平野聡『「反日」中国の文明史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2014年7月に刊行されました。著者の他の著作では、『清帝国とチベット問題』(関連記事)と『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』(関連記事)を以前このブログにて取り上げています。本書は、政治思想と中国知識層の自己認識を中心に、中国を文明として把握してその歴史を概観し、中国の現状と日本との激しい対立の要因とを歴史的に探ろうとします。おもな対象となるのは近代以降(アヘン戦争以降)ですが、前近代にもそれなりの分量が割かれています。

 本書は、現代中国の(国際関係も含む)世界観・秩序観の根底に、華夷秩序も含む伝統的な儒教的価値観の影響が強く残っていることを強調しています。中国文明の伝統的立場は、人間関係においてまず差別があり、強い者が弱い者の上に君臨するという確固たる事実を互いに率直に認めたうえで、共存を実現させようという構想だ、と本書は指摘します。

 互いに対等な立場を前提とすると、世界では争いが絶えなくなるのであり、それよりも、上の立場の者が徳・思いやりを示すことによって、本当の調和が社会に満ち溢れ、究極の平和と共存が実現して「天下」は安泰となる、というわけです。これが「国家」間の関係となると、たとえば冊封関係として現れます。「国家」の統治となると、少数のエリートによる政治参加と、それ以外の圧倒的多数の人々の政治不参加が特徴となります。これは「徳」による政治とされ、それとは対照的な政治体制として、本書は福沢諭吉の見解を引用し、法の支配という「智」の構築による支配を挙げています。

 こうした中国の伝統的価値観が大きく揺らいだのが近代で、それを最終的に崩壊させたのが、中国文明を受容してきた中国よりも「下位」にいるはずの日本だったという屈辱感が、現代中国における日本への反感の根本的要因になっている、というのが本書の見通しです。とはいえ、日清戦争以降、民国期初めにかけて、中国から多くの留学生が日本を訪れ、日本から多くの影響を受けて日本を手本にした近代国家建設を企図したことも、本書は指摘しています。

 近代中国では、こうした日本も含む「西洋の衝撃」により、理念的にはどこまでも続く「天下」観から、国境線のある具体的な領域で構成される国土観が形成されていきます。この過程で、西洋列強の側の認識が中国の知識層たる官僚に取り入れられ、モンゴル・チベット・東トルキスタンを「中国領」・中国と一体のものとする認識が形成されていきました。これが「中華民族」という枠組みの起点となります。

 しかし、これは漢人官僚の間での認識であり、モンゴル・チベット・東トルキスタンの人々にとって、自身が中国の一員であるとは想定外のことでした。しかも、漢人官僚の間では、優越者たる漢人社会が上からモンゴル・チベット・東トルキスタン社会を指導する、という観念が定着します。この認識の差が、現代の中国の民族問題の起点となっており、漢人社会の優越という観念は、現代中国にも根強く継承されています。

 中国の伝統的価値観は変容していきましたが、少数のエリートによる国家統治は中華民国期でも中華人民共和国期でも変わらず、支配層の汚職・腐敗の問題は現代でも根強く残っています。さらに、文化大革命期の精神的荒廃により、すさまじい拝金主義の土壌が形成されたことも、汚職・腐敗の問題を深刻にしました。文化大革命後の中国政府は、少数のエリートたる共産党官僚による国家統治を変えず、外資を呼び込んで市場経済を進展させ、党官僚だけではなく新興の中間層にも利益を厚く分配することで、権威主義的な独裁体制を維持してきました。

 しかし、汚職のみならずそれとも関連して環境問題も深刻化し、貧富の差も拡大するなか、国内では不満が高まっていきます。共産主義の理想たる平等社会が非現実的な目標となった現在、共産党支配の正当性の根拠として、帝国主義諸列強、とくに日本と戦ってきたことが、「愛国教育」の場で強調されるようになります。その根底には、上述した中国知識層の屈辱感がありました。また、理想の平等社会実現を棚上げにした代わりに、近年になって、過去の「栄光の歴史」を国民に想起させる中華民族の復興・中国の夢が声高に主張されるようになります。

 本書は近現代東アジア史の基調を、「西洋によって世界レベルに拡大された普遍的で開かれた文明」をアジアにおいて代表しようとし、それ故に一時は極端な自国中心主義に傾いたものの、第二次世界大戦後はあくまでもソフトパワーとして台頭しようとする日本と、「欧米と渡り合う一方、アジアにおいては中国中心の秩序を実現させたい」と願い、包容力があるように演じながらも、模倣元の日本とは「アジアにおける中心性」を争い、内政・外交の緊張ゆえにソフトパワーになれない中国との対立に、米・欧・ロ(ソ連)・印など大国の利害が複雑に絡み合うものとして展開した、と把握しています。そのうえで本書は、日中関係の近年の様相と今後の展望を次のようにまとめています(P244)。

 そこで中共が、戦略の第一歩として自らの従属下に置こうとしているのが日本である。尖閣問題は島そのものが問題なのではない。「日本が侵略している」と言い立て、日本は第二次大戦の勝者である中国に従わず「戦後秩序を守らない世界のトラブルメーカー」であると中傷することで日本の国際的地位を押し下げ、そのうえで堂々と太平洋に風穴を開け、中米の当面の大共存を実現しようという戦略の一環なのである。日本が屈服すれば、あとはアジア諸国に一対一で従属を迫り、「中国を中心とした真に平和で公正な国際秩序」をつくれば良いという。
 これは、二一世紀における純粋な上下関係の国際秩序、すなわち新・華夷秩序と呼ぶべきものである。これこそが中国文明の復興であり、「中国夢」の目指す理想の境地である。


 本書はこうした中国の方針を、帝国主義国家と何が違うのか、と言って批判します。日本は「徳」を上から振りかざすのではなく、「智」の政治で世界の多くの国々から理解を得られる公正な社会を作っていき、中国の帝国主義路線に対すべきだ、と本書は提言しています。その意味で、近年になって、上から「徳」を振りかざし、憲法・個別の政策で国民・社会に守らせようとする議論が高まりを見せていることに、強い懸念を覚える、と本書は述べています。道徳心は上から強いるものではない、というわけです。

 中国史の復習になりますし、現代中国で主流の世界観がどのように構築されていったのか、簡潔に把握できるので、本書は有益だとは思います。ただ、前近代の社会を前提として近代化が進行したという意味で、現代中国の世界観に伝統的な儒教的価値観の影響があることは間違いないにしても、本書はそれを強調しすぎているようにも思います。本書でも、現代中国の世界観・方針が帝国主義的だとして批判されていますが、現代中国は遅れてきた帝国主義国家だと把握する方がよいのではないか、とも思います。

この記事へのコメント

2014年10月08日 20:30
極端ではないですね。
憲法・政策は重要。徳とは言うがそれだけでは上手くいくはずもない。
憲法・政策でうるさく言わなければ聞かないほど堕落したと言うことだろう

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