『週刊新発見!日本の歴史』第42号「現代2 日中戦争 総力戦への道」
この第42号は盧溝橋事件から南部仏印進駐の頃までを対象としています。総力戦体制がいかに築かれていったのか、支配層の思惑と大衆の動向を中心に、そこに文学・音楽・絵画・思想などが活用されていったことも併せて解説されています。「新発見」的見解としては、ドイツの中華民国政府への支持・支援は、盧溝橋事件後もしばらく続いていた、との指摘がありますが、これはすでに一般にもかなり浸透しているかな、とも思います。
日中戦争以降に本格化する総力戦体制と、戦後社会との連続性を指摘する見解も、すでに一般にもかなり浸透していると言えるでしょう。この第42号では、社会保障制度における戦前の総力戦体制を、戦後社会との連続性だけではなく、戦時期固有の政策構想としても把握するよう、注意を喚起しています。また、国家総動員体制が日中戦争の長期化により確立していくとともに、戦時期に消費の拡大が進行したことも指摘されています。
この第42号で提示された見解の前提として、盧溝橋事件の直前の時点で、日本社会は好戦的な雰囲気ではなかった、との認識があります。社会保障制度の整備や、文学・音楽・絵画・思想なども活用しての総力戦体制の整備は、国民の自発性を喚起させるためのものでもありました。これと関連して、国民の国体についての認識不足に支配層が強い危機意識を抱いていた、との見解が提示されています。そのため、明治時代に成立した国体論が総力戦体制下にあっては時代遅れとなり、政府は「より合理的」な国体論を国民に提示することになったものの、それが伝統的国体論の側(代表的論者として蓑田胸喜)の強い反発を招来した、と指摘されています。
日中戦争以降に本格化する総力戦体制と、戦後社会との連続性を指摘する見解も、すでに一般にもかなり浸透していると言えるでしょう。この第42号では、社会保障制度における戦前の総力戦体制を、戦後社会との連続性だけではなく、戦時期固有の政策構想としても把握するよう、注意を喚起しています。また、国家総動員体制が日中戦争の長期化により確立していくとともに、戦時期に消費の拡大が進行したことも指摘されています。
この第42号で提示された見解の前提として、盧溝橋事件の直前の時点で、日本社会は好戦的な雰囲気ではなかった、との認識があります。社会保障制度の整備や、文学・音楽・絵画・思想なども活用しての総力戦体制の整備は、国民の自発性を喚起させるためのものでもありました。これと関連して、国民の国体についての認識不足に支配層が強い危機意識を抱いていた、との見解が提示されています。そのため、明治時代に成立した国体論が総力戦体制下にあっては時代遅れとなり、政府は「より合理的」な国体論を国民に提示することになったものの、それが伝統的国体論の側(代表的論者として蓑田胸喜)の強い反発を招来した、と指摘されています。
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