関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』

 『敗者の日本史』全20巻の第6巻として、2012年10月に吉川弘文館より刊行されました。本書は後鳥羽院をはじめとした敗者の視点から承久の乱を解説しています。承久の乱で敗者となった、後鳥羽院をはじめとして天皇家の人々や貴族・武士のうちで主要な人々について、なぜ鎌倉幕府ではなく後鳥羽院の側に立ったのか、人脈・経歴・当時の状況などから解説されるとともに、敗者となった人々の乱後の動向・運命も言及されています。あまり有名ではない敗者の経歴もやや詳しく取り上げられているのが本書の特徴で、『敗者の日本史』に相応しい内容になっていると思います。

 本書は承久の乱の要因として、公武一統による王権の統合という原理への回帰を標榜した後鳥羽院の原則主義を挙げています。さらに本書は、後鳥羽院の原則主義の根底に、神器なしの即位のために正当性が欠如している、という自身の劣等感があることを指摘しています。また、そうした劣等感が後鳥羽院の勝手な思い込みではなく、貴族のなかに後鳥羽院の帝としての正当性にたいして冷ややかな視線を向ける人々がいたことも指摘しています。本書では言及されていませんが、こうした劣等感とそれに起因する言動は、中継ぎの帝だった後白河や後醍醐にも通ずるものがあるように思います。

 ただ本書は、後鳥羽院は最初から武力を用いるわけではなかっただろう、ということも指摘しています。公武一統による王権の統合という後鳥羽院の目標にとって重要な役割を担ったのが、鎌倉幕府第三代将軍の源実朝でした。和歌など王朝文化への憧憬を隠さない実朝は、後鳥羽院への忠誠を誓っていました。この実朝が暗殺されたことにより、後鳥羽院は最終的に武力解決を選択します。この背景として、鎌倉幕府当初よりの、都との提携・協調と東国での自立という路線対立があり、実朝暗殺事件によりは鎌倉幕府が後者の路線を強めたことがある、と本書は指摘します。よく言われることではありますが、実朝暗殺事件の背景として、実朝が前者に傾倒したことがあるのかもしれません。

 本書は承久の乱について、古代的な朝廷(後鳥羽院側)と(新時代の)中世的な鎌倉幕府との戦いとは解釈していません。ともに武力の質的な差に違いはなく、武力の結集力の問題だった、と本書は指摘しています。じっさい、鎌倉幕府側の有力御家人のなかには去就が定かではない者もいました。本書は鎌倉幕府勝利の要因として、後鳥羽院側が北条義時の討伐を掲げたことにたいして、北条政子というか鎌倉幕府首脳部が幕府討滅との読み替えに成功したこと、およびそうした解釈が受け入れられる状況にあったことを指摘しています。

 それは、御成敗式目の根本原理にもなった「道理」が東国武士社会において受け入れられており、帝・院の意思である綸旨という大いなる権威に抵抗できたからでした。東国武士社会における「道理」は、源頼朝の挙兵以降、鎌倉殿によって所領保全の権利が保障されてきた、という歴史的経緯に由来するものでした。また本書は、基本的に敗者の視点からの解説になっているのですが、勝者たる東国武士社会(じっさいには、朝廷と鎌倉幕府の主力たる東国武士が、それぞれ完全に後鳥羽院側と鎌倉幕府側に分かれたわけではありませんが)にとっての承久の乱の意義として、所領安堵だった治承・寿永の乱にたいして、新恩給与だったことを指摘しています。

 その他に、本書を読んで承久の乱の意義だと思ったのは、武士が複数の主人に仕えることも当たり前だった社会から、一人のみに仕える社会へと変わる転機になったのかな、ということです。鎌倉幕府の御家人である武士は、官職の授与を契機として、院や貴族にも仕えることがありました。そのため、鎌倉幕府の御家人で後鳥羽院側に立った者もいました。権益を伴うということもあってか、官職の授与は武士にとって魅力的であり、御家人たちの任官をどう統制するかというのが、頼朝の頃よりの幕府首脳部の悩み・課題でした。

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