『天智と天武~新説・日本書紀~』第43話「朝鮮出兵」
『ビッグコミック』2014年6月25日号掲載分の感想です。今回も人物相関図が掲載されており、前回と異なるのは、すでに死亡した人物については背景が暗くなって「没」と明示されていることと、扶余隆・劉仁軌が新たに加えられたことと、中大兄皇子から斉明帝へは「絞殺」の説明がなされていることです。前回は、中大兄皇子が朝鮮半島へ出陣する準備が整ったと判断し、朝鮮半島を盗りに行く決意を改めて固めたところで終了しました。今回は、馬上の中大兄皇子が兵士たちに、渡海して新羅・唐を斃して百済を救い、朝鮮半島を平定して我がものにする、と力強く訴えるところから始まります。これに応えて兵士たちも、朝鮮を我がものに、と叫びます。
中大兄皇子・大海人皇子・兵士たちは船へと乗り込み、その中には蘇我石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)を作った新羅の仏師もいました。鵲は船員に賄賂を渡し、仏師は船員から服を譲り受けて乗り込みます。鵲は涙を流しながらも笑顔で仏師を見送ります。船内で船員に指示を出していた大海人皇子は、船員として乗り込んだ仏師に気づき、無言で合図を交わします。
百済復興軍の拠点である周留城では、豊璋(豊王)が倭からの密書を受け取っていました。そこには中大兄皇子が8月末にも1万の兵を従えて白村に到着する、とありました。その書状を阿曇比邏夫(安曇比羅夫)に見せた豊璋は、自分が中大兄皇子を出迎える、と言います。私が迎えに参ります、と申し出る阿曇比邏夫にたいして、留守を頼む、と豊璋は言います。新羅・唐の軍隊がどこに潜んでいるか分からない、ということで阿曇比邏夫は懸念します。
しかし豊璋は、熊津城での敗北で山間部は新羅の支配下に置かれてしまったが、白村に至る白馬江下流部はまだ我々が掌握している、と言って自ら中大兄皇子を迎えに行く決意を変えません。中大兄皇子の野望(新羅に勝ったさいには新羅領の半分を倭領とすること)こそが百済再建へとつながる一縷の望みなので、自分が中大兄皇子を直接迎えに行かねばならない、と豊璋は考えていました。馬では白村まで一晩ということもあり、豊璋はさほど不安に思っていないようです。
豊璋は20人の精鋭とともに出かけますが、道中で敵に襲われ、落馬して気絶してしまいます。豊璋の鎧が立派なのを見て、重要人物だと判断した襲撃部隊の指揮官は、豊璋を本隊に俘虜として連行するよう命じます。豊璋が寝台にて目を覚ますと、そこには医師と扶余隆がいました。扶余隆の方は、捕えた人物が弟の豊璋だとすでに知っていたようです。30年振りだな、お互い年をとったものだ、と扶余隆は言い、兄弟は抱き合います。まさか、生きて会えるとは、と喜ぶ豊璋にたいして、唐の高宗のおかげだ、と扶余隆は言います。
ここはどこなのだと豊璋が尋ねると、白村江沿岸にある豪族の家で、唐の劉仁軌将軍率いる水軍の陣地として使っている、と扶余隆は答えます。驚く豊璋にたいして扶余隆は、則天武后(武則天)が40万人もの兵を出してくれて周留城を水陸ともに完全に包囲したので、周留城は間もなく陥落するだろうが、案ずるな、と言います。自分も唐に捕えられたが水軍の副官として取り立てられた、唐は世界一の大帝国だ、世の全てのものが集まり平伏する、ここで出世すれば世界を手にできるといっても過言ではない、と扶余隆は高揚した表情で豊璋に言います。
本気ですか、先祖の地を滅ぼした国ですぞ、と言う豊璋にたいして、遅かれ早かれそうなる運命だったのだ、そなたも百済復興再建などという幻想を捨てて、唐にその身を捧げてみないか、定恵(真人)という僧になった息子が唐にいるそうだが、自分が上にとりなしてやろう、と扶余隆は説得します。豊璋が納得しない様子なのを見た扶余隆は、強引に説得を続けようとはせず、そのうち唐の力がどれほどのものか分かるだろう、と言います。この白村江で目に物見せてくれるだろう、そなたがわざわざ迎えに出るほど心待ちにしている倭(日本)水軍には気の毒だがな、と扶余隆が言うと、豊璋は衝撃を受けます。劉仁軌に呼ばれた扶余隆は、大人しくしていろ、逃げようなどと馬鹿なことは考えるな、と豊璋に言って立ち去ります。
その頃、中大兄皇子の率いる倭水軍は、白村江へと到達しました。倭軍の兵士たちは広いなと言い、興奮しているようです。同乗している大海人皇子は、豊璋に託した和平案が雲散霧消したことを悟ります。その様子を、敵船400余とは密偵の報告通りだ、と言って扶余隆・劉仁軌が眺めていました。天智2年8月27日、倭水軍が到着したにも関わらず、豊璋が迎えに来ないことを中大兄皇子が不審に思っているというところで、今回は終了です。
今回はついに663年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)8月27日まで話が進み、次回(とおそらく次々回をかけて)いよいよ第一の山場である白村江の戦いが描かれるのでしょう。次号予告は「日本の歴史上、初めての対外戦争が始まる。敵は強大な唐帝国・・・・・・中大兄皇子に勝機はあるのか!?」・「物語は佳境へ!!増ページ!!日本水軍は百済王・豊璋の待つ白村江に到達した。ところが、いるはずのない唐水軍が待ち構えていた!ここは用心すべきだと言う大海人皇子に対し、中大兄皇子の決断は・・・!?」となっており、嬉しいことに次号は増ページのようです。
おそらくは通説にしたがって話が進むでしょうから、663年8月27日に倭水軍と唐水軍が戦い、倭水軍が敗れて退いた一方で唐水軍は陣を固め、翌日に倭水軍が大敗することになるのでしょう。豊璋がすでに唐に捕えられていたという創作がどのように活かされて話が進むのか、大いに楽しみです。作中では、豊璋と藤原(中臣)鎌足が同一人物という設定になっていますから、豊璋は、高句麗に逃げた(『日本書紀』)にしても行方不明になった(『新唐書』)にしても、すぐに(『日本書紀』にしたがえば、遅くとも664年10月までには)倭に戻るはずです。
前回、扶余隆は弟の豊璋の首を持ち帰ると則天武后に約束していますから、すぐに豊璋を斬首しなかった理由と、今後の展開が大いに気になるところです。扶余隆は唐に心酔しているように見えて実はそうでもなく、豊璋の首は他人のものでごまかし、豊璋を倭に送り返して百済王族の血が継承されていく可能性を少しでも高めようとしたのか、あるいは単に混乱の中で豊璋に逃げられてしまったのか、それとも他の展開があるのか、現時点ではよく分かりません。白村江の戦いの前に豊璋が唐に捕えられるという創作をわざわざ入れてくるくらいですから、重要な意味があるのは間違いないと思うのですが。
創作と言えば、中大兄皇子・大海人皇子が朝鮮半島にまでじっさいに出陣したのも意外でした。中大兄皇子・大海人皇子は白村江の戦いに間に合わず、倭に留まって敗戦処理に追われる、という展開になると予想していたのですが。白村江の戦いでの大敗が、中大兄皇子・大海人皇子の関係をどう変えていくのか、ということも注目点です。作中では、百済復興の救援に関して、中大兄皇子が終始一貫して積極的だったのにたいして、大海人皇子はずっと慎重な姿勢を見せていました。このことから、大海人皇子の権威が高まることが予想されます。甲子の宣もその文脈で解釈されるのかもしれません(作中では言及されない可能性もありますが)。色々と創作も交えられてやや今後の展開が予想しづらくなったこともあり、ますますこの先が楽しみになってきました。
中大兄皇子・大海人皇子・兵士たちは船へと乗り込み、その中には蘇我石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)を作った新羅の仏師もいました。鵲は船員に賄賂を渡し、仏師は船員から服を譲り受けて乗り込みます。鵲は涙を流しながらも笑顔で仏師を見送ります。船内で船員に指示を出していた大海人皇子は、船員として乗り込んだ仏師に気づき、無言で合図を交わします。
百済復興軍の拠点である周留城では、豊璋(豊王)が倭からの密書を受け取っていました。そこには中大兄皇子が8月末にも1万の兵を従えて白村に到着する、とありました。その書状を阿曇比邏夫(安曇比羅夫)に見せた豊璋は、自分が中大兄皇子を出迎える、と言います。私が迎えに参ります、と申し出る阿曇比邏夫にたいして、留守を頼む、と豊璋は言います。新羅・唐の軍隊がどこに潜んでいるか分からない、ということで阿曇比邏夫は懸念します。
しかし豊璋は、熊津城での敗北で山間部は新羅の支配下に置かれてしまったが、白村に至る白馬江下流部はまだ我々が掌握している、と言って自ら中大兄皇子を迎えに行く決意を変えません。中大兄皇子の野望(新羅に勝ったさいには新羅領の半分を倭領とすること)こそが百済再建へとつながる一縷の望みなので、自分が中大兄皇子を直接迎えに行かねばならない、と豊璋は考えていました。馬では白村まで一晩ということもあり、豊璋はさほど不安に思っていないようです。
豊璋は20人の精鋭とともに出かけますが、道中で敵に襲われ、落馬して気絶してしまいます。豊璋の鎧が立派なのを見て、重要人物だと判断した襲撃部隊の指揮官は、豊璋を本隊に俘虜として連行するよう命じます。豊璋が寝台にて目を覚ますと、そこには医師と扶余隆がいました。扶余隆の方は、捕えた人物が弟の豊璋だとすでに知っていたようです。30年振りだな、お互い年をとったものだ、と扶余隆は言い、兄弟は抱き合います。まさか、生きて会えるとは、と喜ぶ豊璋にたいして、唐の高宗のおかげだ、と扶余隆は言います。
ここはどこなのだと豊璋が尋ねると、白村江沿岸にある豪族の家で、唐の劉仁軌将軍率いる水軍の陣地として使っている、と扶余隆は答えます。驚く豊璋にたいして扶余隆は、則天武后(武則天)が40万人もの兵を出してくれて周留城を水陸ともに完全に包囲したので、周留城は間もなく陥落するだろうが、案ずるな、と言います。自分も唐に捕えられたが水軍の副官として取り立てられた、唐は世界一の大帝国だ、世の全てのものが集まり平伏する、ここで出世すれば世界を手にできるといっても過言ではない、と扶余隆は高揚した表情で豊璋に言います。
本気ですか、先祖の地を滅ぼした国ですぞ、と言う豊璋にたいして、遅かれ早かれそうなる運命だったのだ、そなたも百済復興再建などという幻想を捨てて、唐にその身を捧げてみないか、定恵(真人)という僧になった息子が唐にいるそうだが、自分が上にとりなしてやろう、と扶余隆は説得します。豊璋が納得しない様子なのを見た扶余隆は、強引に説得を続けようとはせず、そのうち唐の力がどれほどのものか分かるだろう、と言います。この白村江で目に物見せてくれるだろう、そなたがわざわざ迎えに出るほど心待ちにしている倭(日本)水軍には気の毒だがな、と扶余隆が言うと、豊璋は衝撃を受けます。劉仁軌に呼ばれた扶余隆は、大人しくしていろ、逃げようなどと馬鹿なことは考えるな、と豊璋に言って立ち去ります。
その頃、中大兄皇子の率いる倭水軍は、白村江へと到達しました。倭軍の兵士たちは広いなと言い、興奮しているようです。同乗している大海人皇子は、豊璋に託した和平案が雲散霧消したことを悟ります。その様子を、敵船400余とは密偵の報告通りだ、と言って扶余隆・劉仁軌が眺めていました。天智2年8月27日、倭水軍が到着したにも関わらず、豊璋が迎えに来ないことを中大兄皇子が不審に思っているというところで、今回は終了です。
今回はついに663年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)8月27日まで話が進み、次回(とおそらく次々回をかけて)いよいよ第一の山場である白村江の戦いが描かれるのでしょう。次号予告は「日本の歴史上、初めての対外戦争が始まる。敵は強大な唐帝国・・・・・・中大兄皇子に勝機はあるのか!?」・「物語は佳境へ!!増ページ!!日本水軍は百済王・豊璋の待つ白村江に到達した。ところが、いるはずのない唐水軍が待ち構えていた!ここは用心すべきだと言う大海人皇子に対し、中大兄皇子の決断は・・・!?」となっており、嬉しいことに次号は増ページのようです。
おそらくは通説にしたがって話が進むでしょうから、663年8月27日に倭水軍と唐水軍が戦い、倭水軍が敗れて退いた一方で唐水軍は陣を固め、翌日に倭水軍が大敗することになるのでしょう。豊璋がすでに唐に捕えられていたという創作がどのように活かされて話が進むのか、大いに楽しみです。作中では、豊璋と藤原(中臣)鎌足が同一人物という設定になっていますから、豊璋は、高句麗に逃げた(『日本書紀』)にしても行方不明になった(『新唐書』)にしても、すぐに(『日本書紀』にしたがえば、遅くとも664年10月までには)倭に戻るはずです。
前回、扶余隆は弟の豊璋の首を持ち帰ると則天武后に約束していますから、すぐに豊璋を斬首しなかった理由と、今後の展開が大いに気になるところです。扶余隆は唐に心酔しているように見えて実はそうでもなく、豊璋の首は他人のものでごまかし、豊璋を倭に送り返して百済王族の血が継承されていく可能性を少しでも高めようとしたのか、あるいは単に混乱の中で豊璋に逃げられてしまったのか、それとも他の展開があるのか、現時点ではよく分かりません。白村江の戦いの前に豊璋が唐に捕えられるという創作をわざわざ入れてくるくらいですから、重要な意味があるのは間違いないと思うのですが。
創作と言えば、中大兄皇子・大海人皇子が朝鮮半島にまでじっさいに出陣したのも意外でした。中大兄皇子・大海人皇子は白村江の戦いに間に合わず、倭に留まって敗戦処理に追われる、という展開になると予想していたのですが。白村江の戦いでの大敗が、中大兄皇子・大海人皇子の関係をどう変えていくのか、ということも注目点です。作中では、百済復興の救援に関して、中大兄皇子が終始一貫して積極的だったのにたいして、大海人皇子はずっと慎重な姿勢を見せていました。このことから、大海人皇子の権威が高まることが予想されます。甲子の宣もその文脈で解釈されるのかもしれません(作中では言及されない可能性もありますが)。色々と創作も交えられてやや今後の展開が予想しづらくなったこともあり、ますますこの先が楽しみになってきました。
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