今正秀『敗者の日本史3 摂関政治と菅原道真』
『敗者の日本史』全20巻の第3巻として、2013年10月に吉川弘文館より刊行されました。地方支配を中心に国家統治の在り様の大きく変わった9~10世紀について、「勝者」たる揺籃期の摂関政治と絡めつつ、敗者たる菅原道真を中心に描き出した一冊になっています。ただ本書は、道真と摂関政治というか基経・時平に代表される藤原氏北家とを対立的に把握しているわけではありません。つまり、門閥貴族による政治ではなく文人政治を構想した道真が藤原氏の政治力に敗れ去った、という歴史認識は妥当ではない、というわけです。また、宇多天皇と基経・時平との関係も同様で、親政を目指した宇多天皇(上皇)の試みが基経・時平の政治力の前に挫折した、とは把握していません。
本書は全体的に、光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇が道真や藤原氏北家と協調して、変容する社会に対応していった、と強調しています。では、道真の失脚(昌泰の変)を本書はどう解釈するのかというと、正直なところ歯切れのよい解説にはなっていません。当時より道真の失脚は醍醐天皇に責任があると考えられていたらしいことと、平安時代になって儒学・漢詩文の家柄として台頭してきた菅原氏が、長期に亘って自身とその門生によって文章博士の地位を占めたことなどが菅原氏への攻撃につながったことと、道真の異例の出世への反感があっただろう、ということが指摘されています。また、菅原氏が詩人無用論といった形で攻撃されていたことも指摘されています。
本書は9~10世紀を統治体制の転換期として重視しています。戸籍と実態の乖離やそれと関連した国家財政の悪化に象徴される、9~10世紀の社会の変容に対応して、国家は現地に赴任する国司の筆頭責任者たる受領に権限を集中させ、財政の確保に努めます。そのような改革が進展したのが宇多・醍醐朝であり、そこでは讃岐守も務めた道真の貢献もあった、というのが本書の見解です。詩臣を自任していた道真にとって、讃岐守は不本意な役職だったようですが、それでも懸命に務めていた様子を本書は描き出しています。それだけに、大宰府への左遷が道真にとってどれだけの衝撃だったか、千年以上経過した現代人にも何となく分かるような気もします。
本書は、安定的な皇位継承と政務運営を可能にしたと評価する摂関政治の成立過程についても論じていますが、俗説的な見解とは異なるところが多々あります。まず、天皇の大権代行者たる摂政は幼帝清和の即位に対応したものであり、藤原良房は866年に摂政に任命されたのではなく、清和天皇の即位した858年より摂政を務めていたのだ、と本書は指摘します。次に、関白は摂政の経験者を優遇し、その経験を政務に活かすという目的で創始された、と本書は指摘します。このことから、醍醐・村上朝で摂関が置かれなかったのは、天皇の強い親政志向および藤原氏北家との対立(藤原氏北家を抑圧するという政治的志向)が要因ではなく、適任者がいなかったからだ、と本書は主張しています。
この他には、宇多天皇が遣唐使に拘ったのは、遣唐使の途絶えた文徳・清和・陽成という宇多天皇にとって異系統の天皇たち(とはいっても、共に仁明天皇の直系子孫ですが)を超える業績を残し、即位の正統性が疑問視されている自身の正統性を訴える意図があった、との見解が興味深いものでした。本書は道真の漢詩を多く引用しつつ、道真の思惑や当時の政治状況を解明していっており、面白く読み進められました。これまでに読んだ『敗者の日本史』は、敗者からの視点ということもあってか、斬新さがあって面白い巻が多いように思います。全巻購入して読み終えるのにはかなり時間がかかりそうですが、いつかは達成したいものです。
本書は全体的に、光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇が道真や藤原氏北家と協調して、変容する社会に対応していった、と強調しています。では、道真の失脚(昌泰の変)を本書はどう解釈するのかというと、正直なところ歯切れのよい解説にはなっていません。当時より道真の失脚は醍醐天皇に責任があると考えられていたらしいことと、平安時代になって儒学・漢詩文の家柄として台頭してきた菅原氏が、長期に亘って自身とその門生によって文章博士の地位を占めたことなどが菅原氏への攻撃につながったことと、道真の異例の出世への反感があっただろう、ということが指摘されています。また、菅原氏が詩人無用論といった形で攻撃されていたことも指摘されています。
本書は9~10世紀を統治体制の転換期として重視しています。戸籍と実態の乖離やそれと関連した国家財政の悪化に象徴される、9~10世紀の社会の変容に対応して、国家は現地に赴任する国司の筆頭責任者たる受領に権限を集中させ、財政の確保に努めます。そのような改革が進展したのが宇多・醍醐朝であり、そこでは讃岐守も務めた道真の貢献もあった、というのが本書の見解です。詩臣を自任していた道真にとって、讃岐守は不本意な役職だったようですが、それでも懸命に務めていた様子を本書は描き出しています。それだけに、大宰府への左遷が道真にとってどれだけの衝撃だったか、千年以上経過した現代人にも何となく分かるような気もします。
本書は、安定的な皇位継承と政務運営を可能にしたと評価する摂関政治の成立過程についても論じていますが、俗説的な見解とは異なるところが多々あります。まず、天皇の大権代行者たる摂政は幼帝清和の即位に対応したものであり、藤原良房は866年に摂政に任命されたのではなく、清和天皇の即位した858年より摂政を務めていたのだ、と本書は指摘します。次に、関白は摂政の経験者を優遇し、その経験を政務に活かすという目的で創始された、と本書は指摘します。このことから、醍醐・村上朝で摂関が置かれなかったのは、天皇の強い親政志向および藤原氏北家との対立(藤原氏北家を抑圧するという政治的志向)が要因ではなく、適任者がいなかったからだ、と本書は主張しています。
この他には、宇多天皇が遣唐使に拘ったのは、遣唐使の途絶えた文徳・清和・陽成という宇多天皇にとって異系統の天皇たち(とはいっても、共に仁明天皇の直系子孫ですが)を超える業績を残し、即位の正統性が疑問視されている自身の正統性を訴える意図があった、との見解が興味深いものでした。本書は道真の漢詩を多く引用しつつ、道真の思惑や当時の政治状況を解明していっており、面白く読み進められました。これまでに読んだ『敗者の日本史』は、敗者からの視点ということもあってか、斬新さがあって面白い巻が多いように思います。全巻購入して読み終えるのにはかなり時間がかかりそうですが、いつかは達成したいものです。
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