高橋征仁「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」

 表題の論文を(高橋.,2013)読みました。ひじょうに興味深い論文で、納得できるところが多々ありました。本論文が社会学の研究者の間でどのように受け止められたのか、社会学に疎い私にはよく分かりませんが、社会学の研究者と会話をする機会があれば、尋ねてみたいものです。社会学に疎い私でも、進化学関連で色々と情報を収集していると、社会学の側に生物学への警戒感が根強くありそうだな、とは感じてきました。本論文は、義務でもないのに、進化や遺伝子という言葉を掲げ、ジェンダー研究や家族社会学の領域に足を踏み入れようとする社会科学者は「愚かな」研究者とみなされるに違いなく、ジェンダー研究や家族社会学の領域における「バイオ・フォビア」は強力だ、と指摘しています。

 私からすると、ジェンダー研究や家族社会学のような学際的性格が強くならざるを得ない学術分野において、進化学の成果を大々的に取り入れなければならないのは自明のことだと思うのですが、それだけ社会進化論・優生学への警戒が強い、ということでもあるのでしょう。ある社会的行動の説明に際して、性別や年齢を統制変数として分析モデルに投入し、それらの説明力が比較的高く安定しているにも関わらず、その意味について深く考察せず、より説明力の低い文化資本や社会階層の指標など「文化的・社会的要因」探しに夢中になるのは、社会学の本分なのだろうか?と本論文は疑問を呈しています。

 本論文によると、社会学に比較的近い心理学・文化人類学・経済学・言語学などだけではなく、哲学・文学・宗教学などでも、進化論的転換は看過できないものになっているのに、社会学だけはこの学際的研究動向から隔離され、事実上「鎖国状態」に陥っている、とのことです。未婚化や少子化をめぐる社会学的説明モデルにしても、1970年代以降顕著になった日本社会内部の変動に注目するものが多く、明らかに近視眼的でドメスティックだ、と本論文は指摘します。近代化という特殊なニッチ構築だけではなく、生存と繁殖に関する進化論の一般的原則も視野に入れる必要があるだろう、と本論文は提言しています。

 たとえば「マルクス主義フェミニズム」は、家父長制的資本制が女性の労働力を「搾取」・「横領」してきた事実を抉り出すための強力な武器となってきたものの、多くの人々が性別分業や母性神話をめぐる矛盾に半ば気づきながらも、なぜ自己犠牲を選択するのか、上手く説明できていない、と本論文は指摘します。それに対して、進化論的アプローチは、養育行動の究極要因が適応度(遺伝子の複製)の増大にあり、子供に対する親の投資のあり方が、系統発生的な頑健さと戦略的な多様性を併せ持つことを証明してきた、というわけです。

 本論文は、進化論的アプローチと人文社会科学との新たな協力・競合関係を構築し、従来の理論的問題や実践的困難を乗り越える道を切り開いていくような研究の推進に関わる規範的立場を、「ダーウィニアン・フェミニズム」と呼んでいます。両者は両立可能であり、相互に有益な知見を生み出すことも展望されています。「生まれか育ちか」という二項対立的図式から脱却するうえでも、「ダーウィニアン・フェミニズム」という看板は有効だろう、と本論文は指摘しています。

 二項対立的図式としては、たとえばセックス(sex)とジェンダー(gender)とがあり、生物学的に形成された前者と文化・社会的に形成された後者として説明されています。しかし、表現形態としての男/女らしさを意味する英語のジェンダー(gender)には、その形成要因を文化的・社会的なものに限定する意味合いはない、と本論文は指摘しています。また、社会学の側では、人間と(人間ではない)動物との差異を強調するような二項対立的図式が見られたのに対して、生物学の側では、そうした二項対立的図式から脱却し、人間と(人間ではない)動物との連続性が探られてきた、とも本論文は指摘しています。

 本論文は、家族研究に進化学の研究成果を取り入れるにさいして、「家族」という生活様式が系統発生的にみてさほど古くなく、その実態が多様であることに起因する難しさを指摘しています。本論文は、アウストラロピテクス=アファレンシスが家族として暮らしていた証拠はほとんどないとし、家族の起源を180万年前頃のホモ=エレクトスの時代に求めるのが一般的だ、との見解を提示しています。直立二足歩行に伴う脳容量の肥大化(直立二足歩行には少なくとも二段階の画期があり、それぞれと脳容量の増大は直接的には結びつかないだろう、と私は考えています)と養育期間の長期化により、男女のペア・ボンドが強められ、男性の養育参加や性別分業が促進されたのではないか、というわけです。ただ、性別分業は上部旧石器時代の現生人類(ホモ=サピエンス)社会において始まったのではないか、との見解もあります(関連記事)。

 人類の家族形態に関して、更新世以前についてはほとんど直接的証拠がない、というのが現状でしょう。管見の限りでは、数少ない事例となりそうなのが、中部旧石器時代のイベリア半島北部のネアンデルタール人(ホモ=ネアンデルターレンシス)の社会に夫居制的婚姻行動が存在した可能性を指摘した研究(関連記事)と、ネアンデルタール人社会で何代かにわたって近親婚が繰り返されていた可能性を指摘した研究です(関連記事)。ただ、そうした見解が妥当だとしても、それを地理的・時間的に拡大してどこまで一般化できるのか、さらには現生人類の社会でも同様だったのか、という疑問は残ります。おそらく、更新世の頃より人類社会の在り様は多様だったのではないか、と私は考えています。

 親の子供への愛情を近代(中世から近世を経て近代にかけての長い移行期に進行します)の社会規範と強く結びつける見解もあります(関連記事)。しかし本論文は進化学の研究成果を参照し、親が子供に対して愛情を抱くメカニズムは、イデオロギーによる誤作動ではなく、進化的な適応そのものであり、進化を通じて身体的に準備されてきたものではあるものの、それは母性神話にみられる無限の自己犠牲や慈愛などではなく、きわめて戦略的かつ状況依存的な選択に変わるのだ、と指摘します。戦後の社会学は、愛や母性に関する近代的イデオロギーの特殊性にこだわるあまり、人間行動に底流する基本プログラムの存在を見逃してきた、というわけです。本論文は家族という人間社会の制度を、遺伝子複製という利害を共有する男女とその血縁者間のダイナミズムたる遺伝子共同体として把握することで、現代の家族問題に異なる角度からの鳥瞰を得ることができる、と指摘しています。


参考文献:
高橋征仁(2013)「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」『社会分析』40号P105-122
http://jsasa.org/paper/40_7.pdf

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    Excerpt: 昨日このブログにて取り上げた高橋征仁「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」にはたいへん興味深い指摘が色々とあり、昨日の記事では取り上げきれなかった.. Weblog: 雑記帳 racked: 2014-07-19 00:00
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