フィリップ=アリエス著、杉山光信・杉山恵美子訳『<子供>の誕生』第18刷

 本日は3本掲載します(その一)。みすず書房より1999年12月に刊行されました。第1刷の刊行は1980年12月です。本書は1973年に刊行された新版の翻訳で、原書初版は1960年に刊行されています。副題は「アンシァン・レジーム期の子供と家族生活」です。本書にたいして否定的な評価を下している一般向け書籍も読みましたが、ネット上でのやり取りから、本書の主張を直接知りたいと思い、読んでみました。本書の背景をさらに理解しようと思い、本書にも言及している『中世の身体』も合わせて読んでみました。
https://sicambre.seesaa.net/article/201403article_25.html

 ネットでも検索してみましたが、本書は、中世には「子供」という概念は存在しなかった、というように理解されているように思います。果たしてその理解は妥当なのか、また本書がそう主張しているとして、それは階層・地域差などに関わらず広く認められるのか、つまり一般化できるのか、というのが本書を読むにあたっての私の問題意識です。この地域差とは、カトリックと正教会など信仰の違いも関係してくるヨーロッパ内部においてだけではなく、日本列島や中華地域など東アジアをも念頭に置いています。ここで東アジアを念頭に置いたのは私の知見の狭さに起因するためであり、(サハラ砂漠以南の)アフリカ・西アジア・南アジア・中央アジア・東南アジア・オセアニア・アメリカ大陸などについても、今後時間を作って参考文献を読んでいこう、と考えています。以下、本書についての備忘録・雑感です。

 本書は文献・絵画などを博捜し、「小さな大人」ではなく固有の性格を持つ「子供」との観念が中世には基本的に存在せず、17世紀以降に顕著に見られるようになり、それが学校という教育形態や家族意識の形成・変容と強く関わっていることを主張します。正直なところ、私の見識では本書の妥当性を細部にいたるまで的確には判断できませんが、幅広い分野・地域・時代を視野に入れての考察に私は圧倒され、本書は大きな衝撃をもたらした、との評価に肯けるだけの迫力があるとは思います。

 本書の主張の根幹は、中世において人間は、産衣を着せられて母親や乳母や子守役の絶え間ない世話が必要な時期と遅い離乳時期を経て何年もしないうちに、大人の社会に入る、という見通しです。つまり、単純化して言うと、人間は幼児からいきなり大人になるわけで、子供期が存在しないというか、固有の性格を有する時期と認識されていませんでした。だからといって、子供が無視されたり見捨てられたり軽蔑されていたりしたわけではなく、子供を大人だけではなく少年からも区別する固有な性格・特殊性が意識されていなかった、ということです。現在の子供に相当する年齢の人間は、中世にあっては「小さい大人」として扱われていました。

 本書はその証拠を、さまざまな文献・絵画などに見出します。たとえば、中世において産衣を外された子供が着るのは、近代の半ズボンのような子供特有の服ではなく、大きさこそ異なるものの、同じ階層の大人の服でした。近現代ではとりわけ厳しい子供にたいする性的言動への抑制は、17世紀初めの時点では見られません。本書では、(本書執筆時点での)現代イスラーム社会では中世ヨーロッパと同じく子供にたいする性的言動への抑制は見られない、とされていますが、この点に関しては慎重な判断が必要かもしれない、と私は思います。本書は中世社会の子供と近世~近代にかけての変容を以下のように説明します。


 中世における子供期という観念の欠如の根底には、乳幼児や子供の死亡率の高さがあったようです。両親は、数多くの子供を作り、そのうちの少なからぬ子供が死んでも、それほど深い嘆きや関心は表しませんでした。このように近代とは子供についての観念が異なるというか、そもそも子供という特有の年代を把握する意識がない(もしくはきわめて薄弱な)中世社会においては、家族意識や教育の在り様も、近代はもちろんのこと近世とは大きく異なっていました。

 中世社会において、とくに庶民層は、幼児から脱した人間、つまり近現代で云うところの子供は、外へ見習い修業に出ていました。この実践的な場において、子供は大人社会に入りました。こうした社会慣行では当然のことながら、家族内部、とくに親子の間で深い実存的な感情を培うことはできず、家族は生命・財産・姓名を伝える機能を果たしていましが、意識・感情にまでは深く入り込んでいませんでした。家族内部の結びつきは弱く、社会に対して確たる結束を有する強固な組織ではなかった、というわけです。逆に、家族は社会に開かれていた、とも言えます。こうした社会状況では、子供は放縦とまでは言わないにしても、道徳的または教育的配慮から自由でした。一部の人々からは無秩序と嫌悪されるような状態だったわけです。子供のみならず、当時の社会全体がそうした傾向にあり、階層の上下を問わず遊びも放任されるなど、無秩序なところが多分にありました。

 こうした中世社会においては、学校の役割も近代はもちろんのこと近世とも大きく異なっていました。中世の学校はごく一部の者にだけ開かれていました。当時は見習い修業が教育の役割を担っており、学校に広範な教育機関としての役割は期待されていなかったわけです。見習い修業に出た子供が大人社会に入って「小さな大人」として扱われたように、入学した子供も直ちに大人の世界に入ることになりました。さまざまな階層へと門戸が開かれていた近世以降の学校にたいして、中世の学校が対象としたのは基本的に聖職者・宗教関係者のみでした。医学以外の自然科学や文学の高等教育は存在せず、神学・法学・医学のみが高等教育だったことも、中世の教育の特徴です。

 また、中世の学校には初等教育に相当するものが存在しませんでした。中世や近世初期においては、初歩的・経験的知識は家庭や職場で習得するものでした。その結果、中世の教育には、難易性にしたがって学業上の科目を配列するという段階化されたプログラムが欠如しており、難易性の違う学問が同時に教えられ、さまざまな年齢の生徒・学生が一緒にされていました。入学の年齢はバラバラであり、厳しい規律はなく生徒・学生が放任されていたことも、中世の学校の特徴です。中世の学校は子供の教育をその本質的機能としていたのではなく、聖職者に必要な知識を与えるための一種の実務学校でした。それ故に、学び始めるのに早すぎるとか遅すぎるとかいったことはありませんでした。こうした考えは、18世紀になるまで学校の生活・習俗において支配的でした。

 このように、子供が固有の存在として意識されず、家族意識も教育形態も近代はもちろんのこと近世とも大きく異なる中世社会は、16世紀以降、あるいはさらにさかのぼって15世紀以降、17世紀を画期として、長い時間をかけてじょじょに、しかし長期的視点では大きく変容していきます。この変容は、人口動態の大きな変化の前に生じ、一部の教会・法曹界・学問の世界の人々が大きな役割を果たしました。上述したように、中世社会には全体的な無秩序なところがありました。モラリストたる一部の教会・法曹界・学問の世界の人々は、そうした社会を嫌悪し、改革していこうとします。それは、当初は社会のごく一部の動きでしたが、宗教改革の支持者たちと合流するなどじょじょに広がっていき、ついには社会を大きく変えることになります。

 中世のモラリストは、子供は脆い存在であり、子供を保護するのは大人の義務と考えていました。それはまた、多分に自由放任されていたところのある子供が、ずっと強く規律化されていくことをも意味します。たとえば中世のモラリストにとって、子供に対する性的言動への抑制のなさ・弱さという社会状況は嫌悪すべきものであり、子供の自慰や射精を伴わない勃起は、一部のモラリストにとっては男色にも等しい罪でした。こうしたところから、子供を固有の存在とする認識が広がっていき、人生に入っていくためには充分成熟していない子供を、大人たちと混淆させるのに先立ち、ある特殊な体制のもとに、世間から隔離された体制のもとに置いておく必要がしだいに広く認められるようになります。

 こうして、中世の年齢を無視した聖職者のための実務教育から、初等教育を分離する思想的背景・社会状況が整えられていきます。5~11歳の子供たちを区別してそれより年上の者と分離し、特別初級教育の中軸として彼らだけを集める傾向と、貧民のための慈善学校の設立を促した宗教活動という二つの傾向が、初等教育の起源となりました。17世紀後半には、ある意味で今日の初等教育の起源とも言える「小さい学校」が広範に存在していました。

 学校が広範に存在するようになったとはいえ、(モラリストから見て)無秩序だった社会が簡単に変容することはなく、それは学校においても同様でした。近世の学校では、秩序の確立・規律化・組織化が重要な課題となります。近世の学校における規律は教会・修道院の規律に由来します。それは支配強制の手段よりも道徳的・精神的完成の手段であり、効率性の理由から探求されました。規律は共同作業にとってのみならず、教化と禁欲の価値にとっても必要な条件でした。学校の役割の増大はまた、子供が大人の世界から引き離され、固有の世界を共有して経験することでもありました。

 こうした変化は、子供を「小さな大人」ではなく固有の存在とみなし、子供は脆く無垢な存在であり保護を必要とする、という価値規範を形成・浸透させていきました。両親はもはや、数多くの子供を作り、そのうちの何人かが生き残れば他の者には無関心なままでいる、ということに満足しなくなります。両親は、人生に入るにあたっての準備を、長男のみならず少女も含む他の子供たちにさえ与えようとします。中世の徒弟修業は学校に置換され、親子の結びつきは強くなり、新たな家族意識が生まれます。そこでの家族は、じゅうらいの単に生命・財産・姓名を伝える機能を果たすだけではなく、子供中心の組織へと変わります。

 こうして家族内の関係が緊密になるとともに、家族は排他的性格を強め、じゅうらいよりも社会にたいして閉鎖的になっていきます。中世的な感情の交流は家庭外にあり、隣人間・友人間・親方と奉公人・子供と老人・女性と男性から構成されている、きわめて濃密で熱い環境によって保証されていた、というわけです。中世的家族は17世紀的家族を経て近代的家族へと変容していくわけですが、そこには階層差がありました。こうした変化が進行したのは、おもに貴族・ブルジョワ・富裕な職人や勤労者に限られており、19世紀においてもなお、人口の大部分を占める下層の多くは、中世的家族のような暮らしをしていました。そこでは、子供たちが親許に留まることはなく、家・自宅・家庭といった意識は存在していませんでした。産業革命期の児童労働は、早期に大人社会に入るという中世的社会の慣行と通ずるところが多分にあります。

 それでも、一部富裕層に限定されていた近代的家族意識は、じょじょに社会の他の階層に拡大していきました。しかし、近代的家族意識の一部富裕層と多くの中世的家族との乖離が長い間続いたため、社会のさまざまな分野で分離が進展しました。たとえば、近世になって慈善事業などにより一部の人々以外にも広まった学校教育にたいして、新興のブルジョワジーが自身より下層との混淆を嫌い、自身の独占する寄宿学校や少人数学級の学院へと子供たちを送り込むようになります。

 このようなブルジョワジーの台頭に伴う階級による分離の進展は、教育だけではなく、社会全体における傾向でした。中世社会は雑多な混淆の様相を示していました。中世の高貴な人々は豪華な衣服のままで監獄・病院・貧民を訪れることに何の戸惑いも示しませんでした。遊びもまた、かつては各階層で共通のもの多く規制も緩かったのに、上層では一部が残る一方で他が廃れていき、そうした上層で廃れた遊びが、下層で残っていくこともありました。また、階層による違いだけではなく、年齢による違いも生じており、上層の大人の間では廃れた遊びが、上層の子供や下層に残ることもありました。

 子供の固有性を見出すにいたった社会の規律化・規範化のなかで、階層だけではなく年齢による区分でも、遊びにかぎらず相応しい行為と相応しくない行為が峻別されていくようになりました。遊びの峻別については、その一部はすでに中世から進行していた現象ですが、近世にはさらに進行していきました。ただ、これには地域差もあり、たとえばフランスにおけるこうした遊びの変容にたいしてイギリスでは、貴族が古い遊戯を見捨てず改変していき、19世紀にブルジョワジーと共に「スポーツ」を確立します。

 服装についても、17世紀にはまだ庶民特有の服装はなく、地方独特の服装もありませんでした。貧民は施しを受けた衣服や古着屋で買った衣服を着ていました。18世紀になり、富裕者と貧民の間で意識・間隔の上での格差が著しく強くなり、身体的な差も大きくなりました。ブルジョワジーや貴族の間では近世になって子供期特有の服装が少年に限って出現していましたが、庶民の子供たちは大人の服装をしていました。最初の子供服はその1世紀前には大人たちが着用していたものであり、次第に子供だけしか着用しなくなっていきました。

 中世の古い社会は、最小の空間のなかに諸々の生活様式を最大限に集中させ、もしそれが社会的に糾弾されないなら、まったくかけ離れて身分の違う人々を、統一的に近づけていました。これと反対に、近世の新たな社会は各々の生活様式ごとにとっておかれる一つの空間を保障し、その空間内では支配的性格が尊敬され、一つの規約的なモデル・理想とされるタイプを真似しなければならず、そこから破門される危険を冒してかけ離れたことを行なってはいけない、と理解されていました。家族の感情・階級の感情・人種の感情は、多様性にたいする同一の不寛容さの表明として、また画一性への同一の配慮の表明として出現します。


 本書は以上のように中世社会の子供と近世~近代にかけての変容を論じます。正直なところ、重要な論点でも汲み取れなかったものも少なからずあるでしょうし、的確な要約にはなっていないところが多分にあるかもしれませんが、私の見識・能力では、本書の論点を詳しく的確にまとめようとすると、あまりにも時間がかかりそうだったので、とりあえず今回はこれで切り上げ、暫定的に以上のようにまとめておきます。今後、何回か読み直していけば、また新たな発見ができそうではありますが、今回はこれを踏まえて雑感を述べていきます。

 本書を読むと、中世のヨーロッパにおいて人間は幼児からいきなり「小さな大人」になるとの印象を受けます。その意味で、中世のヨーロッパに近代的な意味での子供観は皆無もしくは希薄というよりも、そもそも子供という概念自体が希薄なように思います。まあ、私には本書の見解の妥当性を的確に論じられるだけの見識はありませんが、近世以降と比較して、中世ヨーロッパにおいて子供を年齢に基づく固有の区分と把握する意識が希薄なのは否定できないだろう、と思います。

 それが変容していく起点として、人口動態の大きな変化ではなく、一部の教会・法曹界・学問の世界の人々の世界観・倫理観が挙げられ、この新たな動きと宗教改革の支持者たちとの合流が指摘されているのが、興味深いところです。14世紀のペストの大流行は影響していないのか、気になるところではありますが、現時点では素人の思いつきにすぎません。それはともかくとして、本書を読むと、ヨーロッパにおいては、無秩序な中世から秩序ある規律化・規範化されていった近世を経て、近代が到来する、という大まかな印象を受けます。子供期が強く意識されるようになったのも、その大きな変化の一環なのかな、と思います。

 ただ、そこには階層差があったことも確かで、本書を読むと、近世になって規範・行動・表象などの点で、中世よりも階層の分離が強化されていった、との印象を受けます。未開で自由な中世から文明的で階層化された近世を経て、近世では少数派だったブルジョワジーの規範の多くが、近代になって広範な階層に浸透し、近代国民国家が成立していったのかな、との大まかな見通しを持ちました。まあ、現時点ではあくまで私の大まかな印象論にすぎないので、今後さらに関連書籍を読んでいかないといけませんが。

 近代教育の起源とその方向性については、考えさせられました。子供期を見出し、学校制度の拡大へとつながる変化の起点となったモラリストの意識が、無秩序への嫌悪に基づいていたことを考えると、学校制度において規律化が強まっていき、ついには軍隊の規律が導入されることさえあったのは、当初より方向づけられていたのかな、とも思います。また、古い価値観を引きずり無秩序に傾きがちだった下層の子供たちとの共学を嫌い、新興のブルジョワジーが自分たちの独占する分離・隔離された学校を築いていこうとしたのも、子供期を見出し、学校制度の拡大へとつながる変化の起点となった問題意識からすると、当然の傾向だったのかもしれません。その意味では、中世ヨーロッパのモラリストに近代国民国家の源流の一つを見出せそうです。

 日本の中世~近世への移行も、未開から文明へという図式で把握されることがありますが、本書を読んで、ヨーロッパのモラリストに相当するのが日本では儒者や徳川綱吉と言えるのかな、とも思いました。ただ、中世ヨーロッパと中世日本や前近代中国とでは、子供についての観念が大きく異なるように思いました。本書はイスラーム社会に多少言及していますし、アフリカや中国にもわずかながら言及しているとはいえ、基本的にはヨーロッパのみを対象としています。その意味で、中世もしくはそれ以前において、子供を年齢に基づく固有の区分と把握する意識が希薄だった、との見解が一般化できるかというと、難しいように思います。また、時代による変容にも注目しなければならず、本書はヨーロッパにおける古代と中世との違いを示唆しています。その意味でも、一般化は難しいでしょう。この問題については、『中世の身体』についての雑感で述べることにします。
https://sicambre.seesaa.net/article/201403article_25.html

 本書の主題ではないのですが、私が本書を読んで最も興味深いと思ったのは、古代と中世との区分についてです。本書では古代への言及は少ないのですが、子供観や教育に関して、中世を古代とも(当然のことながら近世・近代・現代とも)違った固有の時代相と把握しています。読み始める前に、古代地中海世界における家庭教師の重要性(もちろん一部の上層だけのことでしょうが)が念頭にあったので、子供や教育に関して、古代と中世を異なる時代相と把握する本書の見解には納得できるところがあります。

 本書は、学校の構造・教育形態は、古代と中世とで根底的なところで断絶している一方で、中世から現代までは断絶がなく、感知されないような修正の積み重ねにより移行している、と指摘しています。中世文明は古代人たちの教育を完全に忘れ去っていた、というわけです。また本書は、新石器時代の年齢階級やヘレニズム文明にあった教育などは、子供の世界と大人の世界との間の差異や移行を想定していたし、その移行は入門儀礼や教育により達成されるものだったのに、中世文明はこの差異を理解せず、そうした教育という観念を持たなかった、とも指摘しています。本書の見解が妥当だとすると、古代から中世へのこうした変容がいかなる契機によって生じたのか、気になるところです。

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