『天智と天武~新説・日本書紀~』第41話「福信更迭」
まだ日付は変わっていないのですが、5月11日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2014年5月25日号掲載分の感想です。前号は休載だったので、今回までたいへん長く感じられました(笑)。前号の予告にあったように(関連記事)、今回は巻頭カラーとなります。前回は、熊津城を攻めた百済軍が唐軍に敗れ、その情報が中大兄皇子に伝わったところで終了しました。今回はその場面の続きとなります。
使者は豊璋(豊王)からの密書を中大兄皇子に差しだします。そこには、熊津城奪回に向かった兵2万が壊滅し、鬼室福信はわずかな傷を負ったものの生還したことが記されていました。阿曇比邏夫(安曇比羅夫)の安否を中大兄皇子に尋ねられた使者は、戦列に加わらず無事だと報告します。それを聞いた中大兄皇子は、何をしているのだ、城を二つも奪われたと書かれているぞ、と激怒します。
そこへ大海人皇子が現れ、唐や新羅を甘く見た当然の結果だ、と言います。我が国の送った兵が無事なのはせめてもの救いだが、今後はそういうわけにもいかない、さらに敗戦を重ねて城を奪われていくだろう、と大海人皇子は中大兄皇子に忠告します。不愉快そうな表情を浮かべた中大兄皇子は、だからどうなのだと言い、側に控えている大友皇子に矢を渡すよう命じます。
大友皇子は大海人皇子の方に視線を向け、動揺した様子を見せます。これまで作中では、父の中大兄皇子の恫喝にも動揺した様子を見せたことのなかった大友皇子ですが、ここで初めて動揺した様子を見せ、父に矢を渡すのを躊躇います。すると中大兄皇子は、早くしろと言って矢をとり、戦とはそういうものだ、奪ったり奪われたり命を懸けるからこそ面白いのだ、と言って大海人皇子に向けて矢を放とうとします。しかし、大友皇子が中大兄皇子の手を抑え、矢は大海人皇子の足下に突き刺さります。
中大兄皇子・大海人皇子・大友皇子の三人は一瞬沈黙してにらみ合いますが、放せ、と中大兄皇子は大友皇子に命じ、大友皇子は父から手を放します。豊璋はさらなる援軍を求めてきたので大いに応えてやるつもりだ、まず娜大津(現在の博多)で待機している27000人の兵を送り、さらに数万徴集して訓練するが、それでも足りないだろうから自分もお前を道連れにして戦地に赴く、多少の役には立つだろう、と中大兄皇子は自信に満ちた表情で大海人皇子に言い渡します。
息子の大友皇子に呼びかけられた中大兄皇子は、息子の胸ぐらをつかみ、邪魔をするな、息子でも許さないぞ、と恫喝して地面にたたきつけます。大海人皇子は地面に倒れた甥の大友皇子に駆け寄り、自分のためにすまない、と言って起こそうとしますが、大友皇子は無言で叔父の手を払い、父を追いかけます。大海人皇子はそれを黙って見ていました。
百済復興軍の拠点である周留城では会議が開かれており、豊璋は軍の最高司令官を阿曇比邏夫に代える、と通達します。当然のことながら、これまで軍の最高司令官だった鬼室福信は激怒します。百済人の戦がなぜ倭人に指揮されねばならないのか、というわけです。鬼室福信の激怒を予想していただろう豊璋は冷静で、苦渋の決断だったが、この度の敗戦について考えた結果、最良だと判断した、と答えます。
さらに豊璋は、冷静にその理由を指摘します。まず、司令官にもっとも要求されるのは勇猛さより冷静な判断力であり、勝ち戦に慢心して油断しているような鬼室福信は司令官に向いていない、というわけです。次に、他の諸将は鬼室福信に従うのみで助言もできない有様と知り、思いきった改革が必要だと考えた、と豊璋は指摘します。さらに豊璋は第三の理由として、阿曇比邏夫はこの度の敗戦を予見しており、その冷静な判断と分析力は百済復興軍の諸将を上回る、ということを挙げます。
当然のことながら鬼室福信は激昂し、朝鮮半島の地形も分からない倭人ではその判断や分析をとてもできない、と反論します。すると豊璋は、そうだろうからそなたが副官になり補佐に回るのだ、と冷静に言い渡します。我々の目的は百済の再興であり、それ以外は些細なことだ、力を合せ、心を一つにして戦うしか勝ち取る道はないと心得よ、と豊璋は言います。
指揮系統の問題は些細なことではない、と鬼室福信は激昂して反論します。すると豊璋は、些細でないなら、そなたの敗戦責任も追及しなければならない、本来ならば死刑を言い渡されても文句は言えないはず、それを見逃してやると言っているのだからありがたく思え、と威厳に満ちた表情で言い渡します。では司令官交代の話はこれで終わりだ、と言って豊璋が背を向けると、鬼室福信は刀に手をかけようといます。
豊璋はそれを予想していたのか、そうやって道琛を殺し、大海人も殺そうとしたのか、と鬼室福信に問い質します。鬼室福信は激昂して刀を抜き、豊璋に斬りかかろうとしますが、護衛の兵たちに阻まれ、牢に閉じ込められて両腕を縛られた状態で吊るされます。捕えられた鬼室福信は厳しく尋問されているようですが、道琛を殺したことと、大海人も殺して道琛殺害の罪をなすりつけようとしたことと、豊璋も殺そうとしたことは否定し、豊璋に剣を向けたことについては、あまりの侮辱に逆上して剣を抜いただけだと主張し続けます。
そこへ豊璋が訪れ、気分はどうだ、と鬼室福信に問いかけます。いいかげんに認めろ、悔い改めるなら自分も鬼ではない、と豊璋は鬼室福信に言います。豊璋は改めて、道琛殺害・大海人と自分の殺害未遂の件について、鬼室福信に問い質します。しかし、鬼室福信は認めようとしません。そこで豊璋は、倭から百済に戻るさいに鬼室福信と話をしていた家臣(作中では明示されていませんが、百済の二品官である達率の徳執得と思われます)を呼びだし、豊璋は復興までの飾りにすぎず、復興の暁に豊璋が出しゃばるようなら殺すと鬼室福信が言っていた、と証言します。
すると鬼室福信は激昂して、証言をした家臣に唾を吐きかけ、腐った狗め、と罵倒します。鬼室福信は開き直ったのか、殺したければ殺せ、自分なくして百済復興が果たせると思うな、唐や新羅に凌辱されて後悔の涙を流すがよい、あの世からそれを笑って見物してやるわ、と言って哄笑します。そこで豊璋が刀を抜き、鬼室福信を斬首するというところで今回は終了です。
今回は意外と話が進んだ感があります。前回は662年7月(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃までが描かれていると思います。鬼室福信が殺害されたのは、『日本書紀』によると663年6月となります。今回は一気に1年近く進んだことになるのですが、作中では、前回の敗戦から今回の鬼室福信の殺害まで、それほど時間が経過しているように見えませんでした。もっとも、道琛の死亡時期も作中では通説とずれているようですから、時系列については、多少変えているのかもしれません。
今回の鬼室福信の殺害が663年6月だとすると、おそらくは作中でも時期が動かないだろう白村江の戦いは663年8月17日のことですから、次回か次々回あたりで白村江の戦いが描かれるのかもしれません。もっとも、鬼室福信の殺害時期を663年6月よりも前に設定しているとなると、白村江の戦いはもう少し後のことになりそうです。中大兄皇子は自身が出陣する気になっていますが、おそらく史実通り作中でもそれは実現しないのでしょう。
そうすると、今回の鬼室福信の殺害は663年6月のことで、白村江の戦いまで準備が整わなかったので、中大兄皇子自らの朝鮮半島への出陣は実現しなかった、という話になりそうです。前回の百済復興軍の熊津城奪回戦での敗北は、作中では663年春か初夏という設定なのかもしれません。物語として矛盾していたり破綻していたりするのでなければ、時系列を通説に厳密に合致させる必要はないと私は考えていますので、とくに問題のない流れになっていると思います。
豊璋と鬼室福信との対立関係にもついに決着がつきました。豊璋は第三の主人公と言ってよいでしょうが、それでも鬼室福信との関係は予想以上に丁寧に描かれていました。やはり、白村江の戦いは山場との位置づけなのでしょう。作中では豊璋と藤原鎌足が同一人物とされていますので、倭に戻ってくるだろう豊璋と、中大兄皇子・大海人皇子との関係がどのように変化するのか、楽しみです。
中大兄皇子・大海人皇子・大友皇子の三人の関係も今回の注目点で、これまで父の中大兄皇子の恫喝にも動揺した様子を見せなかった大友皇子(作中では満年齢で14~15歳だと思われます)が、初めて動揺した様子を見せました。父が叔父の大海人皇子を殺そうとしたのではないか、と懸念したためでしょうか。現時点では、大海人皇子と大友皇子との関係はなかなか良好なようで、叔父は甥の器量を高く評価し、甥は叔父に父の歯止め役を期待しているようです。
大友皇子が動揺したのは、期待している叔父が殺されそうになったからなのでしょうが、その後に自分を気遣ってくれた叔父に冷淡な態度をとったのは、父を怖れてのこともあるでしょうし、信頼する叔父に醜態を見せてしまった気恥ずかしさもあったのでしょう。大友皇子が叔父を信頼していないとか嫌っているとかいうことではないだろう、と思います。当時と現在とでは、思春期の心性も違うのかもしれませんが、父親に恫喝された無様な姿を信頼する人に見せてしまったら、自尊心の高い人ほど気まずい思いをすることでしょう。自尊心の高そうな大友皇子の反応として、今回の描写はありそうだな、と思いました。
使者は豊璋(豊王)からの密書を中大兄皇子に差しだします。そこには、熊津城奪回に向かった兵2万が壊滅し、鬼室福信はわずかな傷を負ったものの生還したことが記されていました。阿曇比邏夫(安曇比羅夫)の安否を中大兄皇子に尋ねられた使者は、戦列に加わらず無事だと報告します。それを聞いた中大兄皇子は、何をしているのだ、城を二つも奪われたと書かれているぞ、と激怒します。
そこへ大海人皇子が現れ、唐や新羅を甘く見た当然の結果だ、と言います。我が国の送った兵が無事なのはせめてもの救いだが、今後はそういうわけにもいかない、さらに敗戦を重ねて城を奪われていくだろう、と大海人皇子は中大兄皇子に忠告します。不愉快そうな表情を浮かべた中大兄皇子は、だからどうなのだと言い、側に控えている大友皇子に矢を渡すよう命じます。
大友皇子は大海人皇子の方に視線を向け、動揺した様子を見せます。これまで作中では、父の中大兄皇子の恫喝にも動揺した様子を見せたことのなかった大友皇子ですが、ここで初めて動揺した様子を見せ、父に矢を渡すのを躊躇います。すると中大兄皇子は、早くしろと言って矢をとり、戦とはそういうものだ、奪ったり奪われたり命を懸けるからこそ面白いのだ、と言って大海人皇子に向けて矢を放とうとします。しかし、大友皇子が中大兄皇子の手を抑え、矢は大海人皇子の足下に突き刺さります。
中大兄皇子・大海人皇子・大友皇子の三人は一瞬沈黙してにらみ合いますが、放せ、と中大兄皇子は大友皇子に命じ、大友皇子は父から手を放します。豊璋はさらなる援軍を求めてきたので大いに応えてやるつもりだ、まず娜大津(現在の博多)で待機している27000人の兵を送り、さらに数万徴集して訓練するが、それでも足りないだろうから自分もお前を道連れにして戦地に赴く、多少の役には立つだろう、と中大兄皇子は自信に満ちた表情で大海人皇子に言い渡します。
息子の大友皇子に呼びかけられた中大兄皇子は、息子の胸ぐらをつかみ、邪魔をするな、息子でも許さないぞ、と恫喝して地面にたたきつけます。大海人皇子は地面に倒れた甥の大友皇子に駆け寄り、自分のためにすまない、と言って起こそうとしますが、大友皇子は無言で叔父の手を払い、父を追いかけます。大海人皇子はそれを黙って見ていました。
百済復興軍の拠点である周留城では会議が開かれており、豊璋は軍の最高司令官を阿曇比邏夫に代える、と通達します。当然のことながら、これまで軍の最高司令官だった鬼室福信は激怒します。百済人の戦がなぜ倭人に指揮されねばならないのか、というわけです。鬼室福信の激怒を予想していただろう豊璋は冷静で、苦渋の決断だったが、この度の敗戦について考えた結果、最良だと判断した、と答えます。
さらに豊璋は、冷静にその理由を指摘します。まず、司令官にもっとも要求されるのは勇猛さより冷静な判断力であり、勝ち戦に慢心して油断しているような鬼室福信は司令官に向いていない、というわけです。次に、他の諸将は鬼室福信に従うのみで助言もできない有様と知り、思いきった改革が必要だと考えた、と豊璋は指摘します。さらに豊璋は第三の理由として、阿曇比邏夫はこの度の敗戦を予見しており、その冷静な判断と分析力は百済復興軍の諸将を上回る、ということを挙げます。
当然のことながら鬼室福信は激昂し、朝鮮半島の地形も分からない倭人ではその判断や分析をとてもできない、と反論します。すると豊璋は、そうだろうからそなたが副官になり補佐に回るのだ、と冷静に言い渡します。我々の目的は百済の再興であり、それ以外は些細なことだ、力を合せ、心を一つにして戦うしか勝ち取る道はないと心得よ、と豊璋は言います。
指揮系統の問題は些細なことではない、と鬼室福信は激昂して反論します。すると豊璋は、些細でないなら、そなたの敗戦責任も追及しなければならない、本来ならば死刑を言い渡されても文句は言えないはず、それを見逃してやると言っているのだからありがたく思え、と威厳に満ちた表情で言い渡します。では司令官交代の話はこれで終わりだ、と言って豊璋が背を向けると、鬼室福信は刀に手をかけようといます。
豊璋はそれを予想していたのか、そうやって道琛を殺し、大海人も殺そうとしたのか、と鬼室福信に問い質します。鬼室福信は激昂して刀を抜き、豊璋に斬りかかろうとしますが、護衛の兵たちに阻まれ、牢に閉じ込められて両腕を縛られた状態で吊るされます。捕えられた鬼室福信は厳しく尋問されているようですが、道琛を殺したことと、大海人も殺して道琛殺害の罪をなすりつけようとしたことと、豊璋も殺そうとしたことは否定し、豊璋に剣を向けたことについては、あまりの侮辱に逆上して剣を抜いただけだと主張し続けます。
そこへ豊璋が訪れ、気分はどうだ、と鬼室福信に問いかけます。いいかげんに認めろ、悔い改めるなら自分も鬼ではない、と豊璋は鬼室福信に言います。豊璋は改めて、道琛殺害・大海人と自分の殺害未遂の件について、鬼室福信に問い質します。しかし、鬼室福信は認めようとしません。そこで豊璋は、倭から百済に戻るさいに鬼室福信と話をしていた家臣(作中では明示されていませんが、百済の二品官である達率の徳執得と思われます)を呼びだし、豊璋は復興までの飾りにすぎず、復興の暁に豊璋が出しゃばるようなら殺すと鬼室福信が言っていた、と証言します。
すると鬼室福信は激昂して、証言をした家臣に唾を吐きかけ、腐った狗め、と罵倒します。鬼室福信は開き直ったのか、殺したければ殺せ、自分なくして百済復興が果たせると思うな、唐や新羅に凌辱されて後悔の涙を流すがよい、あの世からそれを笑って見物してやるわ、と言って哄笑します。そこで豊璋が刀を抜き、鬼室福信を斬首するというところで今回は終了です。
今回は意外と話が進んだ感があります。前回は662年7月(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃までが描かれていると思います。鬼室福信が殺害されたのは、『日本書紀』によると663年6月となります。今回は一気に1年近く進んだことになるのですが、作中では、前回の敗戦から今回の鬼室福信の殺害まで、それほど時間が経過しているように見えませんでした。もっとも、道琛の死亡時期も作中では通説とずれているようですから、時系列については、多少変えているのかもしれません。
今回の鬼室福信の殺害が663年6月だとすると、おそらくは作中でも時期が動かないだろう白村江の戦いは663年8月17日のことですから、次回か次々回あたりで白村江の戦いが描かれるのかもしれません。もっとも、鬼室福信の殺害時期を663年6月よりも前に設定しているとなると、白村江の戦いはもう少し後のことになりそうです。中大兄皇子は自身が出陣する気になっていますが、おそらく史実通り作中でもそれは実現しないのでしょう。
そうすると、今回の鬼室福信の殺害は663年6月のことで、白村江の戦いまで準備が整わなかったので、中大兄皇子自らの朝鮮半島への出陣は実現しなかった、という話になりそうです。前回の百済復興軍の熊津城奪回戦での敗北は、作中では663年春か初夏という設定なのかもしれません。物語として矛盾していたり破綻していたりするのでなければ、時系列を通説に厳密に合致させる必要はないと私は考えていますので、とくに問題のない流れになっていると思います。
豊璋と鬼室福信との対立関係にもついに決着がつきました。豊璋は第三の主人公と言ってよいでしょうが、それでも鬼室福信との関係は予想以上に丁寧に描かれていました。やはり、白村江の戦いは山場との位置づけなのでしょう。作中では豊璋と藤原鎌足が同一人物とされていますので、倭に戻ってくるだろう豊璋と、中大兄皇子・大海人皇子との関係がどのように変化するのか、楽しみです。
中大兄皇子・大海人皇子・大友皇子の三人の関係も今回の注目点で、これまで父の中大兄皇子の恫喝にも動揺した様子を見せなかった大友皇子(作中では満年齢で14~15歳だと思われます)が、初めて動揺した様子を見せました。父が叔父の大海人皇子を殺そうとしたのではないか、と懸念したためでしょうか。現時点では、大海人皇子と大友皇子との関係はなかなか良好なようで、叔父は甥の器量を高く評価し、甥は叔父に父の歯止め役を期待しているようです。
大友皇子が動揺したのは、期待している叔父が殺されそうになったからなのでしょうが、その後に自分を気遣ってくれた叔父に冷淡な態度をとったのは、父を怖れてのこともあるでしょうし、信頼する叔父に醜態を見せてしまった気恥ずかしさもあったのでしょう。大友皇子が叔父を信頼していないとか嫌っているとかいうことではないだろう、と思います。当時と現在とでは、思春期の心性も違うのかもしれませんが、父親に恫喝された無様な姿を信頼する人に見せてしまったら、自尊心の高い人ほど気まずい思いをすることでしょう。自尊心の高そうな大友皇子の反応として、今回の描写はありそうだな、と思いました。
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