『天智と天武~新説・日本書紀~』第42話「豊璋の兄」

 まだ日付は変わっていないのですが、5月25日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2014年6月10日号掲載分の感想です。前回は、豊璋が鬼室福信を斬首したところで終了しました。今回は、唐の都の長安にて、百済の義慈王の第三王子の扶余隆が、唐の皇帝の高宗(李治)とその皇后の則天武后(武則天)に拝謁する場面から始まります。則天武后はきつい感じの顔立ちで、成人後の藤原不比等を女性にしたような感じの悪相であり、いわゆるモブ顔ではないので、今後も重要人物としてたびたび登場するのかもしれません。高宗の方は、ややモブ顔のような印象を受けましたから、作中では重要人物という扱いではないのかもしれません。

 この拝謁は、唐の劉仁軌が百済復興軍の討伐に扶余隆を連れていきたい、と申し出たためでした。扶余隆ならば、百済の地形・潮の流れなどを知り尽くしているので、唐に有利な情報をもたらすだろう、というわけです。劉仁軌が高宗・則天武后に承認を求めると、高宗は良きにはからえ、と言いかけますが、則天武后は賛成しかねる、と言います。どうも作中では、高宗は凡庸で弱気な人物で、則天武后は気が強く冷酷で聡明な人物として描かれるようです。

 劉仁軌の申し出に同意しなかった則天武后ですが、劉仁軌が熊津城の戦いで百済復興軍を敗走させ、そのために散々唐をてこずらせた鬼室福信が復興百済の王となった豊璋(豊王)に処刑された功績があることから、耳を傾ける価値は充分にある、と言います。則天武后は扶余隆にもっと近づくよう命じ、劉仁軌と共に百済復興軍の討伐に赴いたとして、存分に戦えるのか、と問い質します。もちろんでございます、3年前に百済から長安へ連れて来られて以来、自分は唐に忠誠を誓った人間であり、皇帝・皇后陛下に命を捧げる覚悟です、と扶余隆は答えます。

 しかし則天武后の反応は冷淡で、死ぬ覚悟はどうでもよい、軍人なら当然のことと言い、それよりも、血を分けた弟を殺せるのか、ことによっては死ぬより辛い役目かもしれないぞ、と問います。実弟の豊璋が百済復興軍の将なのでご懸念はごもっともですが、忠誠の証として豊璋の首を取る、と扶余隆は則天武后に誓います。哄笑する則天武后にたいして扶余隆は、お約束します、と答えます。則天武后は哄笑しながら、果たせなかった場合はどうするのだ、と扶余隆に尋ねます。すると扶余隆は、自分の首を差し出します、と答えます。

 扶余隆の様子を一瞬冷ややかに観察した則天武后は、百済復興軍の討伐に扶余隆を連れていってもかまわない、と劉仁軌に許可します。則天武后が高宗に承認を促すと、扶余隆は劉仁軌率いる水軍の副官に任命されました。続いて劉仁軌は倭からの間者のもたらした情報を高宗と則天武后に報告します。倭がまたも兵1万を援軍として百済復興軍に送ろうとし、今度は倭の皇子(中大兄皇子のことでしょう)自ら指揮を執るらしい、と劉仁軌から報告を受けた則天武后は、小癪な、ひねり潰せ、と命じます。とはいえ冷静な則天武后は、兵が足りているのか、劉仁軌に確認します。水軍だけで兵7000人・船170艘でございます、陸軍となると・・・、と劉仁軌が答えると、則天武后は弟の首を忘れるな、と扶余隆に念押しし、扶余隆がはい、と答えると、またしても哄笑します。

 ちなみに、扶余隆はこの後677年に唐より帯方郡の王に任じられています。高句麗滅亡後の唐と新羅の対立により、帯方郡の王に任じられたものの百済旧領に帰れなかった扶余隆は、高句麗(高麗)旧領に拠点を置いた後死にました。扶余隆の孫の扶余敬も後に唐(周)より帯方郡の王に任じられましたが、新羅および後に渤海を建てた靺鞨族に帯方郡の地は分割領有され、百済の王統は途絶えてしまいます。もっとも日本でも、百済王族の子孫は奈良・平安時代にも王族・有力氏族並とまではいかなくてもそれなりの地位を保っており、奈良時代にはぎりぎりで公卿になったこともありました。

 その頃、飛鳥の後岡本宮では、中大兄皇子自ら兵の訓練にあたっていました。兵士は中大兄皇子によりあっさりと馬上から落とされ、情けない、木刀でなければとうに死んでいるぞ、そんなことで唐・新羅連合軍に勝てると思っているのか、春に続き夏の派兵も間近なのだぞ、と中大兄皇子は苛立ちながら兵士を叱責します。その様子を、大海人皇子が冷ややかに眺めていました。

 場面は変わって、大田皇女の屋敷(と思われます)です。大田皇女は生まれたばかりの大津皇子を抱き、お父様がお見えよ、と語りかけます。お抱きになりますか、と大田皇女に尋ねられた大海人皇子は、当分戦で顔も見られなくなるからな、と言って大津皇子を抱きます。大津皇子は元気そうな赤ん坊です。大海人皇子と大田皇女との間の長子である大伯皇女は、お父様のご無事を毎日お祈りしますね、と言います。この時点では大伯皇女は満年齢で2歳半になったかならないかくらいでしょうから、こんなことが言えるとも思えませんが、創作なのでよいかな、とも思います。

 聞くところによると、百済復興軍の総大将が処刑されて結束が乱れているとか、と大田皇女に問いかけられた大海人皇子は、大伯皇女を抱きながら、おかげで兄上(中大兄皇子)の機嫌が悪い、と言います。すると、大田皇女は心配そうな表情を浮かべます。その様子を見た大海人皇子は、心配するな、生まれて間もない皇子や皇女を残しては死ねない、と言って大田皇女を安心させようとします。そこへ鸕野讚良皇女(持統天皇)が、おそらく昨年出産しただろう草壁皇子を伴い、草壁皇子もお忘れなく、と言います。鸕野讚良皇女は息子を出産しても相変わらずの悪相です。草壁皇子は、おとーたん、と言葉を発します。

 鸕野讚良皇女は、こちらと伺ったので来ました、私たちもお邪魔してよいかしら、と姉の大田皇女に尋ねます。すると大田皇女は、どうぞどうぞ、と言って笑顔で歓迎します。大海人皇子・大田皇女・鸕野讚良皇女・大伯皇女・草壁皇子・大津皇子がそろい、大海人皇子が笛を吹くなどしてその晩は楽しく過ごしたようです。その晩は鸕野讚良皇女とその息子の草壁皇子も大田皇女の屋敷に泊り、大伯皇女と草壁皇子が、また大田皇女と鸕野讚良皇女が同じ布団で寝ました。

 妻子が寝静まった頃、大海人皇子は一人で屋敷を出ます。そこへ鵲が現れ、蘇我石川麻呂とその遺志を継いだ大海人皇子の依頼により蘇我入鹿を模した仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)を作った仏師が、ぜひ会いたいと言ってきた、と大海人皇子に伝えます。すると大海人皇子は、私も父上の仏像に会いたいと思っていたところだ、と言います。仏師は、仏像を作っていた洞窟で大海人皇子と鵲を出迎えます。すでに厨子も出来上がり、仏像に化粧も施されていました。仏師は、自分がしたのではない、仏像がそうしてくれと訴えるもので、と大海人皇子に言います。

 完成した仏像には金箔が張られており、職人の作った金銅製の宝冠が飾られていました。大海人皇子は感激した様子でなんと美しい、と言い、褒美は何がよい、と仏師に尋ねます。当初の代金では自分の気が済まない、というわけです。すると仏師は、故郷の新羅に帰りたい、と願い出ます。新羅が倭の敵国となった今では住み辛い、というわけです。孤独なのは故郷でも変わらないが、せめて両親の墓の側で暮らしたい、と仏師は大海人皇子に心情を打ち明けます。

 すると大海人皇子は、戦時下なので朝鮮半島に行くには戦船しかない、と仏師の身を案じます。すると仏師は、近く倭軍が朝鮮半島へと出発するので、ぜひ乗船できるようお取り計らいを、と大海人皇子に願い出ます。大海人皇子は、船中は新羅人を殺すために鍛えられた兵ばかりなのだぞ、と言って留まるよう仏師を説得します。しかし仏師は必死で、この機を逃せば次がない、と言って大海人皇子に頭を下げて改めて願い出ます。

 すると大海人皇子は仏師の帰国を許すことにし、仏師は大海人皇子に深く感謝し、鵲と抱き合って喜びます。その様子を仏像が見ていました(と表現するのは本当はおかしいのですが)。いよいよ倭軍が出発することになり、大海人皇子とともに丘の上から軍を見ていた中大兄皇子が、兵1万・船400艘余、これで朝鮮半島を盗りに行くか、と言うところで今回は終了です。


 今回は年代が明記されていないのですが、白村江の戦いの前で、草壁皇子がそれなりに成長しており、大津皇子が生まれたばかりですから、663年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)であることは間違いなさそうです。鬼室福信が死亡したのが作中ではいつに設定されているのか、明示されていないので判断の難しいところですが、鬼室福信の死が『日本書紀』にしたがい663年6月だとすると、今回は663年の晩夏か初秋の頃となりそうです。

 通説では中大兄皇子も大海人皇子も朝鮮半島へと出陣していませんから、663年8月17日の白村江の戦いまで残りわずかなので、中大兄皇子率いる援軍は白村江の戦いの敗報を受けて解散した、という流れになりそうです。それにしても、斉明帝の喪が明けたにも関わらず、作中ではまだ中大兄皇子が即位していない(通説でもそうですが)のはなぜなのでしょうか。百済復興軍の救援で多忙だったから、という説明になるのかもしれませんが。

 今回、1ページを使って人物相関図が掲載されていました。ツイッターで「朝から快調に2つ入稿。次は、『天智と天武』の人物相関図」との呟きを見かけたのですが、今回のものか、次回以降もしくは単行本に掲載される人物相関図のことなのかもしれません。藤原不比等と武烈王(金春秋)が掲載されていないのは残念でしたが、あまり詳しく盛り込むわけにもいきませかんから、仕方のないところでしょうか。それにしても、鸕野讚良皇女は本当に悪相ですねぇ・・・。同父同母の姉の大田皇女は美人顔に描かれているのですが。

 さて、今回の内容ですが、唐の朝廷がやや詳しく描かれ、高宗と則天武后も登場したのは意外でした。唐は説明文で簡単にすまされるのかな、と予想していたのですが。上述したように、高宗はさておき、則天武后はモブ顔ではなく強烈な個性の持ち主との人物造形のようですから、作中で重要な役割を果たすことになりそうです。何しろ、大宝律令制定後最初の遣唐使の頃の皇帝は則天武后ですから(当時の国号は周となっていましたが)、中大兄皇子・大海人皇子・豊璋という三人の主要人物より後まで生きているわけで、唐と新羅との対立のさいなどにも登場するのかもしれません。何とも強烈な印象を残した則天武后の初登場でした。

 救世観音像や、通説とは異なりおそらく倭に戻って来るだろう豊璋の今後も気になるところですが、今回は大海人皇子とその妻子のやり取りが注目されます。兄上の機嫌が悪い、と大海人皇子が言うと、大田皇女は心配そうな表情を浮かべます。大田皇女は、父の中大兄皇子と共に出陣する夫の大海人皇子の身を案じ、自身と娘・息子の将来が不安になったのでしょうが、父の中大兄皇子のことをどう思っているのか、気になるところです。

 大田皇女は夫を愛しているようですし、父は母方祖父の蘇我倉山田石川麻呂の事件以来大田皇女に冷淡だったようですから、今では夫と二人の子供が大事で、父の身はあまり案じていないのかもしれません。大田皇女の妹の鸕野讚良皇女も夫を愛しているようで、今でも母方祖父と母を死に追いやった豊璋を恨んでいるようですし、姉と同様に父からは冷淡な扱いを受けたのでしょうから、やはり豊璋を重用する父への想いは冷ややかなのかもしれません。これまでの描写からも、今回同じ布団で寝たことからも、大田皇女・鸕野讚良皇女姉妹の仲は現時点では良好なようです。大田皇女の早い死まで、この良好な関係が続くのか、それとも姉妹が対立するのか、気になるところです。

 鸕野讚良皇女の息子の草壁皇子と大田皇女の息子の大津皇子は、今回が初登場となります。生まれたばかりの大津皇子は元気で愛嬌があるようですから、大海人皇子と似ている、と言えそうです。一方の草壁皇子は、やや大人しい感じに見えました。日本古代史創作ものでは、大津皇子が史書にある通り優秀な人物として描かれ、草壁皇子は凡庸で病弱な人物として描かれることが多いように思えます。作中で草壁皇子と大津皇子が今後詳しく描かれることがあるのか、現時点では予想の難しいところですが、もしある程度詳しく描かれるのだとしたら、二人ともよくある人物造形になりそうな予感がします。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック