神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』第3刷
吉川弘文館より2012年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2007年10月です。本書は通俗的な一向一揆像とは異なる見解を提示しています。一向一揆は、江戸時代における本願寺教団の東西分裂という状況のなか、それぞれの立場の人々に都合よく語られてきた伝承によって、当時の実情とは異なった印象が形成されており、近代以降の歴史学も、そうした印象を必ずしも払拭できなかったばかりか、その時々の潮流に沿って実情とは異なる歴史観を強化することさえあった、というのが本書の見通しです。
本書の意図は、江戸時代以降の一向一揆像(たとえば、本願寺法主の意向に忠実な門徒など)を克服し、当時の一向一揆像を復元しよう、というものです。そもそも、「一向一揆」という用語自体、戦国時代の史料には見えないことも、本書では指摘されています。当時、一向一揆は「一揆」もしくは「土一揆」と呼ばれていました。また、戦国時代の真宗(一向宗)には、加持・祈祷・占いといった要素が多分に見られ、現世利益的性格が強かったことも指摘されています。本書の興味深い見解を備忘録的に述べていこうとすると、かなり長くなりそうなので、なるべく簡潔に述べていくことにします。
一向一揆は、本願寺法主・首脳部の指示に忠実に従って決起したり特定の勢力に加勢したりするような、統制のとれた集団・行動ではありませんでした。一向一揆の核に信仰心があり、本願寺法主には門徒を地獄に落とせるような権威が備わっている、と門徒に思われていた傾向はあります。しかし、だからといって門徒が本願寺法主に常に忠実だったかというと、そうではありませんでした。寺院や地域を核とした小規模な集団単位でのかなりのところ主体的な情勢判断により、門徒は行動しました。さらに、そうした集団やそれらの集合体の意向が、本願寺法主・首脳部の動向を規定するところも多分にありました。
戦国時代の本願寺・一向一揆の動向を大きく規定していたのは中央(畿内)の政治情勢でした。唯物史観的な、民衆と(武士)権力とを対立的に把握する、一向一揆と大名権力とは必然的に対立する構造にあった、との見解は成立しないようです。一向一揆の動向は、かなりのところ中央の政治情勢に左右されています。「百姓の持ちたる国」として有名な加賀一向一揆にしても、一向一揆はあくまでも加賀守護の富樫政親に対抗して別の守護一族(富樫泰高)を擁立したのであり、本願寺が加賀の実質的な領主となるのは、政親を滅ぼしてから約20年後のことであり、本願寺はあくまでも室町幕府の統制下で実質的な加賀守護を務めました。
その後も、本願寺・一向一揆の動向は中央の政治情勢に左右され、山科本願寺が焼打ちにあうという手痛い打撃を受けることもありました。この経験からか、本願寺が大名間の争いに関与するのに慎重な姿勢を示した時期もありますが、中央の政治情勢に左右されるという構造は、織田信長・豊臣秀吉の覇権確立まで続きました。本願寺が信長と敵対したのは、三好三人衆など信長と敵対する勢力と友好関係にあったためで、信長と本質的に対立する要因が存在したわけではありませんでした。そのため、信長の覇権・圧倒的優位が確立すると、本願寺と信長の和睦が確立します(最終的な和睦の前にも何度か和睦しています)。
長島一向一揆にたいする信長の苛烈な処置から、信長と本願寺・一向一揆との本質的な対立関係を想定する見解は根強くありますが、上述したように、信長は何度か本願寺と和睦していますし、最終的に大規模な弾圧・殺戮なしに本願寺と和睦しています。信長の苛烈な処置は、弟の殺害や約定違反といった怨恨や道理に大きく反した場合に見られるものであり、その対象は一向一揆だけではなく武士勢力にも及んでいますし、またそうした苛烈な処置は信長以外の大名権力にも見られるものでした。
本願寺と信長との最終的な和睦の後、一向一揆は解体した、というのが一般的な理解となっています。しかし、秀吉が覇権を確立していくさなかでも、本願寺門徒は秀吉に加勢して武力行動をとっており、大規模な武力蜂起は結果としてなかったものの、織田政権末期以降も、一向一揆の武力は存在し、それは大名権力にとって潜在的脅威であり続けました。そうした本願寺・一向一揆に、かなりの程度自治権を認めることにより、豊臣政権も徳川政権も国内を統制していきました。本願寺も、大名権力に従うことにより、豊臣・徳川政権下でさらに発展していきました。
本願寺が大名権力に従う論理は、本願寺大発展の礎を築いた蓮如の時代にすでに用意されていました。百姓身分の者の守護・地頭への敵対という下剋上が基本的には否定されていた、というわけです。一方で、本願寺への敵対など「仏法に敵をなす」ような場合に限り、「謀反」も「道理至極」とされていました。これが、(一方の大名権力に組して他方の)大名権力に武力抵抗する根拠とされました。戦国時代の本願寺・一向一揆の基本的な行動原理は、早くから成立していたことになります。
以上、本書の見解についてざっとまとめてみました。織田信長と本願寺・一向一揆とは不倶戴天の敵対的関係にあった、との見解は今でも一般には根強いように思います。しかし本書は、本願寺の東西分裂という江戸時代以降の状況で語られた一向一揆像を極力排し、当時の文脈に基づく本願寺・一向一揆像を提示しています。本書の見解は基本的に妥当だと思いますし、今後は、本書の見解が一般にも広く浸透してもらいたいものです。なお、著者には本書刊行後の著書もあり、本書の理解を深めるうえでたいへん有益だと思います(関連記事)。
本書の意図は、江戸時代以降の一向一揆像(たとえば、本願寺法主の意向に忠実な門徒など)を克服し、当時の一向一揆像を復元しよう、というものです。そもそも、「一向一揆」という用語自体、戦国時代の史料には見えないことも、本書では指摘されています。当時、一向一揆は「一揆」もしくは「土一揆」と呼ばれていました。また、戦国時代の真宗(一向宗)には、加持・祈祷・占いといった要素が多分に見られ、現世利益的性格が強かったことも指摘されています。本書の興味深い見解を備忘録的に述べていこうとすると、かなり長くなりそうなので、なるべく簡潔に述べていくことにします。
一向一揆は、本願寺法主・首脳部の指示に忠実に従って決起したり特定の勢力に加勢したりするような、統制のとれた集団・行動ではありませんでした。一向一揆の核に信仰心があり、本願寺法主には門徒を地獄に落とせるような権威が備わっている、と門徒に思われていた傾向はあります。しかし、だからといって門徒が本願寺法主に常に忠実だったかというと、そうではありませんでした。寺院や地域を核とした小規模な集団単位でのかなりのところ主体的な情勢判断により、門徒は行動しました。さらに、そうした集団やそれらの集合体の意向が、本願寺法主・首脳部の動向を規定するところも多分にありました。
戦国時代の本願寺・一向一揆の動向を大きく規定していたのは中央(畿内)の政治情勢でした。唯物史観的な、民衆と(武士)権力とを対立的に把握する、一向一揆と大名権力とは必然的に対立する構造にあった、との見解は成立しないようです。一向一揆の動向は、かなりのところ中央の政治情勢に左右されています。「百姓の持ちたる国」として有名な加賀一向一揆にしても、一向一揆はあくまでも加賀守護の富樫政親に対抗して別の守護一族(富樫泰高)を擁立したのであり、本願寺が加賀の実質的な領主となるのは、政親を滅ぼしてから約20年後のことであり、本願寺はあくまでも室町幕府の統制下で実質的な加賀守護を務めました。
その後も、本願寺・一向一揆の動向は中央の政治情勢に左右され、山科本願寺が焼打ちにあうという手痛い打撃を受けることもありました。この経験からか、本願寺が大名間の争いに関与するのに慎重な姿勢を示した時期もありますが、中央の政治情勢に左右されるという構造は、織田信長・豊臣秀吉の覇権確立まで続きました。本願寺が信長と敵対したのは、三好三人衆など信長と敵対する勢力と友好関係にあったためで、信長と本質的に対立する要因が存在したわけではありませんでした。そのため、信長の覇権・圧倒的優位が確立すると、本願寺と信長の和睦が確立します(最終的な和睦の前にも何度か和睦しています)。
長島一向一揆にたいする信長の苛烈な処置から、信長と本願寺・一向一揆との本質的な対立関係を想定する見解は根強くありますが、上述したように、信長は何度か本願寺と和睦していますし、最終的に大規模な弾圧・殺戮なしに本願寺と和睦しています。信長の苛烈な処置は、弟の殺害や約定違反といった怨恨や道理に大きく反した場合に見られるものであり、その対象は一向一揆だけではなく武士勢力にも及んでいますし、またそうした苛烈な処置は信長以外の大名権力にも見られるものでした。
本願寺と信長との最終的な和睦の後、一向一揆は解体した、というのが一般的な理解となっています。しかし、秀吉が覇権を確立していくさなかでも、本願寺門徒は秀吉に加勢して武力行動をとっており、大規模な武力蜂起は結果としてなかったものの、織田政権末期以降も、一向一揆の武力は存在し、それは大名権力にとって潜在的脅威であり続けました。そうした本願寺・一向一揆に、かなりの程度自治権を認めることにより、豊臣政権も徳川政権も国内を統制していきました。本願寺も、大名権力に従うことにより、豊臣・徳川政権下でさらに発展していきました。
本願寺が大名権力に従う論理は、本願寺大発展の礎を築いた蓮如の時代にすでに用意されていました。百姓身分の者の守護・地頭への敵対という下剋上が基本的には否定されていた、というわけです。一方で、本願寺への敵対など「仏法に敵をなす」ような場合に限り、「謀反」も「道理至極」とされていました。これが、(一方の大名権力に組して他方の)大名権力に武力抵抗する根拠とされました。戦国時代の本願寺・一向一揆の基本的な行動原理は、早くから成立していたことになります。
以上、本書の見解についてざっとまとめてみました。織田信長と本願寺・一向一揆とは不倶戴天の敵対的関係にあった、との見解は今でも一般には根強いように思います。しかし本書は、本願寺の東西分裂という江戸時代以降の状況で語られた一向一揆像を極力排し、当時の文脈に基づく本願寺・一向一揆像を提示しています。本書の見解は基本的に妥当だと思いますし、今後は、本書の見解が一般にも広く浸透してもらいたいものです。なお、著者には本書刊行後の著書もあり、本書の理解を深めるうえでたいへん有益だと思います(関連記事)。
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