『週刊新発見!日本の歴史』第50号「弥生時代 稲作の伝来と普及の謎」

 この第50号は紀元前1500年頃~紀元1世紀頃までを対象としています。時代区分については議論のあるところですが、おおむね、縄文時代後期の後半~弥生時代中期末もしくは後期の前半あたりまでが対象になっている、と言えるでしょう。この第50号の特徴は、縄文時代~弥生時代への移行における連続性と、水田稲作の導入にさいしての「縄文人」の主体性を強調しているところです。「弥生系渡来人」が一方的に水田稲作を導入し、「縄文人」を圧倒していったのではなく、相互交流のなかで、縄文社会の蓄積を前提として、選択的に水田稲作が導入されていった、というわけです。初期の水田稲作が、じゅうらいは縄文時代晩期とされていた時期に北部九州で始まっていたことも明らかになってきました。

 そうした縄文社会の蓄積の具体例として、まだ議論はあるものの、縄文時代中期には植物栽培がかなり広まっており、縄文時代晩期にはさらに拡大していたことが指摘されています。そうした植物栽培において、どの種が対象となったのかは、地域により異なるようですが、大豆・小豆といった豆類は広く利用されていたようです。一方、穀物に関して現時点では、縄文時代晩期にいたるまで、どうも栽培の痕跡が明確にはなっていないようです。また、縄文時代における植物栽培の比重がどれだけのものだったのか、という点についても、現時点では共通認識が得られていないようです。縄文時代における穀物栽培の有無や、植物栽培の比重については、今後のさらなる研究の進展が期待されます。

 この第50号では、土器の研究からも縄文時代と弥生時代の連続性が強調されており、初期の弥生土器が朝鮮半島由来の無文土器の系譜をひくものでありつつも、文様などで縄文土器の影響を受けていることが指摘されています。こうしたことから、土器の変化と農耕(水田稲作)を指標としてきた弥生時代についての見直しも進んでおり、弥生時代の開始をいつに設定するのか、議論が続いているようです。水田稲作を指標として、北部九州における弥生時代の始まり(早期)を、じゅうらいは縄文時代晩期とされていた時期にまで繰り上げるのか、国立歴史民俗博物館が11年前に発表した弥生時代の暦年代繰り上げ説も含めて、今後も検証・議論が必要と言えるでしょう。

 この第50号にて『週刊新発見!日本の歴史』は完結となります。第1号から毎号このブログで取り上げてきましたが、全体的には、第一線の研究者を多数起用したこともあり、最新の研究成果を一般層に伝える役割を果たせていたように思います。今後時間を作って、年代順に全号読み直していこう、と考えています。過去の朝日新聞の週刊歴史ものと同じく、この『週刊新発見!日本の歴史』の出来もよかったとは思うのですが、書店の入荷数を見ていると、どうも売り上げは芳しくなかったようで、残念ではあります。全号このブログで取り上げましたので、各号を取り上げた記事を年代順に一覧にまとめて、後日このブログに掲載する予定です。

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