小林青樹「縄文と弥生 日本列島を縦断する移動と交流」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第3節

 印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(関連記事)所収の論文です。本論文は、弥生時代の開始について新説を採用しており、じゅうらいの年代観よりも弥生時代の開始が繰り上がることになります。そのため、弥生文化の伝播はゆっくりとしたものであり、「縄文の壁」がその前に立ちはだかった、というのが本論文の基本的な見通しとなります。この「縄文の壁」と弥生文化の伝播の在り様(本論文では「縄文の壁弥生文化伝播」と呼ばれています)は中四国や近畿や中部・東海や関東といった各地でそれぞれ異なっていたようです。

 「縄文の壁」が立ちはだかった要因として、縄文文化の人々にとって、弥生文化の基本的観念、とくに戦争が分かりにくかったのではないか、と指摘されています。それでも、弥生文化は縄文文化と共存しつつも、拡大していきます。しかし本論文は、両者の関係について、弥生文化から縄文文化へ一方的に影響力が及んだ、とする見解に修正を迫ります。東北の亀ヶ岡系土器の文様が、弥生時代前期を象徴する板付文化の壺の文様の起源となったことが、本論文では指摘されています。さらに、そもそも板付式土器の壺自体、文様だけではなく基本的な形が弥生時代早期以前より亀ヶ岡文化からもたらされた可能性や、漆塗製品に関しても、板付遺跡では亀ヶ岡文化の影響が強いことが指摘されています。

 本論文は、弥生時代早期段階の北部九州で大陸からの異文化情報が一気に流入したため一時的な混乱状態が生じ、動揺を回避するため、保守志向に傾いたのではないか、と推測しています。また、亀ヶ岡文化の工芸品製作の技術水準は大陸よりもずっと高度であり、首長層の威信財としての役割を果たしていた可能性も指摘されています。ただ、亀ヶ岡文化と弥生時代早期・前期の北部九州の交流は盛んだったものの、東北への水稲耕作の導入はずっと遅れます。亀ヶ岡文化の人々にとって、弥生文化には受け入れがたい何かがあったからだろう、と本論文は推測しています。


参考文献:
小林青樹(2014)「縄文と弥生 日本列島を縦断する移動と交流」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第3節P155-169

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