した織田信長に蹂躙されました」とあります。信長の時代の織田軍と他の戦国大名の軍との間にそのような制度的・質的差異があったのか、私は十数年以上前よりはなはだ疑問に思っているのですが、あるいは、私が戦国大名研究の側の見解に引きずられ過ぎているのでしょうか。

●P241
 清(ダイチングルン)は満州族が漢民族の明を滅ぼした王朝であり、シナ人の国民国家ではないのだから、清と中華人民共和国はまったく関係ない、との見解が提示されています。しかし、中華人民共和国が中華民国を経由して清を継承しているということは、国際的な合意が得られていると思うのですが・・・。

●P280
 森喜朗首相(当時)の「神の国発言」について、神話時代から続いている国と考えてはどうか、と提言し、その礎は神道・神社である、との見解が提示されています。しかし、太古から神道なるものが日本列島の社会の根底にある、と言わんばかりの歴史認識には大いに疑問が残ります。神道は、古代・中世においておもに仏教の、近世においてさらに儒教の多大な影響を受けて、歴史的に形成されてきたと把握すべきではないか、と思います。

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