清原和博氏に関する報道

 ネットでも記事が掲載されています。この報道がどこまで事実なのか、私には判断できるだけの見識はありませんが、万一おおむね妥当だとしても、驚く人は少ないように思います。その点では、江夏豊氏が覚醒剤所持で逮捕された時と似ているように思います。管見の限りでは、江夏氏が逮捕されたことについて、あの当時、遺憾だ・残念だと表現した報道機関はあっても、意外だ・驚きだと表現した報道機関はありませんでした。

 清原氏の打撃成績は、通算本塁打が歴代5位の525・通算打点が歴代6位の1530と立派ですが、清原氏の高校時代やプロ1年目を知る人の多くは、清原氏がけっきょく打率・本塁打・打点で一度もタイトルを獲得できなかったことなどから、もっと良い成績を残せたはずだ、と思うことでしょう。清原氏のプロ1年目の成績は、打率.304・本塁打31・打点78でした。高卒1年目でこれだけの成績を残せた選手はその後出現していませんし、今後もいないのではないか、と思えるくらいの素晴らしい成績です。

 しかし、この1年目の成績が清原氏にとってキャリアハイに近いものになろうとは、本人も含めて予想できた人は当時ほとんどいなかったことでしょう。まあ、その後の22シーズン中、本塁打は4シーズン(その他に本塁打は初年度と同数を2シーズンで記録しています)で、打点は10シーズンで初年度を上回っていますが、打率に関しては、規定打席に達したシーズンで初年度を上回ったのは1990年だけで、それも3厘上回ったにすぎません。清原氏が1年目の打率・本塁打・打点を全て上回ったのは1990年だけです。しかし、清原氏が厳しい四死球攻めにあったのも否定できず、清原氏の才能が「開花」しなかったことを、単に清原氏の「自己責任」と批判もできないように思います。

 現役時代の後半、清原氏にはすっかり「悪玉」イメージが定着していたように思います。清原氏が「善玉」から「悪玉」へと変わったのはいつからでしょうか。巨人に入団してマスコミにさらに注目されるようになったのに、成績不振だった頃からでしょうか。あるいは、西武時代にロッテの平沼投手相手に乱闘事件を起こした時(1989年)から、次第に「悪玉」イメージが浸透していったのか、私も自信はありません。

 しかし、少なくとも高校時代からプロ入り後数年間は、清原氏は「善玉」でありスター選手でした。プロ入りの経緯で同情を集めたこと(対照的に、PL学園で同級生だった桑田真澄氏が長らく「悪玉」として語られることになりました)も、清原氏のスター性を高めたように思います。今の二十代以下の人にとっては、清原氏が「善玉」のスター選手だった、というのは実感しにくいかもしれません。

 1970~1980年代のPL学園は後にプロで活躍した選手を続々と輩出しており(もちろん、1990年代以降もプロで活躍したPL学園出身の選手は少なくないでしょうが)、2年生がレギュラーとなることは容易ではありませんでした。そんな中、清原氏は1年生の夏からレギュラーで4番でした。池田高校の蔦文也監督(当時)だったか他の誰かだったのか忘れましたが、当時、PL学園にはプロが二人いると言った人もいたように記憶しています。もちろん、その二人とは清原氏と桑田氏のことです(KKコンビ)。それだけに、清原氏が後に西武で同僚となる渡辺智男氏(伊野商)に1985年の選抜で抑え込まれたのには驚きました。

 プロ野球への関心をすっかり失ってしまった私ですが、この報道で過去の清原氏のことを思い出し、イメージ・評価の変遷について日頃から考えるところがあったので、ついまとまりもなく述べてしまいました。当時を知る者として、現代のイメージ・評価に違和感を覚えたり残念に思ったりすることがよくあります。逆に、若い世代が当時の評価に違和感を覚えることもあるでしょう。たとえば、清原氏と親しかったらしい元木大介氏が、高校時代にはアイドル的人気を誇るスラッガー(あくまでも高校レベルでのことですが)のスター選手だったことも、今の二十代以下の人にとっては想像しにくいのでしょうなあ・・・。何しろ、1990年代半ばの時点ですでに、元木氏がかつてスラッガーのスター選手だったことは忘れかけられており、4コマ漫画では不人気な曲者として揶揄されていたくらいですから。

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