遠山美都男『天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2014年2月に刊行されました。遠山氏の著書をこれまでに10冊以上読んできましたが、その中には壬申の乱を主題としたり壬申の乱に言及したりしたものもあります。本書の基本的な認識・理解は、遠山氏がこれまでにそうした著書などで提示したものと変わっていない、とのことです。じっさい、『日本書紀』において、中国的な王朝交替の枠組みが組み込まれたとか、天智天皇(中大兄皇子、葛城皇子)の位置づけの変更から蘇我氏逆臣(王朝簒奪)説が構想された、とかいった見解は、遠山氏の以前の著書ですでに提示されています。しかし、遠山氏の著書も含むこれまでの壬申の乱に関する先行研究は、『日本書紀』巻28「壬申紀(天武天皇紀上)」がどのような意図や構想のもとに書かれたのか、充分に配慮されてはいない、という問題意識のもと本書は執筆されたそうなので、読んでみる価値があるかな、と思った次第です。

 本書は、壬申の乱が天智天皇の後継の座をめぐる争いだったことは確実であるものの、「壬申紀」はそのように描いていない、と指摘します。「壬申紀」の描く壬申の乱は、我が身を守るために皇位継承権を放棄して出家した大海人皇子(天武天皇)の命を近江朝の「奸臣」が狙い続けたので、大海人皇子は我が身を守るために「奸臣」を討伐すべく挙兵し、正義は大海人皇子の側にあったので、大海人皇子は勝つべくして勝ったとするものだ、というのが本書の見解です。大海人と大友皇子との間には元来対立も確執もなく、若い大友が「奸臣」に擁せられてしまったので、やむを得ず大海人は大友と戦い、大海人の本意に反し、大友は自害に追い込まれてしまった、というわけです。

 本書は、天武が兄の天智の正式な後継者たる大友皇子を自殺に追い込み、その地位と権力を強奪した事実を巧みに隠蔽・緩和しようとした、と指摘します。天武の命により始まった国史編纂の目的は、天武が樹立しようとしている国家体制の来歴と正当性を語ることでしたが、さしあたりの最大の関心事は天武の天皇としての正当性に関わる壬申の乱をどう描くかだった、というわけです。「壬申紀」はある構想のもとに執筆されており、実録の名に値する信頼性の高い史料とは言えない、というのが本書の見解です。

 本書は、その構想とは天武を漢の高祖(劉邦)に擬えることだった、との見解を提示しています。『日本書紀』の「天武紀」が上下二巻構成なのは、『漢書』の劉邦の本紀(高帝紀)が上下二巻構成であることを踏襲したものであろう、と推測する本書は、「壬申紀」において天武が劉邦に擬えられていると考えられる事例を多数列挙します。この構想において、天智王朝(近江朝)は秦王朝に、天智は始皇帝に、大友は秦の二代皇帝(胡亥)に擬えられます。項羽とは異なり、劉邦は秦の始皇帝とその統治体制をおおむね継承しました。「奸臣」により衰亡の危機に瀕した天智王朝(近江朝)を、「奸臣」を取り除くことにより復興させ、つつがなく継承して隆盛を取り戻した、というのが「壬申紀」(および「天武紀下」)の構想だ、と本書は推測します。

 『日本書紀』には、天武が劉邦に擬えられていると解釈できそうな記述が多く見られることや、近江朝の衰退を示唆する記述が見られることなど、本書の指摘には肯けるところが多々あります。ただ、遠山氏の見解に全体的に見られる傾向なのですが、仮説自体には説得力があるものの、それを所与の前提というか自明視してしまうところがあるので、天武を劉邦に擬えているとされる個々の事例については、全てをそのまま受け入れることはできないかな、とは思います。

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