ふざけた発言
今日はもう1本掲載します。過去にネットで明かしたことがありますが、私は酒が心底嫌いで(煙草もパチンコも)、酒を飲みたいとは全く思いません。しかし、「2011 年度の国内酒類市場は、メーカー出荷金額ベースで3 兆6,300 億円(前年度比98.1%)であった」とのことですから(出典)、その経済規模からして、残念ながら日本国内で禁酒令を施行するのはとても無理でしょう。
近年の日本社会では以前よりもましになった感があるものの、酒を飲むことへの同調圧力が依然として強く、辟易とすることがしばしばあります。また、飲酒行為に寛容なのも日本社会の特徴で、後を絶たない飲酒運転も、そうした社会風土に起因するのでしょう。1匹出たら30匹潜んでいると思えとのゴキブリの例えのように、発覚した飲酒運転の背後には、多くの(自身とその周囲のごく一部の人間以外には)気づかれなかった飲酒運転があるはずです。まあそれでも、飲酒運転に関しては、日本社会では以前よりも厳しい視線が向けられるようになった感もあります。
しかし日本社会では、飲酒行為自体には、基本的に相変わらず寛容な視線が向けられているように思います。飲酒は自由な精神性の発露だと言わんばかりの描写も創作品でしばしば見られます。酩酊して判断力が低下しているだろうに、何が自由な精神性の発露だ、と私は思いますが。「酒を飲んでいるので意味不明なところがあったらご容赦を」などといった発言をネットで見かけることもあります。飲酒を理由に掲げておけば許してもらえるのではないか、との甘えがそこにはあるわけで、まあ確かに、日本社会の飲酒にたいする姿勢の傾向を考えると、そうした発言がなされるのも仕方のないところかな、とは思います。
酒が心底嫌いな私は、こうした発言を見かけると、飲酒して不用意に不特定多数に向かって発言するとは何事だ、と不愉快になるのですが、こうした場合でも、発言内容自体を咎めることはそれなりにあっても、飲酒しての発言という文脈で咎めることは少ないように思います。まあ、これは私の主観なので、妥当な見解なのか、自信はありませんが、日本社会において飲酒に甘い傾向があることは否定できないように思います。
前置きがやや長くなってしまいましたが、ここからが本題です。飲酒のうえでの発言なので許してもらいたい、と言わんばかりのふざけた発言は、ネット上だけではなく、書籍でも見かけることがあります。その具体例が小島毅『足利義満 消された日本国王』(関連記事)で、以下に該当箇所を引用します(P104)。
(久米邦武が)『日本外史』をあたかも芝居の脚本(今ならさしずめNHK大河ドラマのシナリオか)のたぐいだとこき下ろし、水戸学の精華たる『大日本史』までもその同類だと斬って捨て、それらをいくら読んだところで、南北朝内乱の原因や、荘園発達の経緯や、そこでの本所領主と武士地頭との抗争や、武家内部での主導権争いの実態は、いっかな了解不能だと断言するあたり、実に実に気分爽快である。読者諸賢よ、司馬遼太郎の小説を何遍読んだところで歴史の真相はわかりませんぞ!(すみません、このあたりの執筆時に酒がはいっております。)
この箇所の執筆時に著者が本当に酒を飲んでいたのか否か、もちろん私には分かりませんが、このような記述が許されると思っている著者(面白い・笑いがとれるとも思っているようですが)もさることながら、それを許してしまう編集者・出版社の問題も大きいと思います。酩酊時の人間の判断力の記録集のような本ならともかく、研究者(とはいっても、著者の専攻は日本中世史ではありませんが)による啓蒙書でこのような記述が許されるべきではありません。このような飲酒への甘い姿勢が、飲酒運転の背景にあると言うべきでしょう。
著者の小島氏は、他にも同書でふざけた発言を繰り返しています。私が小島氏のアンチになったのは、小島氏の見解の多くに賛同できないということ以上に、飲酒しての執筆とのふざけた発言が理由になっています(もちろん、その他のふざけた発言も理由になっています)。まあ、十代の頃に司馬作品を愛読していた自分の経験からも、「司馬遼太郎の小説を何遍読んだところで歴史の真相はわかりませんぞ」との指摘はもっともだな、とは思いますが。
近年の日本社会では以前よりもましになった感があるものの、酒を飲むことへの同調圧力が依然として強く、辟易とすることがしばしばあります。また、飲酒行為に寛容なのも日本社会の特徴で、後を絶たない飲酒運転も、そうした社会風土に起因するのでしょう。1匹出たら30匹潜んでいると思えとのゴキブリの例えのように、発覚した飲酒運転の背後には、多くの(自身とその周囲のごく一部の人間以外には)気づかれなかった飲酒運転があるはずです。まあそれでも、飲酒運転に関しては、日本社会では以前よりも厳しい視線が向けられるようになった感もあります。
しかし日本社会では、飲酒行為自体には、基本的に相変わらず寛容な視線が向けられているように思います。飲酒は自由な精神性の発露だと言わんばかりの描写も創作品でしばしば見られます。酩酊して判断力が低下しているだろうに、何が自由な精神性の発露だ、と私は思いますが。「酒を飲んでいるので意味不明なところがあったらご容赦を」などといった発言をネットで見かけることもあります。飲酒を理由に掲げておけば許してもらえるのではないか、との甘えがそこにはあるわけで、まあ確かに、日本社会の飲酒にたいする姿勢の傾向を考えると、そうした発言がなされるのも仕方のないところかな、とは思います。
酒が心底嫌いな私は、こうした発言を見かけると、飲酒して不用意に不特定多数に向かって発言するとは何事だ、と不愉快になるのですが、こうした場合でも、発言内容自体を咎めることはそれなりにあっても、飲酒しての発言という文脈で咎めることは少ないように思います。まあ、これは私の主観なので、妥当な見解なのか、自信はありませんが、日本社会において飲酒に甘い傾向があることは否定できないように思います。
前置きがやや長くなってしまいましたが、ここからが本題です。飲酒のうえでの発言なので許してもらいたい、と言わんばかりのふざけた発言は、ネット上だけではなく、書籍でも見かけることがあります。その具体例が小島毅『足利義満 消された日本国王』(関連記事)で、以下に該当箇所を引用します(P104)。
(久米邦武が)『日本外史』をあたかも芝居の脚本(今ならさしずめNHK大河ドラマのシナリオか)のたぐいだとこき下ろし、水戸学の精華たる『大日本史』までもその同類だと斬って捨て、それらをいくら読んだところで、南北朝内乱の原因や、荘園発達の経緯や、そこでの本所領主と武士地頭との抗争や、武家内部での主導権争いの実態は、いっかな了解不能だと断言するあたり、実に実に気分爽快である。読者諸賢よ、司馬遼太郎の小説を何遍読んだところで歴史の真相はわかりませんぞ!(すみません、このあたりの執筆時に酒がはいっております。)
この箇所の執筆時に著者が本当に酒を飲んでいたのか否か、もちろん私には分かりませんが、このような記述が許されると思っている著者(面白い・笑いがとれるとも思っているようですが)もさることながら、それを許してしまう編集者・出版社の問題も大きいと思います。酩酊時の人間の判断力の記録集のような本ならともかく、研究者(とはいっても、著者の専攻は日本中世史ではありませんが)による啓蒙書でこのような記述が許されるべきではありません。このような飲酒への甘い姿勢が、飲酒運転の背景にあると言うべきでしょう。
著者の小島氏は、他にも同書でふざけた発言を繰り返しています。私が小島氏のアンチになったのは、小島氏の見解の多くに賛同できないということ以上に、飲酒しての執筆とのふざけた発言が理由になっています(もちろん、その他のふざけた発言も理由になっています)。まあ、十代の頃に司馬作品を愛読していた自分の経験からも、「司馬遼太郎の小説を何遍読んだところで歴史の真相はわかりませんぞ」との指摘はもっともだな、とは思いますが。
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