右田裕規『天皇制と進化論』

 青弓社より2009年3月に刊行されました。本書は、近代日本社会における進化論の受容およびそれに伴う軋轢を、天皇制との関係を軸に概観します。なお、以下の進化論とはダーウィンの生物進化論のことで、スペンサー流の社会進化論を含みません。また、本書では皇国史観という用語が近代日本の大半の期間を対象として使われているのですが、これは皇国史観もしくはそれと通ずるような大日本帝国の根本的な体制を支える歴史概念・言説と解釈するのがよいように思います。この記事では、本書の用例にしたがい、基本的には皇国史観で統一します。以下、本書の内容についてまとめます。


 近代日本(大日本帝国)社会における進化論の受容は、本格的には東大理学部における1877年の講義に始まりますが、キリスト教の影響が小さいゆえに順調だったのではなく、人獣同祖説の進化論と近代日本の根本的統治原理の一つたる皇国史観との矛盾の間で緊張に満ちたものだったので、知識水準の異なる階層の間での受容の様相が違うなど、複雑な様相を呈しており単純な一本道ではなかった、というのが本書の基本的な見通しです。本書は、皇国史観との相克に近代日本社会における進化論の受容の様相・展開の要因を見出しています。

 進化論は近代日本の根本的統治原理の一つたる皇国史観と矛盾するので、近代日本において、個人差はあれども支配層からずっと警戒されてきました。では、そのような危険な進化論がなぜ支配層から全面的に排撃されなかったのというと、同じく近代日本を構築する根本的な統治原理の一つたる近代知としての自然科学の構成要素の一つが、進化論だったからです。もちろん、皇国史観も近代知の一つと言えるわけですが、本書は、自然科学などの(ヨーロッパ由来の)近代知を、伝統知としての皇国史観と対峙させて議論を進めています。

 この二律背反的な統治原理の狭間で近代日本は揺れ動き、時として矛盾するような方針を打ち出しました。しかし、第二次世界大戦後まで射程に入れると、日本社会において、皇国史観は後景に退き(少なくとも戦前よりはその影響力を大きく失い)、進化論は確固たる地位を築いた、というのが本書の見通しです。ただ、第二次世界大戦後についての言及は本書では少なく、基本的には明治維新から第二次世界大戦での敗戦まで、大日本帝国の時代が対象となっています。

 近代日本社会において、20世紀初頭の明治時代後半~末期までには、進化論は社会主義者・国家主義者・無政府主義者・仏教徒・クリスチャンなど多様な知識層にしっかりと浸透していました。それも、浸透していたというだけではなく、ダーウィン熱とでも言うべき現象が生じていました。本書はこの要因の背景として、近代日本における「顕教」と「密教」という二重構造的な知の在り様・教育政策があったことを指摘します。これは、天皇機関説をめぐる議論などで一般にもよく知られているでしょうが、進化論の受容についてもこの構造が大きく影響している、というのが本書の見解です。

 大衆の大部分には皇国史観など建前の教義たる「顕教」だけを徹底して教えこみ、高等教育機関に進んだ少数の学歴エリートには、「天皇機関説」を筆頭とする天皇制の本音たる「密教」を教授して、彼らを近代的な国家運営のできる有能な官僚に養成する、というわけです。この文脈において、進化論は「密教」に属します。「密教」たる進化論は初等教育で教えられず、大衆には知られていないので、知識層にとっては、「無知な大衆」と自らを区別する重要な指標たり得ました。

 国家の根本原理の一つたる皇国史観を否定する理論・思想たり得るという意味でも、進化論は知識層(人文科学系や社会科学系の知識層も含めて)を満足させるものでした。「無知な大衆」の知らない最新の知識や国家の暗部・秘密を自らは知っている、というわけです。当時の知識層やその予備軍が進化論に惹きつけられたのには、こうした事情がありました。大衆の知らない最新の知識をひけらかすことで、自己の卓越性を確認しようとする心性が働いていた、というわけです。

 もっとも、進化論が皇国史観を脅かすとして、神道家や国粋主義者からの進化論排撃はありましたし(クリスチャンからの批判もありました)、支配層も1907年11月にアメリカ合衆国で起きた天長節事件以降はとくに、左翼運動と皇国史観を否定する根拠とされ得る進化論との結びつきを強く警戒しました。したがって、知識層といえども大々的に進化論を称揚することはできず、加藤弘之のように、国体と進化論は位相を異にするもので、両者のどちらか一方を選べという問題設定自体間違っている、として批判を交わすのが精一杯でした。

 「表」では進化論と皇国史観との矛盾を慎重に回避し、「裏」では「本音」を語っていた知識人として、たとえば井上哲次郎がいます。「顕教」の普及に邁進し公には国体の尊厳を謳い上げていた「御用学者」の井上は、一方で、アンケートではダーウィンの著書『種の起源』と『人間の由来』を19世紀最大の著述に推していたり、帝大生相手の講義では、天皇の万世一系を否定したり、皇室をめぐる醜聞を得々として話したりしていたそうです。皇国史観が虚偽であり進化論が真だと自分はよく知っているのだ、と他の知識層に誇示したい欲望に激しく駆られていたのではないか、と本書は推測しています。

 近代日本におけるこうした進化論の受容に大きな役割を果たしたのは、人間を「萬物の霊」などと特別視する旧来的な人類観を、人獣同祖説に基づきながら徹底的に批判し続けた丘浅次郎の一連の進化論の著書でした。丘は、加藤弘之や井上哲次郎よりもずっと先鋭的に、進化論と皇国史観の矛盾を指摘しました。とはいえ、丘は体制内の一員だけに、あからさまに進化論により皇国史観を否定することもできず、巧みな修辞によりぎりぎりのところで皇国史観の否定を示唆します。丘浅次郎の一連の進化論の著書は、20世紀初頭の日本にあっては、まぎれもなく皇国史観へのアンチテーゼの書として存在し、皇国史観を非科学的な物語とみなしていく視点や、人獣同祖説こそ皇室・日本人の起源を明かす真実だとの把握は、丘の登場により一気にその裾野を拡大しました。

 これにたいして、とくに日露戦争後の社会的弛緩への懸念から、国家により企図された国家主義・国家神道体制・皇国史観の強化・徹底が、もう一方の潮流として立ちはだかり、丘の著書も攻撃対象となりました。そうした進化論攻撃のなかには、教典の神話的記述をそのまま史実と把握し、その神話的世界観のもとに進化論を批判・再解釈していったり、科学的な装いを論述に施しながら進化論に対する皇国史観の卓越性を説いたりしたものもあり、近現代アメリカ合衆国の創造論者と似通っていました。両者(やそれに類似した思潮)が近代日本社会を共に支えつつも相反する潮流として時代を規定し動かしてきた、というのが本書の見通しになっています。

 進化論を「密教」としてきた状況が変わってくるのが、1910年代後半以降です。これには、第一次世界大戦が大きく関わっていました。一つは総力戦となった第一次世界大戦の直接的影響で、先進地域のヨーロッパが大規模な戦乱状態となったことで日本でも自力での重化学工業の発展が要請され、日本の産業構造の近代化・工業化の重要な契機となりました。また、さまざまな兵器が開発された衝撃などから、日本の支配層は自然科学の保護・育成と体制への動因の必要性を痛感しました。

 もう一つは、第一次世界大戦の最中に始まった一連のロシア革命の影響もあって、高等教育機関に通う学生の間でマルクス主義が一大ブームになり、知的青年の文化が大正教養主義からマルクス主義へと変化していったことです。すでに1907年の天長節事件の時点で左翼運動と進化論との親和性は支配層にも明らかでしたが、マルクス主義に理解を示す学生たちの間では、皇国史観から脱して唯物論的な識見を築く上での基礎知識として、進化論が位置づけられました。

 左翼運動への警戒感から支配層は進化論を危険思想の一つとして認識し続けていましたが、一方で、自然科学の保護・育成と体制への動因の必要性から、進化論を大々的に弾圧することもできませんでした。第二次世界大戦末期に進化論関連書を軒並み発禁処分にする計画さえ立てられましたが、けっきょく、1930年代どころか1940年代前半においてさえ、進化論関連書が処分されることはありませんでした。近代日本政府は二律背反的な根本的統治原理の狭間で揺れつつも、けっきょくは一方に極端に肩入れできなかった、というわけです。

 自然科学の保護・育成と体制への動員の必要性から、大日本帝国政府は学校教育における進化論の取り上げ方を変えていきます。中等・高等教育では、すでに20世紀初頭の時点で、進化論を理科教育で取り上げるよう、教授要目(今日の学習指導要領に相当)で定め始めていました。中等学校では1902年以降・師範学校では1910年以降・高等学校では1922年以降となります。中等・高等教育の門をくぐった一部の人々にたいしては、進化論と出会う、つまり皇国史観の「非科学性」を知る機会が政府自身の手で一応用意されていた、というわけです。

 一方、初等教育での進化論の扱いは、きわめて消極的なままであり続けました。戦前の義務教育課程(尋常小学校・国民学校)で使われた国定理科教科書で進化論が取り上げられたことは一度もなく、尋常小学校の生徒の約半数が進学した高等小学校の理科の授業でも、一部(全体の8%)の3年制高等小学校を除き、進化論教育は認められていませんでした。

 これは、生徒の知的発達の程度を考慮した結果とも考えられますが、戦後の占領下での進化論教育の在り様は、戦前とは対照的でした。戦後初の国定理科教科書では、6学年用の教材として生物進化論が大きく扱われており、1951年告示の学習指導要領(試案)でも、進化論は中学1年からの教授が指示されています。こうした方針には政治的意図が強くあり、日本国民が合理的精神に乏しく科学的水準の低いことが敗戦を招来した、との反省が背景にあったようです。進化論教育は、教育学的見地ではなく政治的な視座からなされていきました。

 じっさい、小学校用の第一期国定理科教科書の編纂者には丘浅次郎がいたにも関わらず、進化論が取り上げられませんでした。丘浅次郎が意図したのは、科学的思考を大衆の間で広く養成する場としての初等理科教育であり、蔓延する非科学的・前近代的な信仰・迷信を大衆から一掃し、「顕教」の支配から大衆を解放するために進化論を義務教育に導入すべきだ、ということでしたから、当時の支配層の意図とは真っ向から対立していました。丘の論文からは進化論教育の導入にたいする反発が強かったことが窺えるので、支配層・文部省の意図により進化論が初等教育に取り入れられなかったのだろう、と推測されます。

 上述したように、こうした状況は第一次世界大戦を契機に変わります。しかし、初等教育において進化論が取り上げられたのは理科ではなく国語でした。1918年4月から逐年刊行されていった第三期国定国語教科書の最終巻において、ダーウィンを主役にした読み物が採用されます。そこではダーウィンが偉人として取り上げられ、進化論についても簡単に言及されていました。この国語読本は、1923年~1937年まで小学生用の国定教科書に掲載され続けていました。

 しかも、現場の教員向けの教科書の教授指南記事においては、ダーウィンについての国語教材では進化論をこそ詳しく教えるべきだ、とありました。国語読本でのダーウィンの登場は、第一次世界大戦を契機に一般大衆の科学的教養を底上げしようとした文部省の新機軸の一端として把握できます。日本社会において進化論は、制約があり初等理科教育では取り上げられなかったとはいえ、「密教」から「顕教」へと暗黙裡に置き換えられました。

 こうした状況が変わっていくのは1930年代以降で、左翼学生が唯物論の基礎として進化論を受容していったことへの反動もあり、1930年代以降の文部省は、国体観念の強化を第一に置いた学校教育の再編を開始します。これにより、1930年代半ばになると、国体至上主義の台頭に伴い、進化論と皇国史観との矛盾という問題が再燃します。ダーウィンの読み物は1938年に刊行された国定国語読本では採録されませんでした。そればかりか、文部省が進化論への批判を展開するという事態に至ります。

 第二次世界大戦中には、進化論への攻撃は中等・高等教育にも及び、中学校理科教科書では進化論が懐疑的な立場で紹介され、高等学校の教授要綱では、進化学説には批判的検討を行なうよう指示されていました。もっとも、こうした文部省の方針に現場の教員が全員従ったのではないことに注意する必要はありますが、戦時期日本の反進化論運動は、アメリカ合衆国における創造論者のそれをしのぐ結果を残しました。

 1930年代以降に進化論への政府による批判が強まる一方で、青年学校や高等女学校では進化論教育の導入が文部省に指示されるなど、進化論教育への政府の対応は一様ではありませんでした。この背景には、健民健兵思想のもと、優生学に関する知識を国民に浸透させようとする陸軍の意向が強く働いていたようです。優生学が進化論から派生したため、進化論教育が陸軍により推し進められたわけです。皇国史観教育と科学教育に対する国家的需要が最高潮にまで達したことにより、進化論教育に対する支配層の混乱が生じました。

 こうした近代日本における進化論受容の変遷を、昭和天皇をめぐる報道と関連づけて検証していることも、本書の特徴となっています。昭和天皇の生物学者としての顔を戦前の政府は隠蔽していた、もしくは大衆の多くは知らなかった、さらに軍部は昭和天皇の生物学研究に批判的だった、というのが通説になっていますが、戦前の支配層は昭和天皇の生物学者としての顔をマスメディア経由で積極的に宣伝しており、それは戦前の大衆にもよく知られていました。

 天皇の側近や天皇自身が、戦後になって通説に近い証言を好んで行なってきたというか、そうした証言が通説を形成した、という側面があります。じっさい、支配層、とくに軍部の中に昭和天皇の生物学研究に批判的な傾向が根深くあり、日中戦争勃発後に昭和天皇の生物学研究が伏せられていくことも否定できません。しかし、日中戦争勃発以前は、昭和天皇の生物学研究は伏せられていたわけではありませんでした。

 歴史学への関心が深かった即位前の昭和天皇は、天皇になるべき人が皇国史観への疑念を惹起しかねない歴史学を本格的に学ぶことを懸念した当時の支配層により、「より穏当な」生物学を本格的に学ぶことにしました。しかし、上述したように、進化論を構成要素とする生物学にも皇国史観と抵触する危険性があることを、当時の支配層は気づいていました。それでも当時の支配層は、第一次世界大戦後に自然科学の保護・育成と体制への動因の必要性を痛感していたことから、1921年以降、即位前の昭和天皇の生物学者としての顔を本格的に宣伝し始めます。

 生物学者としての昭和天皇を大々的に宣伝するのに協力したのは、マスメディアだけではありませんでした。海軍もまた、日中戦争勃発以前には、この宣伝に積極的に関与していました。一方陸軍も、昭和天皇の生物学研究およびその宣伝に協力しなかったわけでも、それを隠蔽するわけでもありませんでした。しかし、陸軍上層部の中には、大元帥たる昭和天皇の生物学研究を文弱として批判する傾向も出始め、満洲事変後には、「政局にそぐわない」との批判も出てきました。しかし、そうした批判が支配層・大衆の双方で拡大・深刻化し、報道から昭和天皇の生物学研究が消えていくのは、日中戦争勃発後のことです。

 昭和天皇の生物学研究に関する報道は、政府がマスメディアに強制したのではなく、政府は誘導し続けただけでした。マスメディアにとって、皇室の世俗的な部分を伝える報道は読者の関心を強く惹く重要な「商品」だったのであり、戦前のマスメディアが皇室報道を大量かつ日常的に流していたのは、商業主義の論理に基づく自律的な傾向によるものでした。マスメディアによる昭和天皇の生物学研究に関する積極的な報道は、政府とマスメディアの意向が合致してなされたものでした。

 昭和天皇が進化論者であると認識される危険性を冒してまで、支配層が生物学者としての天皇像を積極的に構築していったのは、天皇自らが自然科学を研究しているとマスメディアを通じて喧伝することで、自然科学の知としての正当性を国内に広く訴え、また日本における自然科学の発展を願う天皇の意を、下は僻地の住人から上は帝国大教授にいたるまで、最も端的な形で周知させるためでした。昭和初期の政府が創り上げた昭和天皇のイメージは、進化論と皇国史観の双方を「顕教」に置く当時の文部行政と見事に照応した二元論的性格を持っていました。

 日中戦争勃発後も昭和天皇の生物学研究は続いていました。しかし、それをマスメディアが報ずることは稀になりました。通説が云うような、昭和天皇の生物学者としてのイメージの隠蔽は、日中戦争勃発後に本格的になりました。この時期には、皇室報道そのものが政府の厳しい統制下に置かれます。その背景として、自然科学の軽視ではなく、多難な状況のなか、昭和天皇の生物学研究にたいして軍人のみならず社会全体が冷たい視線を向けるようになったことがあります。昭和天皇の生物学研究は、時局にそぐわない、国務怠慢である、というわけです。ただ、昭和天皇の自然科学の擁護・尊重の姿勢は、隠蔽されたわけではありませんでした。


 以上、本書の見解についてざっとまとめました。俗説では、キリスト教の影響力の少ない日本においては、進化論はすんなりと受け入れられた、との理解が一般的であるように思います。しかし本書からは、日本における進化論の受容が反発も大きい緊張に満ちたものだったことが窺えます。日本における進化論の受容を、「顕教」と「密教」という近代日本における二重の知的構造で説明するのは、やや類型的かなとは思うものの、たいへん興味深いものであり、ひじょうに読みごたえのある一冊でした。

 本書の指摘でとくに興味深かったのは、知識層の心性についてです。本書を読むと、知識層というか知的エリートの心性は現在でもあまり変わらないのではないか、と改めて思います。ただ、現在は近代初期よりも知が広く開かれていて、さまざまな知の分野が広がり、それぞれが深化しているので、ある知がかつての進化論やマルクス主義のような広範に認められる権威とはなりにくく、その意味では現在と近代とでかなり様相が異なるな、とは思います。

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