平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』
本日は3本掲載します(その三)。『敗者の日本史』全20巻の第9巻として、2014年2月に吉川弘文館より刊行されました。本書は長篠の戦いのみを検証しているのではなく、戦国時代の軍編成と戦闘の在り様についての所見解の見直しも提示し、さらには勝頼の置かれた立場を勝頼誕生以前にまでさかのぼって武田家と諏訪家の動向から論じており、広い視野に基づいていると思います。以下、本書の見解を備忘録的に述べていきます。
本書は勝頼の置かれた立場が長篠の戦いにおける勝頼の決断に影響を及ぼしていたのではないか、と指摘しています。勝頼は、他国者として扱われていたわけではなく、その地位は武田家中にあっては信玄(晴信)・義信に次ぐものであり、信玄の弟の信繁など武田御一門衆より上位だったとはいえ、生まれた時点で諏訪家の当主候補とされ、本来ならば武田家を継承するはずではありませんでした。
それが、対今川政策をめぐって信玄と義信が対立し、義信が失脚したので、思いもかけず勝頼が信玄の後継者となりました(信玄は今川氏真には戦国大名としての器量がないと判断し、氏真が武田家の宿敵の上杉家と同盟を結ぼうとしたため、今川家との同盟破棄を決断したようです)。本来は諏訪家を継承するはずだった勝頼が武田家を継承したことにたいして、武田家中の反応は微妙で複雑なものでした。では、本来継承することを予定されていた諏訪家での勝頼の立場が盤石だったのかというとそうでもなく、諏訪家嫡流を退けての勝頼の継承だったため、諏訪家やその周辺でも勝頼への反感はあったようです。
そのため、勝頼は武田家中において求心力に欠けるところがあり、それが勝頼の武功・領土拡大への志向を強め、長篠の戦いにおいて、勝頼が撤退ではなく待ち構える織田・徳川軍への突撃を選択したのも、情勢を読み誤って織田・徳川軍を過小評価しただろうということ以外に、自身の求心力の弱さに起因する積極路線が一因なのかもしれません。勝頼は、戦に勝ち、領土を拡大することにより、武田家中における自身への求心力を高めようとしたのかもしれません。勝頼には、信玄の路線を忠実に継承した側面と、独自の政策を志向した側面が認められます。
こうした勝頼の立場の弱さは、武田家当主としての勝頼にたいする家中の違和感にも配慮してか、父の信玄が勝頼を中継ぎ的な立場に位置づけたことにも原因があるようです。この点では、中継ぎとしての役割や正当性に欠けることを自覚していただろう後白河・後鳥羽・後醍醐天皇が、それを克服しようとして、積極的に行動して挫折したことと通ずるところがあるのかもしれない、と思います。
長篠の戦いについて本書は、旧勢力・保守的な武田軍対新勢力・革新的な織田徳川軍という構図を否定し、長篠の戦いの勝敗を決したのは兵力・物量差だと指摘しています。しかし本書は、1990年代以降にとくに盛んになった、それ以前の長篠の戦いに関する通説・俗説にたいする反論・新説をそのまま踏襲するのではなく、新説をも検証し、それをかなりのところ否定しています。
まず本書は、長篠の戦いにおける織田軍の鉄炮の数について、3000挺という旧説を否定した1000挺という新説にたいして、『信長公記』諸本の検証からも、3000挺説が否定されたとは断定できない、と指摘します。次に、旧説の三段撃ちについて、当時の史料に見える「段」とは列に配置することを意味せず、しかるべき場所に配置することを意味し、旧説・新説ともに想定していた三段撃ちがそもそも虚構だったことを指摘します。そのうえで本書は、当時の記録から、鉄炮兵による輪番射撃が行なわれていた、と主張します。
長篠の戦いにおいて、馬防柵を構築して弓・鉄炮で待ち構える織田・徳川軍にたいして、勝頼が突撃を命じたことは愚策とされていますが、本書では、弓・鉄炮で待ち構える敵軍に突撃を仕掛けるのは、当時にあっては正攻法だった可能性があり、長篠の戦いでの勝頼の決断を批判するのが妥当なのか、検証の余地がある、と指摘されています。ただ、上述したように、勝頼が織田・徳川軍を過小評価していた可能性が高いことも、本書は指摘しています。
本書は上述したように、長篠戦いに関する旧説を批判するとともに、新説も批判しています。それは、長篠の戦いにとどまらず、戦国時代の軍編成や戦闘の在り様にも及んでいます。新説では、戦国時代の騎乗は身分の上下を表しており、騎馬武者=指揮官・士官級なのだから、騎馬武者だけからなる行動は、追撃・退却時以外はなかった、とされています。また、そもそも戦国時代には下馬しての戦闘が基本だった、ともされています。
しかし本書では、武田家の騎馬武者は侍身分や一騎合衆のような小身の侍などのみで構成されていたのではなく、被官・忰者・傭兵・軍役衆など、多様な身分から構成されており、騎馬武者=指揮官・士官級とする新説が否定されています。また、戦国時代にも参陣が終了すると直ちに武器ごとの編成が行なわれ、戦況によってはかなり高密度の騎馬武者から構成される部隊が行動することもありました。合戦の最中に騎馬武者を集めての臨時編成も行なわれていたようで、当時の軍編成がある程度以上柔軟だったことを窺わせます。こうした騎馬衆による突入は、戦況が有利な時に行なわれることが多かったようです。東国では馬上の戦闘も一定以上の頻度で起こり得たのであり、下馬しての戦闘が常態化していたとのフロイスの報告は、西国でのことだったのではないか、と本書では推測されています。
本書は、長篠の戦いのみならず、戦国時代の軍編成や戦闘形態についても、旧説だけではなく新説も検証し、新たな理解を提示しています。本書が直ちに長篠の戦いや戦国時代の軍編成・戦闘形態に関する定説になるわけではなく、今後も検証が続いていくのでしょう。しかし、本書が一般向け書籍とはいえ長篠の戦いの研究で画期的な一冊となったことも間違いなく、今後当分は、本書に言及することなく長篠の戦いについて論じることはできないでしょう。
本書は勝頼の置かれた立場が長篠の戦いにおける勝頼の決断に影響を及ぼしていたのではないか、と指摘しています。勝頼は、他国者として扱われていたわけではなく、その地位は武田家中にあっては信玄(晴信)・義信に次ぐものであり、信玄の弟の信繁など武田御一門衆より上位だったとはいえ、生まれた時点で諏訪家の当主候補とされ、本来ならば武田家を継承するはずではありませんでした。
それが、対今川政策をめぐって信玄と義信が対立し、義信が失脚したので、思いもかけず勝頼が信玄の後継者となりました(信玄は今川氏真には戦国大名としての器量がないと判断し、氏真が武田家の宿敵の上杉家と同盟を結ぼうとしたため、今川家との同盟破棄を決断したようです)。本来は諏訪家を継承するはずだった勝頼が武田家を継承したことにたいして、武田家中の反応は微妙で複雑なものでした。では、本来継承することを予定されていた諏訪家での勝頼の立場が盤石だったのかというとそうでもなく、諏訪家嫡流を退けての勝頼の継承だったため、諏訪家やその周辺でも勝頼への反感はあったようです。
そのため、勝頼は武田家中において求心力に欠けるところがあり、それが勝頼の武功・領土拡大への志向を強め、長篠の戦いにおいて、勝頼が撤退ではなく待ち構える織田・徳川軍への突撃を選択したのも、情勢を読み誤って織田・徳川軍を過小評価しただろうということ以外に、自身の求心力の弱さに起因する積極路線が一因なのかもしれません。勝頼は、戦に勝ち、領土を拡大することにより、武田家中における自身への求心力を高めようとしたのかもしれません。勝頼には、信玄の路線を忠実に継承した側面と、独自の政策を志向した側面が認められます。
こうした勝頼の立場の弱さは、武田家当主としての勝頼にたいする家中の違和感にも配慮してか、父の信玄が勝頼を中継ぎ的な立場に位置づけたことにも原因があるようです。この点では、中継ぎとしての役割や正当性に欠けることを自覚していただろう後白河・後鳥羽・後醍醐天皇が、それを克服しようとして、積極的に行動して挫折したことと通ずるところがあるのかもしれない、と思います。
長篠の戦いについて本書は、旧勢力・保守的な武田軍対新勢力・革新的な織田徳川軍という構図を否定し、長篠の戦いの勝敗を決したのは兵力・物量差だと指摘しています。しかし本書は、1990年代以降にとくに盛んになった、それ以前の長篠の戦いに関する通説・俗説にたいする反論・新説をそのまま踏襲するのではなく、新説をも検証し、それをかなりのところ否定しています。
まず本書は、長篠の戦いにおける織田軍の鉄炮の数について、3000挺という旧説を否定した1000挺という新説にたいして、『信長公記』諸本の検証からも、3000挺説が否定されたとは断定できない、と指摘します。次に、旧説の三段撃ちについて、当時の史料に見える「段」とは列に配置することを意味せず、しかるべき場所に配置することを意味し、旧説・新説ともに想定していた三段撃ちがそもそも虚構だったことを指摘します。そのうえで本書は、当時の記録から、鉄炮兵による輪番射撃が行なわれていた、と主張します。
長篠の戦いにおいて、馬防柵を構築して弓・鉄炮で待ち構える織田・徳川軍にたいして、勝頼が突撃を命じたことは愚策とされていますが、本書では、弓・鉄炮で待ち構える敵軍に突撃を仕掛けるのは、当時にあっては正攻法だった可能性があり、長篠の戦いでの勝頼の決断を批判するのが妥当なのか、検証の余地がある、と指摘されています。ただ、上述したように、勝頼が織田・徳川軍を過小評価していた可能性が高いことも、本書は指摘しています。
本書は上述したように、長篠戦いに関する旧説を批判するとともに、新説も批判しています。それは、長篠の戦いにとどまらず、戦国時代の軍編成や戦闘の在り様にも及んでいます。新説では、戦国時代の騎乗は身分の上下を表しており、騎馬武者=指揮官・士官級なのだから、騎馬武者だけからなる行動は、追撃・退却時以外はなかった、とされています。また、そもそも戦国時代には下馬しての戦闘が基本だった、ともされています。
しかし本書では、武田家の騎馬武者は侍身分や一騎合衆のような小身の侍などのみで構成されていたのではなく、被官・忰者・傭兵・軍役衆など、多様な身分から構成されており、騎馬武者=指揮官・士官級とする新説が否定されています。また、戦国時代にも参陣が終了すると直ちに武器ごとの編成が行なわれ、戦況によってはかなり高密度の騎馬武者から構成される部隊が行動することもありました。合戦の最中に騎馬武者を集めての臨時編成も行なわれていたようで、当時の軍編成がある程度以上柔軟だったことを窺わせます。こうした騎馬衆による突入は、戦況が有利な時に行なわれることが多かったようです。東国では馬上の戦闘も一定以上の頻度で起こり得たのであり、下馬しての戦闘が常態化していたとのフロイスの報告は、西国でのことだったのではないか、と本書では推測されています。
本書は、長篠の戦いのみならず、戦国時代の軍編成や戦闘形態についても、旧説だけではなく新説も検証し、新たな理解を提示しています。本書が直ちに長篠の戦いや戦国時代の軍編成・戦闘形態に関する定説になるわけではなく、今後も検証が続いていくのでしょう。しかし、本書が一般向け書籍とはいえ長篠の戦いの研究で画期的な一冊となったことも間違いなく、今後当分は、本書に言及することなく長篠の戦いについて論じることはできないでしょう。
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