『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』

 本書は『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店)の第1巻で、2013年11月に刊行されました。すでに『第6巻 中世1』(関連記事)をこのブログで取り上げました。各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようとすると、私の見識・能力ではかなり時間を要しそうなので、『第6巻 中世1』と同じく、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。ただ、佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」は古人類学に関わる論文なので、別に単独で取り上げました(関連記事)。



●大津透「古代史への招待」(P1~26)
 本論文では研究史の把握・整理と今後の展望が提示されています。本論文は、戦後の日本古代史研究で最大の成果として石母田正『日本の古代国家』を挙げ、やや詳しく紹介するとともに、その意義を論じています。律令制研究の進展については、北宋天聖令の明代写本が前世紀末に確認され、新たな研究段階を迎えていることが指摘されています。天皇号の成立については、現在有力な天武朝説に否定的で、もっとさかのぼる可能性が示唆されています。日本国号については、7世紀後半の時点で、日の昇るところ(極東)という意味の普通名詞として唐では用いられており、それ故に倭から日本への国号変更が受け入れられた可能性が指摘されています。その他には、儀礼研究が盛んになってきたことや、王朝国家論により平安時代の国制の解明が進んだことが指摘されています。


●佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(P27~62)
 上述したように、この論文はすでに単独でブログにて取り上げました(関連記事)。


●設楽博己「縄文時代から弥生時代へ」(P63~99)
 本論文は研究史を把握・整理しつつ、縄文時代~弥生時代への移行と弥生時代の定義について検証しています。弥生時代が大陸(直接的には朝鮮半島)から導入された水田稲作を中心とする単一的な農耕文化と把握されるのではなく、縄文的な要素が弥生時代の土器や生業などに大きく影響を及ぼしていたことが指摘され、弥生文化が複合的な農耕文化であることが強調されています。これと関連して、そもそも日本列島への水田稲作の経由地となった朝鮮半島南部において、水田稲作と畠作農耕が併存し、むしろ後者が優勢だったことが指摘されています。

 本論文は、弥生時代の農耕を網羅型と選別型に二分し、栽培や狩猟・漁撈の対象となる植物・水陸の動物に関して、前者が種類豊富なのにたいして、後者は特定の種類(農耕であれば水田稲作)に特化している、と指摘します。弥生時代の網羅型農耕には、縄文時代からの影響も想定されています。本書は、じゅうらいの弥生時代研究が選別型を重視してきたのは、それが古墳時代や国家形成へとつながるので仕方のないところもあるにしても、弥生時代観が一面的にもなった、と指摘しています。また、単線的な発展史観の見直しとして、水田稲作が西(九州北部)から順に東遷していったのではなく、東北地方北部では関東よりも早い水田稲作の導入が見られたことも指摘されています(もっとも、弥生時代後期になると、東北地方北部は寒冷化により続縄文文化圏に入ります)。

 本論文は、一般にも話題になった弥生時代の開始年代をめぐる論争にもかなりの分量を割いています。じゅうらいの弥生時代の時期区分・年代観は、前期・中期・後期の実年代が均等に推移するという固定化した思考によるものではないか、との指摘は興味深いものがあります。ただ本論文を読むと、弥生時代の開始が紀元前10世紀後半までさかのぼるとの衝撃的な仮説は、東アジア北部の考古学的成果と必ずしも整合的とは言えないところもあります。もちろん、朝鮮半島や中国北部の考古学的遺物の暦年代が今後見直される可能性もあるわけですが、現時点では、弥生時代の開始年代については、どこに弥生時代開始の指標を求めるのかという問題も含めて(当然、日本列島でも地域により異なるでしょう)、判断を保留しておくのが妥当だろう、と思います。


●岩永省三「東アジアにおける弥生文化」(P101~134)
 門外漢の私は、実証だけではなく理論も重視した主張の明確な論文との印象を受けました。弥生時代の開始年代をめぐる議論については、紀元前10世紀後半までさかのぼるとの早期説を完全に否定しています。日本列島における都市の起源については、文献史学では中世と近世のどちらかで論争となっています。しかし考古学の一部では、弥生時代、さらには縄文時代にさかのぼって都市を想定する見解も提示されています。しかし本論文は、理論・実証面の両方から、弥生都市説を完全に否定しています。

 弥生時代の首長の地位は、直接的に朝鮮半島から、または朝鮮半島経由でもたらされる威信財となり得る舶載品の把握に左右される不安定なものであり、それ故に短期間での諸集団の組織化も可能であった、との認識を本論文は提示しています。弥生時代後期後半~終末期に日本列島で墳丘を有する厚葬墓が発達し、首長の成長が確認されますが、これは農業生産力の上昇による富の蓄積を背景としたものではなく、舶載品の流通の把握を背景とし、卑弥呼の共立もその文脈で解される、と本論文は主張します。そのため、この成立した首長ネットワークはなかなか組織的・制度的なものにはならず、それが克服されるのは5世紀後半以降であり、ここで前国家段階に突入する、との見通しを本論文は提示しています。


●仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」(P135~167)
 本論文は、いわゆる邪馬台国論争の把握・整理にかなりの分量を割いており、邪馬台国の所在地については、畿内説を支持すると明言しています。倭国の成立に関しては、107年の後漢への朝貢が中国側の認識として注目される、との見解が提示されています(前世紀後半に西嶋定生氏も指摘しています)。正直なところ、本論文には色々と疑問が残ったのですが、執筆していて門外漢の専門家にたいする文章としてあまりにも失礼で身の程知らずのものになったので、その部分は公開せず、以下に本論文の疑問点について少し述べるに止めておきます。

 本論文は、奴国は後漢の滅亡にともない衰退し、伊都国が取って代わり、卑弥呼共立以前に倭国王を称したのではないか、と推測しています。しかしそのすぐ後で、107年に後漢に朝貢した倭国王が伊都国王だった可能性を指摘しています。単純に複数の可能性を提示しただけかもしれませんが、そのまま読むと、混乱しているようにも感じられます。また本論文では、『史記』によると夏王朝の前に尭・舜・禹の三皇と五帝の時代があったと言い伝えられる、とされています。あるいは、筆者の意図は違うのかもしれませんが、率直に言って、基本的な間違いだと解釈されても仕方のない文章になっています。


●福永伸哉「前方後円墳の成立」(P169~202)
 本論文は研究史を把握・整理しつつ、前方後円墳の成立時期を中心にその前史となる弥生時代中期末~古墳時代末期までを概観するとともに、古墳時代の定義・意義および日本列島の巨大前方後円墳と世界各地の巨大墳墓との比較まで検証しています。本論文は、墳丘墓の隔絶化・大規模化をもたらした弥生時代中期末~後期初頭における階層分化の進展といった社会変化に、古墳時代の起点を見出します。この時期により広範な地域的文化圏が相互に対峙する形勢が生じ、それがさらに「全国的」な画一的様相へと変化していくのが、古墳時代の特徴です。本論文はこうした変化の要因として、朝鮮半島・中国大陸からの鉄や威信財などの流通経路の管理・把握を重視しています。

 本論文は、古墳時代の開始を画するのは、規模・労働力の増大およびより小規模で相似形の古墳が広範に見られるようになる箸墓古墳の出現だと指摘し、古墳時代の特質を「ヤマト政権の王を中心に倭人社会が政治的に統合され、膨大な社会エネルギーを投入して築造された共通形式の墳墓記念物によって、その政治秩序と階層秩序が表示された時代」と把握します。その後、巨大前方後円墳の立地場所は大和→河内→摂津→大和と変遷していきます。本論文はこの変遷について、朝鮮半島情勢の変動とも関わる「勢力交替」があったためではないか、と推測しています。さらに本論文は、古墳時代の研究と国家形成論とを結びつけていくよう、提言しています。


●菱田哲郎「古墳時代の社会と豪族」(P203~234)
 本論文は、古墳時代の社会を蓄積されつつある考古学的研究成果(おもに古墳以外)から推測しています。古墳時代には、灌漑水利を通した地域社会の編成過程に重要な意味があり、祭祀の体系もその地域社会の成り立ちと密接不可分な関係にあった、と本論文は指摘します。本論文が古墳時代の転機として想定しているのは4世紀末~5世紀初頭です。この時期にヤマト王権膝下に生産が集中していき、継続的で大規模な生産が始まったことが確認されます。これを交易システムの転換から把握しているのが本論文の特徴で、博多湾貿易からヤマト王権が直接朝鮮半島と交易する体制への転換がこの時期に生じたのではないか、と推測されています。さらに本論文は、この転換は朝鮮半島情勢の変動と倭の朝鮮半島への軍事介入と関連しているのではないか、とも推測しています。


●田中史生「倭の五王と列島支配」(P235~270)
 本論文は、いわゆる倭の五王の時代の日本列島の支配構造とその変遷を、東アジア情勢のなかで検証するとともに、6世紀以降への展望も提示しています。本論文は、大王が有力首長層を圧していく過程を、百済との連携・宋の承認と関連づけています。本論文で注目すべき見解はいくつかありますが、「天下」をめぐる議論は興味深いものでした。

 稲荷山古墳の鉄剣銘に見える倭王武(雄略天皇)の頃の「天下」は中華世界のそれと対立する概念ではなく、むしろ併存するものであり、朝鮮半島南部を視野に含みそこを限界とするものだ、とされます。「治天下大王」は、高句麗の影響を受けてそれに対抗する性格のものであり、中華世界の天下や皇帝と対立的ではないので、倭王武の「天下」に冊封体制からの離脱の契機をただちに認めることはできない、というわけです。

 また、稲荷山古墳の鉄剣銘に見えるヲワケは、北武蔵野首長層で礫槨被葬者との説が採用されています。当時の朝鮮半島や日本列島の諸国の漢文については、戦乱の続く華北から逃れた漢族系知識人やその末裔が担い手だったのではないか、と推測されています。この時代の王統については、特定の血縁には固定されておらず、複数の血縁集団に及んでいたのではないか、との見解が採用されています。


●田中俊明「朝鮮三国の国家形成と倭」(P271~305)
 朝鮮半島における高句麗(その領域は朝鮮半島に限定されず、単純に朝鮮半島の国家とも言えませんが)・百済・新羅の国家形成史を、倭との関係にも言及しつつ、6世紀半ば頃まで概観します。この三国で最も国家形成が早かったのは高句麗で、一時は朝鮮半島南部へも大きな影響力を有しました。続くのは百済で、4世紀と5世紀に一回ずつ都を攻略されますが、倭とも提携しつつ乗り越え、6世紀には支配体制を固めていきます。三国で最も国家形成の遅れたのが新羅で、本格的な国家形成は6世紀になってからです。倭とも関係の深かった朝鮮半島南部の加耶地域では、最後まで統一的な政治勢力が形成されませんでした。

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