呉座勇一『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』

 新潮選書の一冊として、新潮社から2014年1月に刊行されました。モンゴル襲来から応仁の乱までの戦争から見た日本社中世史となっています。本書を貫くのは、戦後歴史学、とくにマルクス主義的な「階級闘争史観」と意識的に距離を置こう、という姿勢です。本書のこの姿勢の前提として、1980年代以降、「階級闘争史観」はある程度克服されたように見えても、今でも研究者たちを拘束しているところがあるのではないか、との認識があるようです。そのため、「階級闘争史観」と意識的に距離を置くことにより、視野を広げられるのではないか、というのが本書の意図です。

 当然のことながら、本書もまた現状認識・現代社会における問題意識から出発しています。一見するとハト派的な「平和外交」よりもタカ派的な「断固たる措置」の方が魅力的なのは当然であり、カッコ良さで張り合っても護憲派には勝ち目はない、と指摘する本書は、それでも、海外に派兵するような「勇ましく毅然とした」仮想の日本よりも、現実の戦後日本の歩みの方が断然マシだった、と主張します。

 本書は、ハト派こそ現実主義に立脚すべきであり、「一点の曇りもない清らかな平和」を語ることはやめよう、と提言します。平和をことさらに賛美するから無理が生じるのであり、ダサくてもカッコ悪くても戦争よりは良い、との身も蓋もないスタンスが望まれる、というわけです。単なる損得勘定のような「不純な」厭戦気分がしばしば戦争を抑止した、と本書は指摘します。「完璧な平和」を追い求めることは、かえって戦争を招来する危険がある、と指摘する本書は、政権の身の丈を超えた理想を追求して破滅した例として、後醍醐天皇や足利義教ら挙げています。以下、本書で興味深いと思った指摘について、備忘録的に掲載しておきます。


●モンゴル襲来当時、大規模な戦争から遠ざかっていた鎌倉幕府は「平和ボケ」していました。

●文永の役におけるモンゴル軍優勢との見解は虚構であり、初戦はモンゴル軍の事実上の敗北とみるのが妥当でしょう。これと関連して、一部で指摘されている、文永の役のモンゴル軍は威力偵察に過ぎず、撤退は予定通りだった、との見解も疑わしいでしょう。モンゴル軍が撤退したのは、日本側の抵抗が予想以上に強力だったからだと思われます。

●モンゴル襲来以降の日本社会の「戦時体制」を指摘し、南北朝時代との連続性を強調する見解は説得力に欠けます。ごく普通の武士も本格的に「戦争の時代」を体験したのは南北朝時代になってからです。

●「悪党」は何らかの特定の属性・身分を表しているのではなく、基本的にはレッテル貼りです。「悪党」とは、ある人々を「悪党」と呼んだ当事者にとって都合の悪い・敵対的な存在であり、曖昧な概念でした。

●武士たちは必ずしも、積極的に戦ったわけでも、上昇の機会として戦乱を歓迎していたわけでもありません。厭戦気分もまた、武士たちの重要な側面でした。

●分割相続→嫡子単独相続は鎌倉時代後期以降に不可逆的に進行したのではありません。騒乱の激化・長期化した南北朝時代には、嫡子単独相続から分割相続へと移行する傾向も見られました。

●北畠親房は武士の「心情」の理解できない「保守的」な人物であり、武士にたいして「上から目線」だったので関東で敗れ去った、という見解は妥当ではありません。北畠親房は現実を把握したうえで自身の文才を活かして南朝の勢力拡大に努めたのであり、その点では北朝方の今川了俊も同様でした。

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